「ネタバレ厳禁(笑)。異能監督による、パンキッシュで「人を喰った」ネタ全ぶり映画!」No.10 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ネタバレ厳禁(笑)。異能監督による、パンキッシュで「人を喰った」ネタ全ぶり映画!
いや、たしかに先読み不能な映画ではあるんだけど。
だからどうしたっていう……(笑)。
まあ、やりたかったことはわからないでもない。
要するに、これは「パンク」なのだ。
既存のジャンルとか、物語とか、お約束を、あえてプリミティブでおバカな手法でぶっつぶすという方法論であり、ネタ映画としてはこれはこれでありなんだろう。
とはいえ、まさかあそこで映画が終わっちゃうとは思いもしなかったな(笑)。
映画の冒頭は、前衛演劇を手掛ける劇団の練習風景と、主演の男優・女優の秘めた不倫関係が描かれ、そこに男優を監視する謎の男たちや、男優を盗撮する彼の娘の姿が挿入され、不安感をかきたてる。
ノリとしては、パトリシア・ハイスミスの小説のようなテイスト。
どこか歪んだ人々が、観衆のモラルとは少しずれたところで男女関係を結んだり、ストーカー行為に精をだしたり、唐突な暴力行為に及んだりして、どんどん変な方向に話が撚れてゆくという。とてもハイスミスっぽい。
あと、主人公が常に複数者によって見張られているくだりなどには、ちょっとヒッチコック・テイストも感じられる。
最初の衝撃は、謎の一味による劇団内の老優の妻殺し。
第二の衝撃は、プロンプタに成りすました主人公による足釘打ち。
話はよくわからない感じで転調を繰り返していく。
で、例の謎の集団による真相開示シーン。
実は、映画自体はいつもの通り、予備知識ゼロで観には行ったんだが、館内で『X線の目を持つ男』『光る眼』を想起させるようなポスターを見てしまったせいで「もしかすると実はSF」「もしかすると実はオカルト」っていう可能性は、脳内にずっとあったんだよね(笑)。
どうせなら、宣伝の段階から徹底的に『ドッグヴィル』みたいな映画に「偽装」してたほうが、よりびっくりさせられたと思うんだけど。
まあ、「肺がひとつしかない」ってのと、母を意味する謎の言葉(もう忘れたw)だけで、彼がただ一人の宇宙人の血族の生き残りだとは、なかなか想像はつかないか。
個人的には頭のなかで、ぼんやりと「キリスト再臨」説と「宇宙人」説がせめぎあってた感じだったので、ぎょっとはしたけど素直に受け入れられた感じ。
「まあそのへんしか落としどころはないよね」、みたいな。
やってること(意想外なジャンル・チェンジによるびっくらかし)自体は、M・ナイト・シャマランとそう変わらないし、昔テレビで観た『フォーガットン』のほうが、衝撃度では断然上だったかもしれない(ジュリアン・ムーア主演の、あの人がビヨーンって吹っ飛んでくやつw 個人的おバカ映画殿堂入りの怪作)。
とはいえ、教会の地下から雪の平原をぶち破って、宇宙船が登場するシーンにはたしかについ笑わされてしまった。
「そんなアホなwww」
で、宇宙旅行編がしばらく続くのかと思いきや、キリスト教勢力の強制排出のシーンがあって、唐突に映画は「もうやることはやったからいいや」みたいな感じで終わってしまう。
「な、キリスト教ってのは畢竟クソみたいなもんなんだぜ! だからアホな十字架もアホなカラヴァッジョもアホな司祭もまとめて、強制排便してやったぜ!!」
って、それはそれでいいんだけど(笑)、
人間だったころの不倫や人間関係の清算も、
お母さんの映像がフェイクだったかどうかも、
母星が今も本当に存在しているかどうかも、
積み残した案件をまるごと放置したまま、いきなりエンドクレジットが流れて来て、僕は「実は宇宙人だった」の3倍くらいびっくりして、思わず笑ってしまった。
やはり、ここはツッコミ待ちというか、「あの段階で字幕が流れだす」という衝撃を敢えて狙ってやってるとしか思えないよなあ。
これだけ風呂敷を閉じる気がないというのは、結局のところ作り手は「わざとそうしている」としか考えられないのであって、これは俗に「投げっぱなしエンド」と言われるものを「意識的に」追求した結果の産物なのだと思う。
最初に言ったとおり、僕は監督がどういう映画を撮ろうが、別段構わない。
たぶん、ここにはパンキッシュな実験精神が満ちあふれている。
劇中の演出家が奇しくも口にするように、これは「コラージュ」であり、「前衛」なのだ。
そういやあの演出家は「僕が手掛けた作品は今までにもちゃんと当たってきただろう?」とも言ってたな。要するに、あそこで出て来る舞台演出家の言葉は、そのまま映画監督としてのアレックス・ファン・バーメルダムの言葉でもある。
監督は、自由意志で作品をコラージュしてよいし、私情を挟んで役回りを入れ替えてもよいし、自由な発想で作品を改変することを妨げられない。
その奔放な実験精神において、本作はジャンル・チェンジと投げっぱなしエンドの在り方について、挑発的に試してみた作品といえるのだろう。
ただ、正直言えば、少し思っていた映画とは違った、というのが率直な感想だ。
僕はもっと、野田秀樹の『夢の遊眠社』みたいなのを想像してたから。
この映画には「登場人物が演劇を進行しながら、どろどろの不倫関係に陥る」要素と、「宇宙人の生き残りを帰還させる」要素と、「キリスト教は宇宙の果てまでも布教し拡大する意志を持っている」という要素が、併存している。
これらを、もう少し「重層的」に結び付けて、言葉や象徴やほのめかしを駆使して「一体の物語」に出来ていると格好よかったのになあ、と。
現状、前半の不倫パートは、宇宙人だとわかった瞬間に、まとめてゴミのように物語から「排泄」されてしまう。で、どこまでキリスト教の在り方に対する批判を深めるのかな、と思っていたら、そちらも強制「排泄」されて終わり。
ゲーム音楽を聴きながらのほほんと時を過ごす主人公を乗せて、乗員のやけに削減されてしまった宇宙船は、いずこへかと飛び去って行く。
なんというか、ちょっと……いろいろ考えて作ることを放棄しているような(笑)。
野田演劇のように、もっと三つの異なるフェイズに存立する物語が、「仕掛け」によって混然一体となる作りも出来たはずなのに。
そういう思いは否めない。
個人的には、「宇宙人が聖職者として仮の生活を送り、母星への帰還に向けて、キリスト教組織として陰謀を張り巡らせている」という設定自体は、けっこうおもしろいと思ったので(ちょうど最近『ゴッドランド』を観たばかりで、キリスト教の辺境布教への野心への関心が高まっていた矢先であった)、そのへんもう少し深めてくれたらよかったのになあ、と。
だいたい最後まで観ても、誰が宇宙人の生きのこりで、誰がそれに便乗して布教しようとしてる聖職者なのかすらよくわからないし(笑)。
「足に釘を打ち付ける」ってネタだって、間違いなくキリストの受難と関係しているはずだと思うのだが、ネタとして出しただけでそのまま放置プレイだし、わざわざカラヴァッジョの『聖トマスの不信』を出してきたのにも何らかの意味がありそうなのに、単なる出オチで終わっちゃってるし。
宇宙人であるせいで「病気ひとつしない」といった『アンブレイカブル』みたいな超人設定とか、娘のサプライズ用盗撮ビデオ撮影とか、いくらでも膨らませようがあると思うのに、なんか忘れちゃったかみたいに放りっぱなしになってるし。
……と、いろいろと文句はつけたいところだけど、こういう「人を喰った」映画自体は個人的に嫌いじゃないので、また次回作が日本で公開されるようなことがあれば、ぜひ期待したいと思います!
あと、パンフの解説を読んで、『No.10』ってタイトルが、フェデリコ・フェリーニの『8 1/2』を意識してると言われて、なるほどと思いました。不条理劇って意味でも、自分自身を主人公に投影した作品(ファン・ヴァーメルダムは劇作家・俳優でもある)って意味でも、そうなんだろうね。
監督本人が主役の映画みたいなもんだと思って改めて考え直すと、これって、ある種の「貴種流離譚」でもあるんだよな。やたら主人公にとって都合の良い展開の……(笑)。だいたいこの映画の主人公の設定自体は『スーパーマン』と一緒だしね(ちっとも地球のためには戦わず、害だけ成して星外逃亡をはかるんだけどw)。
本人のなかにも、私生活における恋愛のどろどろとか、演劇業界をメチャクチャにして高跳びしたい願望とかが実際にあったのかもと思いながら観直したら、もしかすると新たな発見があるのかもしれない。……いや、おそらく観直したりはしませんが(笑)。