「「絵描きの才能」をめぐるクセの強い友情物語に、アニメーターたちがガチンコ作画で挑む!」ルックバック じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
「絵描きの才能」をめぐるクセの強い友情物語に、アニメーターたちがガチンコ作画で挑む!
基本的には、王道のバディものであり、シスターフッドもの。
泣けるかといえば、ちゃんと少しだけ、ラストで涙がちょちょぎれた。
でも、結構くせのある話だよね、これ(笑)。
くせがある分、心に残る良いアニメ、ということだろうけど。
何が一番くせがあるかというと、ヒロイン・藤野の性格設定。
というか、この性格設定でヒロインに「挫折させない」のは、結構「斬新」だと思う。
いや、精確にいえば、彼女だって挫折していないわけじゃないし、相応にダメージもくらってるんだけど、物語として、こういうタイプのヒロインが「断罪されないままのさばって、そのまま終わる」話って、意外と少ないと思うんですよ。
とにかく偉そうで、高慢で、マウントを取りたがるタイプ。
お調子のりで、努力家ではあるけど、融通がきかない。
頑張った結果が伴わなければ、自尊心が折れて逃亡する。
でも、褒められたら有頂天になって、今度は大望を抱く。
相手との関係性を、「あたしについてこい」で規定して平気な人間。
相手の有り余る才能を自分の夢のために搾取して、なんとも思わない人間。
相手の善意と友情をナチュラルに「主従関係」にすり替えて、恬として恥じない人間。
こういうヒロインはいていいと思うし、
むしろ嫌いじゃない。
人間くさいし、生々しいし、意外に悪いヤツじゃない。
表面に出さないだけで猛烈に葛藤しているあたり、可愛いところもある。
でも、この手のヒロインって、たいがい物語のなかで「鼻をへし折られる」し、隷属させていた相手に反逆されたり、才能の逆転を見せつけられたり、周囲に性格の問題を指摘されたりして、「自分の分を知る」展開が待っていることがほとんどだと思う。
でも、このお話では、そういう「罰」がヒロインに与えられない。
そこは、本当に「珍しい」というか、「くせがある」と思う。
彼女は、たしかに「後悔」する。
取り返しがつかない現実が起きたあとで。
自分が京本に対して相応に遇してこなかったことを。
素直に、相手の才能への賞賛を与えてこなかったことを。
あなたが一緒にいてくれてよかったと伝えてこなかったことを。
だが、物語上の流れからいうと、
藤野はやはり、厚遇されている。間違いなく。
どんなに藤野が上から京本に当たろうと、
どんなに同い年なのにマウントをとろうと、
藤野は京本に嫌われない。
京本にとって、藤野はつねに「先生」で「ヒーロー」で「恩人」だ。
京本の藤野「愛」は猛烈で、尽きることがなく、盲目的。
京本も最後は「自分の夢」に目覚めて、共同作業者としては藤野と袂を分かつことになるけれど、別段、藤野のことが嫌いになったわけではない。藤野への悪感情はないまま、「外に連れ出してもらって、成長させてもらったおかげで生まれた自分なりの夢」の実現のために「巣だっていった」というのが、正しい認識だろう。
「私についてくればさっ、全部上手くいくんだよ?」
「まあ、この子は背景を描いてるだけなんですけど」
こういう言いぐさを平気で出来るキャラでありながら、
藤野は最後まで「罰せられる」ことがない。
彼女は、引きこもりだった絵の天才を自分の「まんが道」に巧みに取り込み、才能を搾取し、友達面でさんざんこき使ったうえ、なんと最初の持ち込みチャレンジで、佳作を勝ち取ってしまう。
そこからもとんとん拍子で、中高を通じて読み切り7本を重ね、ついには連載をゲット。
彼女は結局、漫画家としては一度も「挫折」していない。
で、京本が美大進学のために共同作業から離れたら、とたんに画力が落ちて、人気がなくなり、泥を舐めるはめになるかというと(凡百の作品だとついやりがちだよね?)、まるでそんなことにはならない(笑)。
たしかにジャンプの人気投票システムは過酷だし、順位は上がったり下がったりで大変だが、彼女は持ち前の根性とたゆまない努力で、苛烈な漫画家間の競争を勝ち抜き、連載の巻数を重ね、ついにはアニメ化にまでたどり着く。
要するに、彼女には「本当に才能があった」のだ。
小学4年生のときに京本が信じ、ほれ込んだ才能が。
僕たち「外野」の人間(観客)から見ると、ヘタウマにしか見えない絵で(しかもあれだけ教本を買って練習し倒してもたいして成長しているようには見えなかった画力で)、4コマとしてもたいして面白いとはいいがたい内容だったとしても、「京本が見出した藤野の才能」は、本当の本当に、ホンモノだったのだ。
藤野は、なんにつけ偉そうだ。
藤野は、それでも断罪されない。
藤野は、成功する。
藤野は、それでも愛されキャラのままだ。
藤野は、許される。
藤野には、才能があるから。
このへんが、僕が「くせがある作品」と感じた中核だ。
「もしかして原作者の藤本タツキは、藤野と京本の関係性を、素で肯定的にとらえているんじゃないのか???」
「もしかして絵描きの世界では、本当に物語を作る才能を持った一握りの人間を支えるためなら、絵の巧いだけの有象無象はアシとして奴隷のように仕えてそれで良しという思想が当たり前だということなのか???」
こういった「違和感」を、藤本タツキは巧みな語り口と自然なキャラクター描写で、力業でねじ伏せてくる。僕たち観客にも、いつしか藤野というクセモノキャラを肯定的にとらえ、寄り添って応援し、ろくでなしだけど嫌えない友人であるかのように扱うよう強要してくる。
そこが「よくできているけど、くせがある」。
そういうことだ。
この「価値観」――端的にいえば「才能のある人間はマウントをとって良い」「主従関係で規定されてもなお女子の友情は成立する」――をふりかざして、漫画描きでもない読み手に同意を求めるというのは、結構無謀だし、あぶなっかしいやり口だと思う。
でも、藤本タツキはそれをちゃんとやり遂げた。
やり遂げているからこそ、「このマンガがすごい!」2022オトコ編で一位を獲得したわけだし、このアニメ化においても4点を超える高評価を見事に勝ち得ているわけだ。
僕も、観ながらいつしか「こういう友情もありかもなあ」と妙に「説得」されてしまった(笑)。
『チェンソーマン』のアニメ(僕は未見)を視聴したうちの妻曰く、そっちのヒロインも似たり寄ったりのキャラらしいし、主人公はそういう女にこき使われることになんの疑念も抱かないタイプらしい。そうなってくると、藤野と京本のキャラ設定は藤本タツキの作家的個性そのものと繫がっているということかもしれないが……。
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もう一点、クセがあると思ったのが、終盤の展開。
みんなは、唐突に訪れる京本のアレって、違和感なかったのかな?
申しわけないけど、僕は大ありだった。
いや、突然死んでもいいんだよ?
でも、なんでいきなり青葉ってんの??
『君の膵臓をたべたい』で似たような展開が起きたときも、さすがに怒っていいのか笑っていいのかわからないくらい呆れたけど……。
というか、観ながら思ったんだよね。
「なんで、震災で亡くなったことにしないんだろう?」って。時代設定的に。
そっちのほうが、話としてはよほど自然じゃないのかな、と。
で、帰ってからパンフを見たら、まさに東日本大震災を契機に生まれた作品だというではないか。そうだとすると、逆に藤本タツキにとっては、震災というネタは「あまりに生々しすぎて、作品に取り入れ難いファクター」だったのかもしれない……。
でも、この物語の流れのなかで、罪のない京本が、才能のないルサンチマンの犠牲となる展開は、作品のテーマとあまりうまくフィットしているようにはどうしても思えず、いやな夾雑物というか、ちょっと何かが本質からズレてしまったような、「うまくいっていない」感じがしてならなかった。
それ以外は、多少強引なヒロインの性格や物語の展開も含めて大いに説得力があっただけに、気になったってところかなあ。
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で、ここまでが未読だった「原作」由来の感想だが、アニメ化としてはもう文句なしだったのではないでしょうか。
なんか、「絵を描くこと」と「才能」と「共同作業」と「友情」をメインテーマとする、ある意味「まさに自分たちの物語」に、監督とアニメーターがガチのがっぷり四つで挑戦して、死に物狂いで「自分たちも巧く描ける側の人間」であることを証明しようとしているかのような、そういうリアルなバトル感があって素晴らしかった。
冒頭の、手描き作画の夜空を満月を中心にぐるりと水平回転させたあと、今度は天地をぐるりと縦に回してみせる珍しい試みからして、「俺たちは今回手描きで勝負するんだ」という意気込みがビンビンに伝わって来る(笑)。
場面変わって、藤野の部屋。動かない画面と時間に、漫画を描くことに必要な「根気」と「身体性」がにじみ出る。貧乏ゆすりと床の紙ごみにはヒロインの煩悶があらわれる。鏡の映り込みを使って、表情だけ抜いてくるやり口は実に映画的だ。
動かない画面に退屈して、つい画面のすみずみにまで目をやってしまった観客は、そこに散りばめられた様々な前提となる要素に気付くことだろう。
低山を前方に臨む田舎の風景。一戸建ての二階に住むそれなりの家庭環境。前方の赤いランドセルからわかるヒロインの年齢と時代設定。机の上の4コマ漫画のネタ帳。棚にならんだ漫画誌。あとでパンフで確認したら「りぼん」「ジャンプ」「ふれんど」とある。「Salut」は「ちゃお」のフランス読みってことでよろしいか?(笑)。良く観たら時計は5時。要するにこの子は締め切りに間に合わなくて、「朝まで四コマ漫画を推敲しつづけていた」のだ。
アニメーターとしての押山清高監督の「勝利」を確信したのは、京本に認められた喜びを爆発させながら、雨のなかで藤野が奇怪なステップを踏みながら帰っていく描写を観たときだった。あれはマジで、アニメ史に残るくらいの名シーンではないだろうか。
あそこに、作り手は「セリフとしては語られない」藤野のさまざまな思いをすべてぶちこまねばならなかった。そして、それをガチで成功させた。
たかが引きこもりの京本に画力で負けたという挫折感。
いくら努力しても追いつけない、埋められない能力差。
命を懸けていた漫画から、距離を置くくらいの絶望感。
そんな凄い相手に自分が認められていたという望外の喜び。
自分には「本物のファン一号がいた」という矜持と自信。
やっぱり自分は漫画を描いていいんだ、という解放感。
そういったルサンチマンの解放が、雨のなか有頂天になって踊り歩く少女の「アニメーション/アクション」という形で、見事に結実している。
この「ロケットスタート」が、そのまま彼女を天下のジャンプ連載漫画家にまで導く原動力にもなっているわけで、そんな物語上の「重み」に負けないだけの「凄い作画&動画」に仕上がっている。これを観られただけでも、映画館に足を運んだ甲斐はあったと思う。
あと、持込漫画がいかにも手塚賞応募作っぽい外観をしていたり、そのあと徐々に画力があがるなかで、星野之宣や楳図かずおの初期作みたいな作風を示してたり、いろいろ細かいネタを投下してあって楽しい。ときどき挿入される湖上に遊び空を駆ける白鳥も、現地感と季節感を出している。
一番びっくりしたのが、京本が別れを切り出す場面。
後ろを向いた藤野の顔に、初めて「漫符」としての「汗」が描き込まれるのにも、どきっとさせられるのだが、そのあと一瞬、藤野がとにかくまあ凄い顔をするんだよね。
衝撃と反撥と危機感と焦りと怒りと悲しみと懇願がひしめき合っているような。
描き手が心から観客に自慢したくなるような、神作画。
でも、監督はそれを1秒で、さくっと流してしまう。
敢えて、強調しない。止めて、誇らない。
それは、藤野が誰にも見られたくない表情だから。
この辺に、監督の度量というか、本気度が伝わって来て本当に良かった。
あとは、IF分岐とも藤野の妄想ともいえそうな終盤の展開の解釈とか、河合優実の話とかをぜひしたかったのだが、残念、紙幅が尽きました(笑)。
まずは、ほんとに良いアニメでした!