「そういう人も確かにいるだろうが、もっと他にもあるだろう」アメリカン・フィクション えすけんさんの映画レビュー(感想・評価)
そういう人も確かにいるだろうが、もっと他にもあるだろう
侮辱的な表現に頼る“黒人のエンタメ”から利益を得ている世間の風潮にうんざりし、不満を覚えていた小説家が、自分で奇抜な“黒人の本”を書いたことで、自身が軽蔑している偽善の核心に迫ることになる(Amazon Primeより)。
わたしたちは、東北の片田舎から上京したてで高層ビル街で右往左往する若者のことを助けたいし、LGBTQというテーマでパレードに参加して声高に主張する人も、密やかに生活を送りながらも苦しみに苛まれている人もどちらも理解を示したいし、サスティナブルな商品で地元を盛り上げようとしている地方の中小企業のことは応援したい。
一方で、「片田舎から上京してきた若者」「LGBTQの人々」「地元を盛り上げたい地方の中小企業の社長」の、例えばお母さんの介護の問題や、兄弟間のお金の問題などにはあまり関心がない。ちょっと極端な例だが、日本に准えて言うのであれば、本作で扱っているテーマはこれである。
ややわき道に逸れるが、黒人選手が全体の70%以上を占めるアメリカのプロバスケットボールリーグ「NBA」では、スラムに生まれ、毎日食うや食わずの生活だった子どもが、持ち前の身体能力と血反吐を吐くような努力と最高のコーチを得て、100万人にひとりという極めて狭き門のNBA選手になり何億円も稼ぐアメリカンドリームを勝ち得た、というナラティブが大人気だが、2024年の現代において、そういった選手は、いないとは言わないが、かなり稀である。
本作でも、黒人は全員ラップを愛し、父親はだらしなく、経済格差に苦しみながら、ドラッグに溺れ、最後は白人警察官に銃で撃たれるが、人間として最も大切な尊厳は奪われなかった、というナラティブが皆が求めるものとして描かれているが、主人公の黒人小説家モンクは辟易し、「そういう人も確かにいるだろうが、もっと他にもあるだろう」と嘆息を漏らす。かれの実家は全員黒人だが比較的裕福で、兄と妹、亡き父は医者で、本人は文学の博士号を持っている。
本作では、主に白人がこうしたステレオタイプの物語へ理解を示し、「これこそが生の黒人の声なのだ」と捉えることを「免罪符」と皮肉気味に表現している。そうすることによって、自身の人種が歴史的に為してきたことがちょっと赦される気分に浸れるしどこか安心できる一方で、モンクの指摘するように、そんなことだけじゃなくてもっと色んなこと、「別の生の黒人の声」には耳を傾けなくなる。文学賞の審査会に、そんなアイロニーが込められている。いや目の前にいる黒人審査員の意見は?みたいな。
とは言えとは言え、商業的な成功やエンタメ性も大切な要素ですよねはいはいもちろん分かってはおりますよ、という本作の制作者自身もメタ化する結末は、大衆の期待するナラティブにどこまでも抗い続けていて小粋ですらある。