「親子鷹で同系ジャンル映画に挑戦! 及第点のアイルランド版「八幡の藪知らず」スリラー。」ザ・ウォッチャーズ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
親子鷹で同系ジャンル映画に挑戦! 及第点のアイルランド版「八幡の藪知らず」スリラー。
マジか。これ、ヒロイン、ダコタ・ファニングだったのか!
観てるあいだ、一切気づかなかったよ(笑)。
いつものように予備知識ほぼゼロで観に行ったので(「シャマランの娘が撮った」ということだけは知っていた)、エンド・クレジットでダコタちゃんの名前が出て来て、マジでびっくりした。なんなら、この映画で一番びっくりした(笑)。
いやあ、こんな顔に育ってたのか。
ふつうにくせのない別嬪さんに育ってるやん。
そういや、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』にもマンソンズ・ファミリー役で出てたんだっけ。観たのにまるきり忘れてました……。
あと、ふつうに「原作があった」ことにも、結構びっくりした。
父親のシャマランが意地みたいにオリジナル脚本のどんでん映画ばかりで勝負し続けている監督なので、娘もその系譜を受け継いでいると勝手に思い込んでいたのだ。
これもある種の先入観を利用した「どんでん返し」のようなものか。
まあ、本編のほうはそこまでびっくりするような映画ではなかったし、父親が『シックス・センス』で一時代を画したような衝撃性は感じられなかったが、この手のゴチック・スリラーとしてはずいぶんと良く出来ていたほうではないだろうか。
みんな、期待しすぎだったのか、
二世監督なので評価が辛いのか、
ちょっと手厳しい感じがするけれど……(笑)。
このお話の場合、設定がどうとかクリーチャーがどうとかは二の次で、まずは「一度入ったら二度と抜けられない森」を舞台とした「森ホラー」なのだ、というのが重要だ。
要するに、童話でいえば『ヘンゼルとグレーテル』。
ホラーでいえば『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』あるいは『クライモリ』。
日本でいえば『青木ヶ原樹海伝説』あるいは『八幡の藪知らず』。
「何度も同じ場所に戻る」
「背後の車が突然消える」
「どこまで行っても出られない」
これらの現象は、実は「何が棲みついているか」とか、「森がどういう構造か」とはあまり「関係がない」。この魔法がかかったような鬱蒼たる森に、もともと付随するタイプの怪奇現象であり、超常現象である。
その意味で本作は、「森で迷う」という狩猟採集民にとっての原初的恐怖、DNAに刷り込まれた惧れに根差したスリラーだと言って良い。
そして、この「迷いの森」という王道の恐怖を、「アイルランド」という土地性と結び付けたことこそが、この作品本来の意義なのだと僕は思う。
米メリーランド州の魔女伝説と結びつく『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』。
米ウェストバージニア州の南北戦争落ち武者伝説と結びつく『クライモリ』。
南米アマゾンの秘境性と結びつく『人喰族』『グリーン・インフェルノ』。
中米のバルベルデが舞台の『プレデター』。
ドイツの黒森が主な舞台となるグリム童話の恐怖譚。
羆嵐の伝承をベースに旭川の森を舞台に展開する知念実希人の『ヨモツイクサ』……。
「森」の恐怖には、つねに地域性があり、それぞれの風土性がある。
『ザ・ウォッチャーズ』の主役は、ダコタ・ファニングでも、他の三人でもない。
真の主役は、アイルランドの森なのだ。
アイルランドは、幻想と魔法の国。
森のたたえる雰囲気や空気感にも独特なものがある。
そして、何よりも、アイルランドは「妖精の国」。
だからこそ、本作には、謎の「妖精」が出て来る。そういうことだ。
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「アイルランド」「森」「妖精」の三題噺から、本作は二つの方向性を引き出した。
ひとつは「何かに観られている」という根底を成す設定。
もうひとつは「なぜ観られているか」に関する理由付け。
前者は、「窃視」「監視」「舞台」「監禁」といったテーマと結びつく。
後者は、「観察」「模倣」「複製」「チェンジリング」といったテーマと結びつく。
これらをうまく、ちりばめられた小道具と結び付けているのも面白い。
前者は「リアリティ・ショーのビデオ」「ガラス張りの部屋」「鳥かご」「監視カメラ」
後者は「オウム」「鏡」「双子の姉妹」「死んでいるはずの来訪者」などと呼応する。
これらが、巧みに「オーバーラップ」しているのも、作り手の頭脳的なところで、僕はけっこう感心してしまった。
●たとえば「物まね(ザ・ウォッチャーズの目的)」を象徴するオウムは、同時に、森に出入りできる水先案内人としての「鳥」の機能と、「鳥かご」に閉じ込められている4人を象徴する機能と、まっさきに地下室に持っておろされるような「炭鉱のカナリア」としての機能を併せ持つ。
●彼らが閉じ込められている「鳥かご」は、牢獄であると同時に、この森で唯一の避難所(レフュージ)でもあり、いつか脱出すべき場所であると同時に、敵から身を守ってくれる憩いの場所でもある。
●覗き見のために部屋に用意された巨大な「ガラス板」は、外部からは観察用の「窓」として穿たれているが、内部からは4人を映し出す「鏡」として機能し、常に4人の姿を「コピー」して、ダブルイメージを形成している。彼らは、つねに「複製される恐怖」に映像のなかで潜在的にさらされつづけているわけだ。
さらには、本作の設定やビジュアルイメージには、さまざまな既存のイメージや過去作品のニュアンスが巧みに取り入れられている。
●明かりのなかで、4人が並んで立たされる設定には、マジックミラー越しに目撃者が容疑者の顔認証をする『ユージュアル・サスペクツ』のような取り調べのイメージが援用されている。同時に、この「4人横並び」は、芸能界におけるオーディションをも連想させる。
●室内が明るく、前面が総ガラス張りで、外から異形が様子をうかがっている設定というのは、『ミスト』(2007)におけるスーパーマーケットの舞台装置と酷似している。あのスーパーマーケットは、「籠城するための避難所か、それとも脱出するべき牢獄か」の判断で内部紛争が生じたという意味でも、本作の鳥かごと類似した装置である。
森を抜けたら現れる、小集団が運営するステージというイメージは、『ボーはおそれている』でも観ることが出来た。
●パンフレットでは、『パンズ・ラビリンス』『ウィッチ』『アンチクライスト』の名前が影響を受けた作品として筆頭に挙げられていて、当然それはさもありなんといった感じだが、「監視映画」としては、『裏窓』『コレクター』『硝子の塔』『トゥルーマン・ショー』といった既存の前例ないしは近年のリアリティー・ショー・ブームが念頭に置かれているだろうし、そこに『SF/ボディ・スナッチャー』や『ローズマリーの赤ちゃん』『ゼイリブ』『ステップフォード・ワイフ』『寄生獣』といった「異形が人間にすり替わって紛れ込んでいる」擬態系の恐怖、あるいは失われた愛する物を異形の力を借りて復活させようというフランケンシュタイン幻想がかけあわされている。終盤に判明する、とあるキャラクターの正体に関しては、『スピーシーズ 種の起源』や『スプライス』あたりを想起させるところもある。
●地下のダンジョンを支配している異形のクリーチャーという設定は、『ディセント』や『トレマーズ』を容易に想起させる。同時に、害意をもった「集団」が「出られない森」に巣食って、人間たちが罠にかかるのを待ち受けているというのは、まさに『グリーン・インフェルノ』や『クライモリ』と同種の設定である。一方で、「逃げようとしない限り、単に観察してくるだけで危害を加えてこない」という設定は、『未知との遭遇』や『コクーン』のような、フラットな姿勢で人間に接してくる異星人映画をも想起させる。
●なにより、森から出られない設定や、異形の怪物が外でうろついている設定、外界から孤絶させられた小さな集団内で、厳格な「ルール」が設定され、共同体のメンバーがそれに諾々と従っているというのは、なんのことはない、父親であるM・ナイト・シャマランの『ヴィレッジ』(04)の焼き直しのようなものである(笑)。
望まずして4人の集団が強制的に結成させられて、傍がきいたら鼻で笑うような謎ルールでがんじがらめにされたうえ、それに逆らったら死の報復が待っている、というのも、父親の前作『ノック 終末の訪問者』(23)と、とてもよく似ている気がするし。
要するに、原作探しや演出において、イシャナは結局、父の幻影を追い求めている部分があるということだ。
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演出面でも、全体のイメージの統一の面でも、イシャナ・M・シャマランは、新人監督らしからぬ手腕を発揮しており、僕は素直に感心した。
もちろん、手長足長みたいなクリーチャーの造形をダサいと思う人もいるだろうし、「何かに監視されている、何かに監視されている」とさんざん強調しておいて、実はどんでん返しでもあるのかと思ったら、「マジで何かに監視されてるだけ」でがっかり、という人もいるだろう(この展開自体、父親の『サイン』(02)を彷彿させる)。
でも、細部に関しては意外にちゃんと考えてある部分もあって、たとえば、なんでここまで明確な「ルール」が設定されていて、かつきちんと継承されるようなことが可能なんだろう?って不思議に思うようなところも、真相をきくと、なるほどコイツが元凶だったから可能だったのか、といちおうは理解できる仕掛けとなっている。
全体の展開としては、そこそこうまくバランスがとられているし、先に述べたように「要素をより合わせる」手癖が上手い。
まあ、要所要所で製作に控えるお父さんが助け舟をだしているのかもしれないが……。
マイナス点で一番気になる点をいえば、やはり「食」の要素がどうやって成立しているのか、観ている範囲ではよくわからないところだろう。
あんな原始的な罠で毎日何羽もカラスが捕まるとはとても思えないし、一日4羽獲れたとしても、それと山菜だけで4人の飢えが満たせるとは到底信じがたい。何より、炭水化物はどうやって手に入れているのだろう?? 1週間くらいなら鳥肉だけでもなんとかなるかもしれないが、何か月、何年という話になってくると、正直絶対に飢え死にすると思う。
夜じゅうは姿をウォッチャーズに見せているとして、どういうサイクルで寝て、狩猟・採集に費やして、蓄音機とビデオの他にどんな娯楽があるのかなど、総じて「生活面」の要素がまるできちんと練られていないというか、敢えて観客が意識しないように気配を消させて、「そこはあんまり考えないでね!❤」みたいな作りになっているのは、さすがにどうかと思う。
とくに「排尿・排便」と「身体の清拭・衣服の洗濯」「水の管理」といった部分に関して、ほとんど言及されないあたりに、作品が概念的でリアリティーを欠く大きな要因があるように思う。
あと、冒頭の配送ミッションが、森で起きた事件と何か関連があるのかと思ったら、何にも言及されないまま終わったのには、ちょっとびっくりした。特段、道に迷ったような描写や、交通標識が誤解を生む表記だといった描写もなかったし、あれって言われたとおりに行ったら、あの森に迷い込んだってことだよね? ペットショップの店長がザ・ウォッチャーズの回し者みたいな話になるのかと思っていたのだが、的外れな推測でした。
その他にも、終盤の(森を脱出したあとの)蛇足感とか、シェルター建設に関する適当きわまる説明とか、教授の資料に関する雑な扱いとか、不穏な気配を漂わせながら結局なんにも起きない乗り合いバスとか、双子設定が活かしきれていないところとか、婆さんの正体について説明不足に感じる点とか、なんでクリーチャーは森から出られないかの謎設定(いきなり「封印だわ!」ってどういうことだよww)とか、ひっかかる点もそれなりにあるのだが、まだ24歳の新人監督の仕事にめくじらをたてるのも大人げないでしょう(笑)。
全体としては「僕好み」の謎解き風味のきいた良質のサスペンス・スリラーでした!
そういや、僕らの世代で『ウォッチャーズ』といえば、なんといってもD.R.クーンツの『ウォッチャーズ』(究極のワンちゃん大活躍ホラー小説)なんだけど、あれも真相の面ではなんとなく近しい部分もないではなかったな。
コメントありがとうございます。
大枠としては小綺麗にまとまっているのですが、そのぶん粗が目立ったようにも思えます。
仰るように「ここは見ないでね」という理性的な誤魔化しも感じましたし。
デビュー作であればなおさら、趣味全開で突き抜けてくれた方が楽しめたかな、と。