「素晴らしさある映画でした!」ぼくのお日さま komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
素晴らしさある映画でした!
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
結論から言うと素晴らしさある映画でした!
今作の映画『ぼくのお日さま』は、きつ音の主人公・タクヤ(越山敬達さん)が、フィギュアスケートの練習をしているさくら(中西希亜良さん)にどこか憧れの眼差しを向けて、自分もフィギアスケートを見よう見まねで始め、それを見ていたさくらのコーチの荒川(池松壮亮さん)がタクヤをフィギュアスケートの世界に導くという物語です。
さくらはコーチの荒川に好意を持っているのですが、なぜコーチの荒川がその後にタクヤを熱心に教えているのか、さくらは初め疑問を持っています。
しかし、主人公・タクヤの次第に上達するスケートによって、さくらとスケートがシンクロして行き、さくらが初め荒川に抱いていたタクヤに対する疑問も乗り越えられ解消されて行きます。
そして主人公・タクヤとさくらとコーチの荒川の3人の関係性は、美しいスケートによってシンクロ的に良好になって行きます。
ところが、タクヤとさくらとのアイスダンスのバッジテストの直前に、さくらはコーチの荒川が五十嵐(若葉竜也さん)と荒川の車の中で親密にしている場面を見てしまいます。
そしてさくらは、荒川が同性愛者であることを認識し、荒川が同性を好んでいるからこそタクヤにフィギュアスケートを教え始めたのではないか、との当初の疑問の答えらしきものに行きつきます。
その結果、さくらは荒川に「気持ち悪い」と言って荒川から立ち去り、タクヤとのバッジテストにも行かないで、荒川とのコーチの関係も解消します。
なぜなら、さくらはこの時、コーチの荒川に抱いていた淡い恋心と、タクヤとの美しいスケートを通しての私心ない関係性を、同時に壊されたと感じてしまったと思われるからです。
荒川は、タクヤに真っすぐなさくらへのあこがれを感じ、そのタクヤの想いを守りたいと、タクヤをフィギュアスケートの練習に導いたことを、後に五十嵐に告白しています。
つまり、さくらの荒川へのタクヤに対する疑念は、実際は誤解でした。
しかしさくらはそれを知らないまま、荒川もコーチの職を失い、この地を立ち去ることになります。
主人公・タクヤも、さくらが(きつ音でもある)自分とスケートを一緒にするのが嫌だったのかな、との思いを、さくらが来なかったバッジテストの会場で口にします。
今作は、荒川が現役のフィギュアスケーターだった時の1994年のカレンダーが劇中で出て来ますが、おそらく映画の時代設定はそこから考えると2000年前後で、舞台は北海道だと推察されます。
この映画の作中では、2000年前後の設定でありながら、きつ音の主人公・タクヤは周りから受け入れられているように描かれています。
しかしながらこの時代は、荒川のような同性愛者に対しては、さくら含めて無理解が横行していたと映画の後半でも描かれていたと思われます。
その後、春になって主人公・タクヤは中学生になり、荒川はタクヤとのキャッチボールの後にこの街を去ります。
そしてタクヤは、久々にバッジテストに来なかったさくらと映画のラストシーンの路上で再会します。
もちろん直接のこの映画後半の顛末のトリガーは、荒川と五十嵐との関係を目撃したさくらが、誤解の上に荒川とタクヤに引いてしまっています。
しかしながら私には、2000年前後の時代の同性愛者に対する偏見の雰囲気の責任を、全て今作のさくらに負わせられないとも感じながら、映画を最後まで観ていました。
おそらく今作の奥山大史 監督もそう考えて、映画ラストシーンのタクヤとさくらとの互いの正面のカットバックは、最後にタクヤの表情からさくらには切り替わらず、タクヤの視線が2024年の現在に生きる観客である私達に向けられたカットのままで映画の本編は終わりを告げます。
この映画『ぼくのお日さま』は、前半は3人が作り出す美しいスケートによってちょっとした疑問は解消され芳醇で良好な3人の関係性を作り出していたのですが、後半の荒川の同性愛に関する疑念を解消させる美しい解決策に関しては、映画の中で示されないまま映画は終了してしまいます。
しかしながら、2000年代のこの映画の舞台では不可能だった後半の美しい解決策は、現在を生きる観客の私達であれば、映画の中のさくらに代わって(あるいは、さくらと共に)生み出すことが出来てタクヤたちに伝えられるのではないか、そのような可能性が現在の私達に期待されて映画は終わったと考えられます。
前半のやさしさと、後半の残酷さと、未来(現在)への希望が、この映画を優れた作品にしていると思われました。
劇的な展開がもう少しあればとも思われ今回の点数にはなりましたが、作風的にはこれで正解とも言え、やはり素晴らしい映画だったと、鑑賞後にも僭越思われました。