コンセント 同意のレビュー・感想・評価
全10件を表示
時代に見過ごされた性被害に時代の追い風が吹く時
赤子の手をひねるよう、という言い回しがあるが、マツネフにとってヴァネッサはまさに赤子だっただろう。彼にはヴァネッサをひとりの人間として愛する気は最初からなく、性行為を目的に文学少女の有名作家への憧憬を利用し、言葉巧みに籠絡した。
マツネフの振る舞いが終始胸糞悪い話ではある。だが、性被害を受けた人間が被害を自覚し、相手の罪を告発するまでに何年も、時には何十年もかかるのは何故なのか、その理由を本作は垣間見せてくれる。
露骨ではないが、行為のシーンがわりとあるのはちょっと複雑な気分になった。映画のテーマに関係なく、そのシーン目当てに鑑賞する輩が出てくるようでは本末転倒な気がする。彼らの関係のリアリティを求めるとああいう表現に傾くのかもしれないが、難しいところだ。なお、ヴァネッサ役のキム・イジュランは当然成人である。
1970年代から80年代にかけて、ガブリエル・マツネフは挑発的な言動で知られる文学界の寵児だった。作品においては少女たちとの性的関係を体験した通りにあからさまに描くだけでなく、少女が彼に贈った手紙をそのまま引用するという不道徳ぶり。また彼は文壇において自らの嗜好を公言していたのみならず、テレビ出演時にも度々臆面もなく少年少女との性的関係を語った。
しかしこの時代のフランスでは、作家やアーティストのこういったふるまいは、界隈ではむしろ好意的に受け止められていた。性の解放、芸術の探究。タブーを犯すことが芸術的美徳とされた時代だった。
母親は最初こそマツネフとの関係に反対していたが、やがてなし崩しになる。
原作によると、ヴァネッサはのちに自分を守らなかった母親を責めたが、彼女は「彼と寝たのはあなたなのに、私が謝らなければならないの?」と返し、自分を恨むのは筋違いだ、あなたの思いを尊重するしかなかった、自分の思い通りの人生を送らせるしかなかったといった主張をしたそうだ。
子どもの意思を尊重すると言えば聞こえはいいが、判断力が未熟で結果責任を負う力もない子どもにこういった判断を丸投げするのは、保護者責任の放棄と言った方が正確だろう。
マツネフの留守中に、読むことを禁じられていた彼の著作を読んだヴァネッサが自分とマツネフのセックスを傍観するシーンは、ぞっとするが映像ならではの表現だ。彼女が初めて自分たちの関係を客観視し、そのグロテスクさを自覚したことがひと目でわかる。
精神的に荒れ、髪を脱色し真っ赤な服を着たヴァネッサが、マツネフの出演するテレビ番組を見るシーンがある。
あれは1990年に放送された「アポストロフ」という文学番組で、マツネフの主義に反論していた女性はカナダの作家ボンバルディエ氏だ。
彼女は「あなたのしていることはひどいことで、名声を利用して少女を餌食にしているだけだ。文学を言い訳に使うべきではない」と主張したが、他の参加者は誰一人として賛同しなかったばかりか、この発言によりフランスの知識層から袋叩きにされた。
(発言の実際の場面をYouTubeで見たが、映画に出てきたボンバルディエ氏の姿はYouTubeの映像とそっくりだった。実際の映像を使ったのだろうか?)
このような時代に生きた14歳のヴァネッサが、老獪なマツネフの蜘蛛の巣にかかって彼に示した「同意」など、到底フェアなものとは言えない。
ヴァネッサがマツネフの正体を知るまでの彼への恋慕にも似た感情は、実態としては洗脳に近い。少なくとも、対等な恋愛関係からはかけ離れている。
マツネフの所業には、いわゆるロマンス詐欺に近いものを感じた。ただし、一般的なロマンス詐欺の被害者は成人であり騙し取られるものは金だが、マツネフは卑怯にも子どもを騙し、彼らの初体験や年齢相応の人間関係の中で過ごす時間といった、金よりはるかに取り返しのつかないものを盗み取った。
その上、ヴァネッサとの関係が事実上終わった後も、マツネフは彼女との日々を赤裸々に描いた作品「日記」を発表。ヴァネッサは面識のない人間からも奇異の目を向けられた。ヴァネッサが成人になってからも、彼は嫌がらせの手紙やメールを送り続けた。
そんなマツネフに、2013年にはフランスで名誉とされる文学賞のルノドー賞が授与された。
だが、時代の潮目は静かに変わりつつあった。1990年の国連による「児童に関する権利条約」発効、隣国ベルギーでのペドフィリアによる虐待殺人事件などをきっかけにした、子どもの権利についての意識の高まりや小児性愛者へのイメージの変貌。そして2017年から始まった#MeToo運動。
2020年、本作の原作が出版された5日後に、フランス国内の複数の出版社はマツネフの書籍の販売を中止した。政府は、マツネフに支給されていた文学者手当を打ち切った。パリ検察庁は、未成年者へのレイプ罪の容疑で捜査を開始した。
過去の時代の空気を、現在の価値観で断罪することはずるいことだろうか。しかし、当事者のヴァネッサは今も生きて、トラウマに苦しんでいる。
彼女がマツネフの餌食になってから30数年を経て「同意」を上梓したのは、彼への復讐のためではない。マツネフの作品の中で、彼の視点と言葉に縛られて世間に晒され続けた自分の過去を自身の言葉で定義し直すことが、彼女のアイデンティティのためにはどうしても必要だった。
時代の価値観によって被害を見過ごされた彼女に、自分の過去を再構築する勇気を与えたのもまた時代だったのかもしれない。
未熟で多感な年代にも鑑賞して欲しい
初めての映画の感想。
他の人の感想を読んだし、自分の感想も残しておきたいと思った。
自分は37歳男なので、大人の視点でこの映画に出てくる違和感について、母親や同級生の気持ちがすぐに理解できる。
ある大人が社会的にどのように言われているかという外的な評価だけでなく、
(映画では小児性愛者としての風評がすでにある)
普通の大人が子どもという未熟な相手に対して恋に落ちるというのがあり得ないと、
自分自身の頭や心でわかっているからだ。
今の自分は「こんな大人には近づいてはいけない」と本能でわかる。
しかし、それと同時に、主人公の女性の気持ちが痛いほどわかる。
思春期で、同世代の仲間には馴染めず、親の姿は尊敬できず、
自分の価値を認めてほしい承認欲求があり、寂しさ、心の穴が目にみえる。
そこで登場したのは、自分の関心ある文学の世界の成功者。
さらに、自分に興味を持ってくれているとなれば、
自分なら、これほど隙のある状態でつけ込まれたら、逃げる自信があるだろうか。
自己責任というほど成熟できてはいないが、大人や周りの言うことを素直に聞けない時期でもある。(事実周りは何度も忠告してくれているのに、ずるずると洗脳されてしまっている)子どもというのは、そもそも不自由で身動きのとれない環境下に置かれていることが多い。
話術を通じて恋愛だと思い込ませていく展開に
「グルーミングというのは、こうやって少しずつ関係性を近づけて相手を洗脳していくのだな」という感想は、大人になっている人の分析的な視点で、
大人がダメだという結論はあまりに率直で簡単だ。
過激なシーンが多いのでR指定ではあるが、子供を持つ親や未熟で多感な年代にも鑑賞して欲しい。
大人はあらゆる立場の人と適切な距離を持って関わるべきだし
恋愛や性というものは一歩間違えれば危険で人生を後悔する関係性になり得るのだと
早くに学ぶ必要がある
「同意」というだけで済まない。
改めて考えさせられた。
私的考える、この映画に終始つきまとう気持ち悪さの正体とは
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
一般的には、男女の恋愛において、共感する部分で共鳴し合い、相容れない部分は互いに尊重したり相互理解するのが、まともな恋愛関係だと思われます。
私的もこの映画を観る前は、互いに共感しあえる部分で共鳴し、相容れない部分で相互理解する関係であって、しかしながらそうであっても、15歳に満たない(実際は14歳)の少女に対して(36歳の年が離れた)50歳の大人が、大人の男女関係を持つのは、大人の側がブレーキを掛けなければならない、そんな映画になっていると想像していました。
ところが、この映画『コンセント 同意』は、そのような一般的な相互理解ある恋愛とは真逆の関係を映画の初めの方から描いていて、映画全体に気持ち悪さを覆わせていました。
その気持ち悪さの正体は、私的考えるに、相手を自分色に染め上げる(染め上げたい)/自分が相手色に染め上がる(染め上がりたい)、関係性にあったと思われます。
50歳を超えたフランスの作家ガブリエル・マツネフ(ジャン=ポール・ルーブさん)は、14歳のヴァネッサ(キム・イジュランさん)と男女の関係になるのですが、マツネフはヴァネッサに彼女の発言や思考の隙間を与えないように行間を自分の言葉で埋めていきます。
この事は、ヴァネッサに彼女自身の本当の気持ちや思考が出来る時間を与えないように作用していたと思われます。
もちろんヴァネッサにも、自身のあやふやな弱い気持ちや思考に取り替わるように、マツネフに染まりたいという隙があったとは思われます。
しかしながらその責任は、15歳に満たないあるいは未成年の子供には問うことは出来ません。
あくまで大人の側がそれに対するブレーキを踏むのは当たり前だと思われるからです。
この、相手を自分色に染め上げる(染め上げたい)/自分が相手色に染め上がる(染め上がりたい)という恋愛における関係性は、実は大人になった男女の関係でも見ることが出来る関係性だとは思われます。
しかしながら、染め上げる(染め上げたい)/染め上がる(染め上がりたい)恋愛関係であっても、双方が大人であれば、それぞれ大人としての自分の基盤が日常では確立していて、染め上げる(染め上げたい)/染め上がる(染め上がりたい)恋愛関係の時間帯以外は、それぞれ自分本来の基盤に戻ることが可能です。
もちろん、染め上げる(染め上げたい)/染め上がる(染め上がりたい)恋愛関係は、相互理解ある恋愛関係と違って、常に破綻が目に見えているので、多くの(私を含めた)一般の人々は内心「辞めておけ」と思ってはいると思われます。
ただ、それぞれ大人な基盤を持っている限り、その選択は自由ではあるとは一方で思われます。
しかしながら今作で描かれている、染め上げる(染め上げたい)/染め上がる(染め上がりたい)恋愛関係は、一方の側が15歳に満たない(あるいは未成年の子供)の基盤の弱いあやふやでまだ空っぽな存在であれば問題は大きくなります。
なぜなら、そんなまだ空っぽな自分のままで全面的に相手に対して染め上がりたいと望めば、関係が破綻してもその関係性自体がその人の基盤になってしまっていて、その関係を解消するのが難くなるからです。
これが、この映画を終始覆う気持ち悪さの正体だったと私には思われました。
ただ、本当に彼と彼女が相互理解のない関係性だったのかは疑念がないわけではありません。
仮に相互理解のある関係性もあったなら、それをも描いた上で、それでもなお15歳に満たないあるいは未成年の子供に対してこのような関係を持ってはいけない、という映画にする必要はあったのではとは思われました。
しかしながら、実際もこのような相互理解のない関係性であったのかもしれませんし、マツネフに対する罪を問う映画であるのであれば、今作の映画の描き方に正当性はあったとは一方では思われました。
それにしても、小児性愛を公言しながらテレビ出演も可能だった1970年代~80年代のフランス社会の今から考える異様さの理由は知りたいとは思われました。
さらにこの映画の原作が出版される2020年より前には全くこれらの経緯について大きな批判もなかったことにも驚きはありました。
当時の社会の15歳前後や未成年の子供は、現在と違い様々な場面に遭遇し今以上に精神が成熟していたから特に当時は問題とならなかったのか、そうではなく、当時は様々な問題が解明されず裏側に放置されていた事柄がようやく最近解明されるようになり今問題になっているのか‥
その謎についても解かれる必要はある映画にも感じました。
点数に関しては、この映画に終始まとわりつく気持ち悪さから今回の点数になりました。
ただ、出演者たちの深さある演技含めて内容がある、描かれる必要があった現在の重要作品だとは、一方で思われました。
キモい
これが実話だってのが驚き。
フランスってそんな国だったんか。
「表現の自由」に特別な信念のある文化的背景があるのかな。
巨匠ガブリエル・マツネフの狡猾なグルーミングの手管がただただキモい。
で、この人まだ存命なんだよね。
映画の冒頭の学校の授業のシーンで、「傲慢」を戒める話が出てくるのだけど、これってメタ的にマツネフのことを批判してるんだろうなと思った。
マツネフは、偉大な芸術家である自分は社会の法律や倫理などを超えた存在である、と確信しているような性格で、まさに「傲慢」の権化のような存在だから。
主人公のバネッサがマツネフに放った、「若くなくなったら愛さなくなるんでしょ」に対するマツネフの返答が、「私が愛することによってお前は永遠に若くいられるんだ」というセリフの意味が映画を観ているときには意味不明だったが、あとになってから、それって「私がお前を小説に書くことにより、本の中でお前の若く美しい時代は永遠のものになる」という意味なんじゃないかと気づいた。
もしそうなんだとしたら、こいつはマジでクズで、自己中の怪物みたいな存在だと思った。
バネッサが(マツネフの小説の中に)永遠に閉じ込められた支配を脱却するために、自分自身の小説(この映画の原作である「同意」)を書く、という手段をとったのは、バネッサにとっては単に自分自身を取り戻す、という意図に過ぎなかったのかもしれないが、マツネフに対してこれ以上ないくらいの復讐になったのは間違いない。
マツネフの「日記」と、バネッサの「同意」は、同じ二人の生活をマツネフ主観で描いた小説と、バネッサ主観で描いた小説になるわけだ。
「同意」は「日記」の芸術性やマツネフの人間性に厳しい審判を下す、マツネフの思想の答え合わせのような存在になる、という意味で、マツネフにとってこれほど恐ろしいものはない。
マツネフは「同意」に対してどう思っているのか、自分の傲慢さを反省した、ということがあるのか、気になる。
ジャニーさんと違ってマツネフが存命のうちにこうした糾弾がなされたということは良かった。
この映画のテーマである「同意」には考えさせられた。何をもって「同意」とするのか?
最近、統一教会への多額の寄付についての裁判があったが、未成年かそうでないかに関わらず、非道な「同意」というのは世の中にたくさんあるんではないか。
じゃあどうやって正当な同意と、そうではない同意を区別するのか、というのはまた非常に難しい問題なんだけど…。
自由と自己責任
14歳の文学少女である主人公が、影響力と語彙力を兼ね備えた小児性愛嗜好の人気作家と性的関係を結んだことをきっかけに転落していくといった展開。
人気作家は自身の小児性愛嗜好を隠さず、関係を持った人物との情事を作品として公表するため、これが主人公を含め過去に作家と関係を持った少年少女を更に苦しめることになっている。
自由恋愛や表現の自由といった自由に対する権利が主張されやすく、認められやすいフランスらしい作品。インフルエンサーの言動に振り回されたり、デジタルタトゥーの拡散に苦しむ人が後を絶たない現代の社会を皮肉った作品と捉えることもできる。
特別だと思いたがる子供と利用する大人
すっごく胸糞悪くなる。観ながらずっと腹が立つ。ずっと気持ち悪い。
しかし、これらは全て、この映画の前では褒め言葉だ!
フランスの実話の映画化。こんな事が、つい最近まで黙認されていたという事実が恐怖だ。
子供は背伸びをするもの、それを巧みに利用する大人。子供は利用されている事に気付かず、自分は特別だと勘違いする。
これは全ての事に当てはまると思うが、この映画で描かれてるのは小児性愛。それも、才能のある文学少女だからこそ陥った、美しい言葉による才能惚れ。憧れと愛の区別付かない青い時代。それを利用し、欲望を満たす大人。客観的に観てる側からすると、何故こんな奴に騙されるのか分からない。特に日本語訳された言葉の数々はあからさま過ぎる(この辺り原語との印象の違いはあるのだろう)。しかし、自分を特別だと思いたい少女には、全てが魅力に映るのだろう。
バブル期の日本も似たようなモノだったのかも知れない。
それどころか、日本では「東ヨコ」等、違う問題が起こっている。
キツイ映画だが、現在公開される事に意味のある映画だ。
無共感
14歳の少女と50歳の初老の作家との禁断の愛のお話といえばいくらか聞こえがいいんですが、思いっきり未成年に手かけてますやんというところに引き込まれたので鑑賞。
胸糞ムービーっちゃ胸糞なんですが、なんか登場人物たちの考えや行動が無鉄砲すぎるところがあって、リアルでもしっかりこんな感じだったんだろうなとなってエンタメとしてうまいこと咀嚼できずじまいだったなとなりました。
ヴァネッサが荒みに荒まくっていくのが言い方はアレですが面白くて、どんどん態度も悪くなっていくし、自主退学を勧められるレベルでの素行の悪さで生活してるという阿呆っぷり。
果てには関わってきた人を小馬鹿にしたり、ガッツリタバコを吸いまくるしで悪さが目立ち、タバコを吸うシーンでこんなに腹立った経験が無いのでとても新鮮でした。
被害者のはずなのに、酷い目に合ってもまぁそうなるよなという変な納得感があったのが不思議なところです。
あと役者さんは流石に成人していたので安心と納得がありました。流石に14には見えないなと思っていたので。
ガブリエルはいいとこ無しの真っ当なクズ人間で、なんか上手い事言いくるめれる様な年頃の少女しか狙ってないのを大口叩いてロリコンを正当化しているところはとっても気持ち悪かったです。
嫉妬の感情をいい歳こいて撒き散らしていて、それでいて著書にはあたかも自分が少女たちに苦労しているかの様に記載しているので、なんなのコイツー!って怒りながら観ていました。
母親もなんだかだらしない人で、ヴァネッサを守るという行動をとるわけでもなく、かといって放りっぱなしではなく雑に干渉してきたりと、親としての接し方が下手だなぁと親でも無い自分ですら思ってしまったので、ヴァネッサが誇張して書いたものかもしれませんが、おおかたこの様な感じで育てられたら反抗してしまうのも考えものかもしれません。
終盤に出てきたジャーナリストの発言が的を得ていて、いやほんとその通りだよなとやっとこさ共感できる人が出てきて安心してたらあっという間に終わっていきました。
文学と名乗れば悪でも社会的にアウトな行為でも許容されるという中々にエグい様式がぶち込まれるので、そんなのありかよーと何度も思い、でもそれが罷り通っているからガブリエルはのうのうと生活できて名声も得れているんだよなと変な納得感とモヤモヤが同居していました。
終盤は流れる様に年代を飛ばして、16歳になって18歳になって、そこから現代まで飛んで告発本を出版するという流れになるので一瞬置いてかれますが、この期間の間ヴァネッサはどの様に過ごしていたんだろう、ガブリエルはあのまま過ごしていたのかなどなど細かく気になるところはありつつも、そこは原作を読んでくれって事なのかなと解釈しました。
全く共感できないお話で、完全他人事として観れたのは良かったです。
生々しさというよりかは人の愚かさが全面的に出ていたほろ苦い作品だなーという印象でした。
鑑賞日 8/8
鑑賞時間 10:15〜12:20
座席 I-3
反吐が出る、でも…
実話で、それを世の中に知らしめたということはとても意義があること。
母親が警察に相談してたら…とか色々考えさせられる。
映画自体は、ヴァネッサ役の無垢な少女からの転落具合と、ガブリエル役が大人で無害そうな雰囲気だけど始終心から気持ち悪いところが合っていて、よかった。
日本にはロリコン、ショタコンという気持ち悪いものが【文化】【ジャンル】として存在している。本来許されない犯罪的思考であると反吐が出るものだと認識すべき。
洗脳って怖いね?
文学大好き、うら若き髪型真ん中分けオリーブ少女( 死語、既に埋葬済)が母親の紹介でペドフィリアで有名な作家に紹介したのが運の尽き、得意の文才を駆使して少女をデートに誘う事に成功し、ジジイの生涯をかけて鍛え抜いたテクニックで少女を骨抜きにする話し。
どう見ても肉欲の塊にしか見えない作家を、最初は母親は警戒するのだがうまく言いくるめられてしまい母親公認の交際が始まる。
肉欲の為なら、どんな言葉もすらすら出てくるのは流石、大御所作家。
初めての貫通成功( まぁ、お下品 ) の際は嬉しさのあまり、ペンを取り出しその喜びを書き留めたりするw
ここで、「 このジジイキモい!」 と思えば、そこで助かったものを「 まぁ、素敵!私、愛されている!」 と勘違いしたからジジイに飽きられるまで少女は振り回される事になる。
まぁ、若干やさぐれるのだが夜の校舎窓ガラス壊してまわったりはせずタバコを吸うだけ、可愛い反抗だな?
ジジイに捨てられた少女は唯一信用していた先生に声かけてもらうのだが、その先生はジジイが少女との「 あんな事や、こんな事をした暴露私小説」 を読んでいた事が分かる。この時の先生の表情が気色悪いったらありゃしない。
少女を演じるのは成人の新人女優、凄い熱演でセザール新人賞にノミネートされたそうな。
ジジイを演じたジャン・ポール・ヌーブの演技が鬼気迫っていて心底キモかった。
特に少女がバージンか否かを問い詰めるシーンは地獄のような光景で、これで生理的に無理と思う女性は多いと思う。役者って凄いなぁ、本物のペドフィリアにしか見えなかったよ?
当然、カップルで見るのはお勧めできません。特に今カノが昔、ジジイと付き合ってたらもう最悪のデートになること間違い無しです。
この地獄巡りにも終わりがきて、少女なりにジジイに復讐するシーンの痛快さは、まるでプロミシング・ヤング・ウーマンのラストシーンみたいでスッキリします。
日本にもいたよね?映画にはこのシーンが必要だからと芸術を言い訳にして少女を脱がすO林宣彦( 伏字にしております) は...やってるよね?やってる方に一千点!!
今回は下品すぎるので消されるかも。
悪用厳禁の心理テクニック動画が好きな人ならハマるが、本当に悪用厳禁ですよね
2024.8.6 字幕 アップリンク京都
2023年のフランス&ベルギー合作の映画(118分、R15+)
原作はヴァネッサ・スプリンゴラのノンフィクション小説『La Consentement』
13歳の少女が憧れの作家と関係を結ぶ過程を描いたスリラー映画
監督はバネッサ・フィロ
脚本はバネッサ・フィロ&ヴァネッサ・スプリンゴラ&フランソワ・フィロ
原題の『La Consentement』、英題の『Consent』はともに「同意」と言う意味
物語の舞台は、1985年のフランスのパリ
憧れの作家ガブリエル・マツネフ(ジャン=ポール・ルーヴ)のディナーに招待された13歳のヴァネッサ(キム・イジェラン、壮年期:エロディ・ブシューズ)は、母(レティシア・カスタ)とともにテーブルに着いていた
だが、大人同士の会話は退屈で、ヴァネッサは席を外して、ガブリエルの小説を読み始めた
それに気づいたガブリエルはヴァネッサに親身になり、いろんなアドバイスをしていく
文学の話をしたり、積もるような感情を露わにするヴァネッサは、ガブリエルの招待を拒めずに、彼と2人きりで会うことになった
ガブリエルは言葉巧みにヴァネッサを刺激しつつ、13歳と言う年齢もあって、それ以上のことはしない
だが、それが却ってヴァネッサに火を点けることになり、14歳になった彼女は、とうとうガブリエルと大人の関係になってしまう
母は最初は反対していたが、当時は同意が取れればOKのグレーゾーンの年齢でもあり、それ以上は追求することをしなかった
だが、ある日を境に、ヴァネッサはガブリエルの目的に気づいてしまう
そして、彼からの寵愛は、単なる作品作りの道具であったことに気づくのである
映画は、告発のノンフィクションが原作になっていて、原作者が脚本に関わっている
なので、完全に被害者目線の展開になっていて、加害者がどのようなアプローチで誤認させていくのかを描いているように思える
いわゆる立場の差を利用したものだが、映画の流れだけを見ると無理やりと言う風に見えないところが狡猾な段階を踏んでいると言うことなのだろう
思春期の欲望が先走る中で焦らしたり、相手にYESと言わせる状況を作っていくのだが、これが純愛だったら告発と言うものもなかったかもしれない
だが、結局のところ、小児だったら誰でもOKと言う変態さんに捕まってしまったので、あの時に書店員が止めずに彼の作品を読んでいたら、思いとどまったようにも思えた
時系列は順列なのだが、1985年からいきなり2013年に飛ぶシーンが唐突で、一瞬何のディナーかわからなくなってしまう
そこで登場する50歳のヴァネッサがディナーを終えて告発本を執筆すると言うオチになっているのだが、さすがにこの演出はわかりにくいとしか言えない
てっきり、年を取った母親がパソコン画面に向かったのかなと思ったぐらいで、そこで30年飛んでますの説明がないのはさすがにキツいと思った
いずれにせよ、かなり気持ち悪い内容の映画で、トラウマがある人は避けた方が良い映画だろう
心理学的なアプローチと言うよりは、経験則から感じたままを描いているので、それゆえにリアルすぎる部分がある
悪用厳禁にも思える心理学的分析もできると思うものの、こう言った心の隙間を突いてくる輩もいる、と言うことを知るためには「教育」の一環で認知させるのもアリなのかとも感じる
それでも、かなり生理的に無理な部分があると思うので、鑑賞の際には注意された方が良いだろう
全10件を表示