「スリリングな「社会の縮図」としての学校。ラストは「投げっぱなしジャーマン」な印象も。」ありふれた教室 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
スリリングな「社会の縮図」としての学校。ラストは「投げっぱなしジャーマン」な印象も。
端的に言って、面白い映画だったけど、
みんなは、あのエンディングで良かったのかな?
なんか、あまりに話の途中でぷつっと終わっちゃったような……。
個人的には、「最後にクラシック(メンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』)かけたら、それだけできれいに終われると思ってるんじゃないだろうな?」と、ちょっと思いました(笑)。
とはいえ、先が読めない楽しさがあって、
本当によくできた脚本だというのは確かで。
ヒリヒリ系の学園ドラマとしては、いくつかの新機軸があって、
①もめ事の発端が子供ではなく、大人の置き引き
②その大人の息子が在学中でキーパーソンになる
③クラスが多人種であることが徹底的に強調される
④中1は「ほぼ大人並みの存在」として扱われる
といったあたりは、僕にとって大変新鮮だった。
この物語のキモは、「置き引き犯」と目されるおばちゃんの存在だ。
どのキャラクターも自らの正義を信じて「正しく」動こうとしているのに、だんだんと食い違って、いつしか大変なことになっていくというのが本作の大筋だが、その「変異点」として機能しているのがこのおばちゃんだ。
ここには制作者の仕掛けた「罠」が存在する。
客観的に見れば、99%置き引き犯として「有罪」。
それなのに、演出上は「無罪」としか思えない言動で、
自分はやっていないと言い張り続ける。
この矛盾した二つの属性を付与することで、
作り手は作品に「歪み」を生じさせているのだ。
しかも、犯人を見つけるためにヒロインが採った「手法」自体が疑問視されるために、「なぜ映っていたのか」「服を揺らして何をやっていたと主張するのか」「他に同じ服を着た人間はいなかったのか」といった、肝心の捜査・追及がまったく成されない。
これももう一つの、物語を支える「理不尽」だ。
われわれ視聴者は、「証拠上はどう見ても犯人にしか思えない」のに「どう見ても犯人とは思えない挙動をとる」女性にとまどわされながら、その「変異点」の異常性ゆえに周りの人々がきちんと機能できなくなっていく様子を、ただ外から見守るしかない。
要するに、監督&脚本は、「ほぼ絶対的なクロの証拠」と「通常のドラマならシロの演技」を掛け合わせたうえで、その矛盾・対立する要素を敢えてそれ以上「アウフヘーベン」しないで、宙ぶらりんのまま解決しないという「ギミック」を用いて、本作の混沌を生み出しているわけだ。実に映画的で、頭の良い仕掛けだと思う。
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ただ、若干乗り切れなかったのもそこにひとつ理由があって、要するに、なんでみんなガッツリとコソ泥ババアを追い詰めないで、相手に反撃なんかさせてるんだ?ってのは、最後まで違和感として残ったんだよね。
個人的には、学園内部で盗難事件があったとして、隠しカメラを仕掛けることが悪手のように言われる筋合いは1ミクロンもないと思うし、それを責められる筋合いもないと思う(これは児童の万引きではなく、大人の起こした明快な窃盗事案であり、僕なら大っぴらに同僚全員に何があったか話したうえで、速攻で総務から警察に連絡させますが)。
それに、録画にだれかが映っていたのなら、それこそ徹底的に追い込むことにも、なんら抵抗を感じない。証拠としても、もちろん有用だし、有効でしょう(僕なら、やり口がまずいと言われたくないので、職員全員にやはり起きたことを共有したうえで監視下に置き、現行犯逮捕を目指しますが)。
おばさんの犯罪の内的調査結果を確定させずに善後策を講じつづけても、得るものなど何もないし、犯罪者に対して隙を与えることになってしまう。それなのに、なんで先生方はみんな「本当は何が起きたか」を詰めようとしないのか。
不寛容主義が、きいてあきれる。
たぶん、背景にあるのは「お国柄」だ。
ドイツならではの「後悔」と「反省」と「トラウマ」。
そう、ドイツ人は皆、ナチスや秘密警察シュタージによる「相互監視」と「密告」の制度運営によって、自分たちが私的に監視し合い、密告しまくっていたことに対する、強烈な罪悪感と恐怖感から未だ抜け出せていないのだ。
だから、善良な主人公の女性教師は、自分のやった「盗撮」という行為をアンフェアだと考え、周りの教師たちも不快感を隠さない。彼らのなかでは容易に、相互監視と密告によって個人情報が国家に搾取されていた過去のおぞましい経緯が想起されるからだ。
戦後のドイツ映画を観るときに、ユダヤ人虐殺に対する深い悔恨や、二度の戦争における敗北に起因するある種の劣等感に加えて、「自分たちはかつて、国家のために隣人を平然と犠牲にしてきた民族だ」という恥の感覚に彼らが今も囚われているという部分は、決して忘れてはならないポイントだと思う。
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なんにせよ、最初に言った通り、本作の終わり方については僕個人は否定的。
本当に何も解決していないし、何も明らかになっていないし、これからどう転ぶかもわからない。
もちろん意図的にそうしたということなんだろうけど、こういう「起・承・転」だけで映画を放置するのが本当に誠実なやり方なのか。
結末をつけないことで、楽をしたり逃げたりしている部分は本当にないのか。
「実際には教師と子供のあいだには、しっかりとした心の絆が生まれていた。彼女がやってきたことは間違いではなかった。真摯な思いはしっかり伝わっていた。一方で大人とちゃんと対峙して戦った少年も立派なヒーローだった」からといって、この大騒動にまでなってしまった件に結局のところ、どう落とし前をつけるつもりなのか。
そこの道筋すらつけずに、「やりたい部分はじゅうぶんにやり切りました。あとはすべて蛇足みたいなもんです」と、音楽と演出の力を借りて映画を終わらせてしまうのは、いささか手前勝手な振る舞いであるように僕は思うわけだ。
たぶん監督たちにとって、本作の「教室」は、文字通り「社会の縮図」なのだ。
ちょっとした問題が、世論の「分断」を生み、対立と抗争が発生する。
そこには人種問題や、民族間での思考の違い、ジェネレーションギャップ、支配者(教師)と被支配者(生徒)の関係性など、さまざまなフェイズの問題がからんでくる。
誰もが自分の「正義」を信じながら、お互いの認識には「齟齬」が生まれ、しだいに対立と分断は無視し難いものになっていく。
さらにはSNS世論やジャーナリズム(ここでは学生新聞)が分断を加速させ、深刻化させる。そのなかでも、当事者たちは、「議論」と「寛容」の精神をもって誠実に物事に対処していくしか手がない……。
そういった「社会の縮図」として教室内を規定しているからこそ、「この問題には終わりがつかない」。すなわち、ここでは「盗難事件」が「宗教対立」や「領土問題」の「小さなひな型」として扱われているが故に、本家本元が永遠に解決しない事案である以上は、こちらもおいそれと解決篇をつけるわけにはいかないということになる。
「真相の探求」についても、各勢力によるバイアスがかかって「本当に正しい解答など最初から見いだせない」というのが社会の常であるから、本作でもきちんとした調査・追及は行われない。
だから、この映画は「尻切れトンボで終わる」しかない。
それはわかっている。
わかってはいるが、一本の映画としてはやはり、こういうのは「投げっぱなしジャーマン映画」に思えてしまうわけだ(ドイツだしね)。
以下、雑感。
●カメラワークとしては、少しダーレン・アロノフスキーの『レスラー』や『ブラック・スワン』を思わせるような、後ろから常に尾行している感じのバックショットが印象的。
ヒロインは、常に小気味よいテンポとリズムで学校内をてくてく移動するので、その後ろ姿を追い続けるカメラワークもまた、いきおいテキパキとしたものになる。
それから、極端なアップ。これもアロノフスキーっぽい。
総じて、テンポと切れのよいカット割りと、不安を煽るアングルのアップの組み立てで、緊張感と疾走感のある演出が貫かれており、そのぶん、終幕まぎわに挿入される「静謐な瞬間」や「無人の教室」といったシーンも非常に効果的だ。
アロノフスキー風の窃視感覚でヒロインを追い続けるカメラは、次第に追い詰められ、精神の均衡を喪っていく彼女の心理状態をつぶさに描き出してゆく。まさに『ブラック・スワン』でも採られていた手法だ。最近では『TAR/ター』でも似たようなカメラワークが散見された。『TAR』は「女王の失墜と混乱」というテーマにおいても本作と通底する部分が大いにあり、その撮り方を参考にしている可能性は十分にある。
●教室内の様子は、日本人の僕にとってなじみのある雰囲気とはだいぶ異なっていて、異文化体験として新鮮。でも僕が知らないだけで、今の日本の学校でも「多人種」化はずいぶんと進んでいるのだろうし、授業の進め方も今は日本でもこんな感じでやってるということもあるかもしれない。
ただ、学校新聞に関しては、ここまで生徒の自治が認められて、教師がかかわることなく取材と記事づくりが行われているのかと、結構びっくりした。
総じて、子供を子供として扱わずにきちんと相対しているのが伝わって来るし、子供たちも結構な知性で団結し、動こうとしていて、まあまあ普通に感心する。すくなくとも自分が中学生の頃は、学内自治なんてしょせんは絵空事で、大半の物事は最終的に担当教師の理念と誘導のもと決めていたからなあ(笑)。
このへん、ドイツらしいといえばドイツらしいともいえるし(ドイツには「ディスカッション文化」という言葉があるらしい)、さきほどの「社会の縮図」論でいえば、もしかすると「労働組合」のメタファーみたいな部分もあるのかもしれないなあ。
●終盤で、追い詰められた女性教師がトイレでゴミをぶちまけて袋に顔を突っ込んですうはあすうはあ呼吸するシーン。あれ、知らないで観たら単に頭がおかしくなってるだけのように見えるかもしれないが、一応あれは「過呼吸」を起こした際に採られるオーソドックスな対処法のひとつであり、むしろ主人公が自身のパニック発作にも、ぎりぎりのところで冷静に対処できていることを占めすエピソードと考えるべきだろう。
●たった一人の叛乱を起こし、子供ながらに母を守るため教師と対峙してみせるオスカー少年は名演技。こういう「ひとりぼっちの反抗」を賞賛する機運が、欧米ではたしかに高いよね。
個人的には、組織に外から「抵抗」するよりは、組織の中枢に上り詰めて(もしくは中枢から信頼を受けるご意見番や黒幕の立場を立脚することで)内から「支配」することのほうが有効だと考え、実際にそうやって人生を送ってきた人間なので、こういう「自暴自棄」を評価する気にはあまりなれないんだよね(笑)。
●先生が子供と一緒に「あああああああ!!!」と大声を出し合うシーン。
まったく同じものを、ついこのあいだ『胸騒ぎ』(善良なデンマーク人夫婦がろくでなしのオランダ人夫婦のもとでコワい目に遇う映画)で観たばっかりだが、ヨーロッパ北部地域では、ストレス発散法として比較的よくやることなのだろうか?? もしかしてはやってるの??
あまりに似たシーンだったので、ちょっとびっくりした。
●あと、教室内がうるさくなってきたら、先生が拍子をとって、生徒が手拍子で合いの手を入れて丸く収めるやつ。たしか作中で生徒に「あれは小さい子のクラスでやるものだ」とか言って歯向かわれていた気がするが、あれ初めて観たけど、ドイツでは一般的なんだろうか? 結構面白そうだし、楽しそう(笑)。
●なんでラストの音楽は『真夏の夜の夢』なんだろうね? なんか理由がありそうだけど。
●私事で恐縮だが、母親も昔、小学校の教師をしていて、まあまあのカリスマ教師だったときく(退職したあとも、大人になった教え子たちが四六時中家に遊びに来ていた)。昔、母からきいた様々な児童の問題行動やモンペの暴走や左翼教師の謀略やロリコン教師の犯罪の話を思い出しながら、本当に教師ってのは大変なお仕事だよなあ、と、ちょっと懐かしい想いに駆られながらの映画鑑賞でした。