「今年の邦画で私的暫定1位。予備知識は少なめ推奨」ぼくのお日さま 高森 郁哉さんの映画レビュー(感想・評価)
今年の邦画で私的暫定1位。予備知識は少なめ推奨
映画「ぼくのお日さま」に惚れ込んだ。脚本・撮影・編集も手がけた奥山大史監督、長編第1作「僕はイエス様が嫌い」は自主制作だったからこの長編第2作で商業映画デビューとなるが、弱冠28歳にしてこの完成度に驚かされる。冬の始まりを告げるひとひらの雪の結晶のように、完璧で無駄のない美しさ。映画は光を操る芸術形式だということを改めて思い出させる、光と影の見事なコントロールに、スモークも活用した空間と空気感の演出の巧みさ。
可能であれば予備知識なしで登場人物たちに出会い、彼らを知り、寄り添うような気持ちでひと冬の出来事と感情を一緒に体験してもらえたらと願う。とはいえ人によって映画の好き嫌いは異なるし、時間もお金も有限なので、事前に自分の好みに合うかどうかを知っておきたいというのもよくわかる。最初に、これらの過去の映画が好きだったら本作もきっと気に入るはず、というのをいくつか挙げてみると、まず奥山監督が影響を受けたと明言しているイギリス映画「リトル・ダンサー」。ほかに共通要素があるのは、岩井俊二監督作「花とアリス」、橋口亮輔監督作「恋人たち」、押見修造原作・湯浅弘章監督作「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」あたりか。
本作はミステリ仕立てでもないしどんでん返しなどももちろんないのだが、以降は当レビューを読む方の意向や状況に合わせて【1】ネタバレなしのトリビアなど【2】予告編や解説文でも分かる程度のストーリーの鍵になる要素【3】軽いネタバレを含むレビュー、の3段階で構成するので、鑑賞前・鑑賞後などそれぞれの事情で読み進めていただければありがたい。(あと、だいぶ長いので、できればお時間のあるときに)
【1】ネタバレなしのトリビアなど
・主要な登場人物は、小学6年生のタクヤ(越山敬達)、中学1年生のさくら(中西希亜良)、スケートリンクでさくらをコーチする元フィギュアスケート選手の荒川(池松壮亮)の3人。彼らが氷上を滑る姿を並走しながらスムーズに流れるようにとらえるカメラワーク(そのおかげで一緒に滑っているような気分になれる)が本作の見所のひとつでもあるが、奥山監督がスケート靴で滑りながら撮影している(映画公式サイトにメイキング動画あり)。監督自身が幼少期にフィギュアスケートを習っていたそうで、その頃の経験が脚本に反映されている。
・越山敬達は2009年生まれ、中西希亜良は2011年生まれ。それぞれ13歳と11歳だった撮影当時は中西の方が背が高かったので、さくらが1学年上という役の設定に違和感がなかったが、2年ほどの間に越山の背が伸びて中西を抜いてしまったとか。元々キャスティングには運や縁がつきものだが、2人のキャスティングと撮影時期のタイミングの良さには奇跡的な巡りあわせも感じてしまう。
・舞台は雪国の架空の町という設定だが、本編中に実在の施設の名称が映るので、北海道のどこかだろうとたいていの観客は思うはず。たとえば荒川が同居人と買い出しに行く南樽市場(なんたるいちば)はJR南小樽駅の近く、アイスダンスのテスト会場になるセキスイハイムアイスアリーナは札幌市中心部から少し南の真駒内にある(さらに詳しいロケ地の情報については、小樽フィルムコミッションのサイトでロケ地マップが公開されている)。
・時代設定について。フィギュア選手時代の荒川の写真が掲載された1993年のカレンダーが映るので、その数年後だろうとまず推測できるが、その後スケートリンクの事務室内に映る2月のカレンダーの曜日から、うるう年の1996年だと特定できる。ちなみに奥山監督の誕生日は1996年2月27日で、時代を決める1つの材料にはなったかもしれない。とはいえ、この時代を選んだのにはより重要な理由があると考えられるが、それについては後述。
【2】予告編や解説文でも分かる程度のストーリーの鍵になる要素
・タクヤに軽い吃音があるのは、当サイトの解説文などでも触れられている通り。吃音があると他者とのコミュニケーションが難しくなることもあるだろうが、だからこそ誰かに出会い心と心が通うときの喜びも特別になる。その点で、「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」に通じる魅力がある。
・奥山監督はハンバート ハンバート(佐藤良成と佐野遊穂の夫婦デュオ)が2014年に発表した「ぼくのお日さま」を聴き、自身がフィギュアを習った体験を反映した主人公の少年に吃音持ちという設定を加えた。その後奥山監督は佐藤良成に手紙を書き、主題歌としての同曲の使用と映画のタイトルとしての使用を快諾してもらえたという。「ぼくはことばが うまく言えない/はじめの音で つっかえてしまう」という歌い出しの同曲が流れるエンドロールでは、歌詞の文字がアイスダンスを踊っているかのようにくるくる、すいすいと流れて表示される。歌の内容と優しい歌声に相まって、この遊び心もまた映画の余韻に貢献している。
・ハンバート ハンバートの佐藤良成は劇中音楽でも参加。オリジナル曲2曲を提供したほか、3人が天然のスケートリンク(ロケ地は苫小牧市の丹治沼で、地元の建設会社が除雪し水を張って氷面を平らにした)で滑るシーンで流れるThe Zombiesの「Going Out of My Head」も提案したという。同曲のオリジナルはLittle Anthony&The Imperialsという米国のR&Bボーカルグループが1964年に発表したものだが、これを英国バンドのThe Zombiesが1967年にカバー。結果、60年代ブリティッシュロックとモータウンサウンドが混じったような明るいポップナンバーとなり、「君のことばかり考えて頭がおかしくなる」と繰り返される歌詞も相まって、陽光が降り注ぐ氷上で3人がはしゃぐ多幸感に満ちたシーンにぴたりとはまっている。
【3】軽いネタバレを含む解説など
ここから先で触れる内容は、事前に知っていると本編中で観客が自ら気づいたり驚いたりする楽しみを損ねてしまうので、できれば鑑賞後に読んでもらえたらと願う。
・90年代に設定された理由・その1:先述のように1996年2月を含む冬の数か月間(より正確には95年の冬の始まりからタクヤが中学に進学する96年4月まで)に時代が設定されているが、この年に生まれた奥山監督が実際にフィギュアスケートを習ったのは2000年代のはず。実体験の時代よりも前にしたのには、主に2つの理由が考えられる。第1は、荒川の台詞にもあったように、日本でのフィギュアの競技人口における男女比にまつわる事情。2000年代に入ると髙橋大輔選手や織田信成選手などの活躍で徐々に男子の競技としても広く認知されていくが、90年代にはまだ「女子がやる競技」という世間一般の偏った認識があった。そうした時代背景が、フィギュアを始めたタクヤに対する周囲の反応に描き込まれている。
・90年代に設定された理由・その2:これについては序盤から少しずつ繊細に伏線が張られているので、本当なら観客それぞれに鑑賞中のどこかで気づいてほしい要素。たとえ見過ごしていたとしても、やがてはさくらと同じタイミング、南樽市場の前の橋で知ることになるだろう。その要素とは、荒川が同性愛者であり、同居人の五十嵐(若葉竜也)とパートナーの関係であること。映画後半は、同性愛者への偏見から発せられる心ない言葉(言葉の暴力と言ってもいい)が3人の物語を大きく変えていく。そうした性的マイノリティーに対する偏見と差別は90年代から2000年代にかけて徐々に減っていったと思われるが、たとえば2006年にはアカデミー賞で監督賞を含む3部門を受賞した「ブロークバック・マウンテン」が日本でも公開され話題になるといった画期的な出来事もあった。地方の町での同性愛者に対する偏見という意味でも、2000年代より90年代のほうがより説得力を持つという判断があっただろうと推測する。
・荒川が自身の性的傾向にいつ気づいたかは語られないが、自認してからはおそらく一人で悩み苦しみ、周囲に好きな男性ができてもたいていは打ち明けられないまま終わり、勇気を出して告白したのに拒絶されたこともきっとあったはず。若い頃にそうした思いをしたからこそ、タクヤについて「うらやましかったんだよ。ちゃんと恋してるっていうかさ」と五十嵐に吐露したのだろう。
・ローティーンの2人を支える役割も担った池松壮亮の演技は安定感と繊細さを兼ね備えていて実に見応えがある。特にラスト近くのキャッチボールの場面で、タクヤが捕れない球を投げてしまった後、「タクヤ、ごめん」と微妙に声を震わせた台詞が絶品。もちろん暴投のことだけではなく、タクヤの恋を応援するつもりで始めたアイスダンスが結果的にタクヤとさくらを傷つけてしまったことを詫びる気持ち、不意に沸き上がった感情の表れなのだろう。
・本作の“光”と“輝き”を担ったのは間違いなく、中西希亜良のフィギュアスケートのパフォーマンスと愛らしい表情だ。父親がフランス人で、フランス語、英語も話すマルチリンガルだそう。映画初出演作でカンヌデビューを果たしただけに、ぜひ国際派スターを目指して精進してほしい。フィギュアができること自体が大きな武器だし、高い身体能力はきっと活劇でのアクション演技にも応用がきくはず。今後の活躍に大いに期待する。