「『オーメン』のプリクエルだけど、テイストは『サスペリア』+『ローズマリーの赤ちゃん』(笑)」オーメン ザ・ファースト じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
『オーメン』のプリクエルだけど、テイストは『サスペリア』+『ローズマリーの赤ちゃん』(笑)
新人女優ネル・タイガー・フリーの修道服の着こなしが美しすぎて、惚れた!!
何これ? 俺、こんなシルエットのカッコいい修道女、人生で観たことないよ!
いかり肩と高身長が、スリム&タイトな修道服とあまりにフィットしすぎてて、まるでモード系のファッションショーでも観ているみたいだ……。崇高すぎる……。
このパーフェクトで理想的なシルエットがまさか、終盤のラージポンポン化(死語)の伏線だったなんて!! そりゃコワいよな。悪魔による内側からの、美の徹底破壊だもの。
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ホントはそれほど観る気もなかったのだが、『エクソシスト』のリブートの方を観といてこっちは観ないのは人としてどうかという思いと、21時以降で観られるレイトショーがこれくらいしかなかったのとで、ついなんとなく観てしまった。
(21時過ぎだというのに、映画館は若者~中高年で結構込み合ってて、こいつらみんなこれからコナン君の新作を観るんだと思ったら、日本の未来がだんだん不安になってきたw)
結果的に、それなりに面白かったので一応観といて良かった。
だいたい50周年ってことで、次々と70年代のメガヒット・ホラーがリメイク&リブートされてく流れなんだろうね。
あの頃の殿堂入りホラー映画群にはこちらにも強い思い入れがある分、安易な再生産には内心引っかかるところもあるけど、ホラー如きで「安易じゃない」ものを求めるっていうのもまた、筋違いな気がする。「売らんかな」のさもしくいい加減な姿勢で臨んでるくらいが、むしろ正しいホラー映画の扱い方なのでは?(笑)
最近、A24あたりの気の利いたホラーばかりを見過ぎて、つい舌が奢って口うるさくなってしまっているきらいがあるけど、本来のホラーはもっと化調たっぷりの、場末のやっすい町中華のようなテイストであるべきであって、へんに無化調を挙げたてまつるような風潮は厳に慎むべきでしょう。
って、閑話休題。
今回の『オーメン』は、76年作品の「前日譚」という設定で、ダミアンが産まれる「まで」を描いている。
「教会急進派の陰謀」というダン・ブラウンみたいな背景を用意してあるせいで、話をアメリカでは展開しづらくなって、ローマが舞台に設定されている。
で、題材は「悪魔の子」の所業ではなくて、「悪魔の子」を創造する過程。
結果として、いったい何が起きたか。
『オーメン』のリブート(というよりプリクエル)なのに、なぜか同じ60年代後半から70年代にかけて巻き起こったオカルト映画ブームの「別の作品」に、思い切り寄せたような作りになっているのだ。
具体的に言えば、本作は『オーメン』と言いながら、ダリオ・アルジェントの『サスペリア』(77)と、ロマン・ポランスキーの『ローズマリーの赤ちゃん』(68)と劇的によく似ている(笑)。
考えてみれば、そりゃそうだって話かもしれない。
あの頃の「オカルトブーム」というのは、キリスト教的な終末論の高まりと、都市化による人間不信の拡大を心理的な背景として、
●ふつうの母親が悪魔の子を産む『ローズマリーの赤ちゃん』
●悪魔がふつうの子に乗り移って暴れまわる『エクソシスト』
●悪魔の子がふつうの子のふりをして災いを呼ぶ『オーメン』
●魔女がふつうのふりをしてバレエ学校に巣食う『サスペリア』
と、いろいろと「棲み分け」しながら展開していたわけである。
(いずれも、「得体の知れない近隣住人」や「性格のつかめない家族の一員」に、もしかしたら「悪魔の化身」が紛れているかもしれないという、ボディ・スナッチャー的な「信用できない他者」に対する恐怖感が、前提として存在する。)
当然、『オーメン』の扱っていた範疇(アンチキリストの再臨×アンファン・テリブル)から出っ張って話を広げていくと、別の映画の扱っていた範疇を侵食することになる。
『オーメン ザ・ファースト』の前半は、概ね『サスペリア』をなぞるように展開する。
アメリカ合衆国から遠い異国に単身やってきた若い女性(『サスペリア』ではドイツだが)。
異様な雰囲気の空港から、車で市街地を通って目的地へ向かう。
街には不穏な気配が漂う(『サスペリア』では暴風雨、本作では若者の暴動)。
女性ばかりの寄宿舎(『サスペリア』ではバレエ学校、本作では女子修道院)。
指導者は全員老齢の女性だが、小間使いにだけは男性が交じっている。
一見すると楽しい若い女の子たちの空間に漂う、不気味な凶兆の影。
最初の被害者である女性が「上から落ちて来て首吊りになる」ところまで一緒だ。
(割れて落ちて来るステンドグラスは、冒頭のシーンに転用されている。)
修道院の「外」に男性の有識者が居て、集団の闇の部分について指摘してくれる流れ。
秘密の扉の向こうに拡がる地下迷宮と、そこを探検していくヒロイン……。
ね、『サスペリア』とホント良く似てるでしょ??(笑)
あと、頭のねじが飛んだ感じの少女が出て来て「やたら怖い絵」を描くところとか、不気味な出産オペ用の器具が並べられてるところとか、いかにもアルジェントっぽい。
間違いなく、作り手はかなり意識して『サスペリア』に寄せている。
で、後半戦に展開する「恐怖」の本質は、ほぼ『ローズマリーの赤ちゃん』と一緒だ。
自分が悪魔の子どもを孕んで(孕まされて)、産んでしまう(産まされてしまう)のではないかという恐怖。
自分を慈しみ庇護してくれている人々が、実は自分を陥れる陰謀を張り巡らせているのではないかという恐怖。
『ローズマリーの赤ちゃん』には、グロテスクな腹ぼて描写や出産をネタにした手術シーンなどは一切ないわけで、このへんの即物的な人体改造&肉体変容描写のノリはむしろデイヴィッド・クローネンバーグや『デアボリカ』(73)に近い感じもするが、「扱われているネタ」自体はまさに『ローズマリーの赤ちゃん』そのままである。
ここに『オーメン』リスペクトの人体串刺し&切断シーン(そういや『オーメン』を象徴するアイコンでもある「カラス」が全然この新作には出て来ないんだよな)や、『エクソシスト』(73)を思わせる「戦う聖職者」「組織内で対立するカトリック」の要素も含めることで、全体に「70年代オカルト映画」への「忠誠心」を明らかにしているといえるだろう。
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今回観ていて「おっ」と思ったのが、70年代オカルトブームの理由付けとして、制作者サイドが、60年代末の五月革命やフラワー・チルドレン・ムーヴメントを受けての、「若者の反体制運動」と「若者のキリスト教離れ」に対する「宗教界のカウンター」という要素を強調している点である。
すなわち、学生たちが既存の権力に対してNOを突きつけ、政治・宗教の束縛から自由になろうとする流れのなかで、それを押しとどめるために、旧勢力内の急進派が「宗教的な極限状況を生み出す」べく、アンチキリストを降臨させようとした、という解釈である。
これは裏を返せば、70年代になぜオカルト映画があんなにも爆発的にヒットしたのか、の文化的な背景として、作り手は、ユースカルチャーにおける(キリスト教に対する)宗教的帰依心の希薄化があるのではないかと考えているわけだ。
大人の世代は、自分の子どもの世代が旧来的な価値観や宗教的権力に対して真向から異を唱えていることに、漠然とした不安を抱いている。一方で若者の世代もまた、公然と教会に歯向かっている自分たちの振る舞いに対して「何か罰が下るのではないか」という「惧れ」をぼんやりと感じている。だからこそのオカルト映画ブームだったのではないか、と。
個人的に、70年代のオカルト・ブームと、若者たちの「政治の季節」をあまり結び付けて考えたことがなかったので、ここの視点は結構斬新に感じられた。
結局、ヒロインは悪の甘言に唆されて、「華美な化粧をして」「卑猥な服を着て」「世俗の町に出て」「しこたま酒を飲んで」「男たちと踊って」「性的なやりとりを交わす」(実際にやったかどうかはよくわからないが)という「破戒」をしでかした結果として、悪魔の子を懐妊する。あのブライアン・デ・パルマの映画の一シーンのような、やけにチープでホラー映画としては妙に場違いな酒場のシーンは、その実「悪魔受胎の儀式」だったことになる。これは、無垢なるヒロインを「穢す」ことで受胎を可能にする儀式として捉えるべきシーンであると同時に、70年代ユースカルチャーの乱痴気騒ぎに触れた(感化された)ことで「宗教的に堕落する」、という本作の思想(「オカルトブームの背景には70年代若者文化への漠然とした背徳感がある」)に則ったシーンとも言えるわけだ。
それと、キリスト教の女子修道院という施設に対して、そもそも作り手の共感度があまり高くないというか、現代的な観点からあり方自体を問題視している気配があって、このへんはさすがは2024年のリブートだなあ、と。
制作陣は、問題のある児童に対する指導や罰の与え方について、閉じ込めや拘束を行うことに明快に否定的だし、子供を産む性としての「女性」に対する旧弊な考え方自体、フェミニズム的観点からよろしくないと捉えているのが、ひしひしと伝わって来る。
考えてみると、これは判りやすいくらいの「女性映画」なんだよね。
極度に性的に抑圧された環境。旧来的な「しつけ」の横行する人権無視の修道院内部。そこで「受胎」という最もデリケートな女性の特権性を奪い、強制的に発動させようとする異端派の連中と、それを正当化する宗教権力。この過酷な環境下で「女性であるマーガレット」は生き抜くことができるのか……?
ラストで、人工的に「産まされた」三人の「父なき女性」たちが「シスターフッド」を形成しているのも、実に象徴的だ。
結局は『オーメン ザ・ファースト』もまたそういう意味で、昨今の『ザリガニの鳴くところ』や『バーニー』同様、女性の生き方と社会の軋轢を描く社会的映画であったとも言える(感想を書いてから予告編を見て驚愕。監督・脚本のアルカシャ・スティーヴンソンってまだうら若い女性監督だったんだな!)。
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ただし映画としては、結構とっちらかっている印象もあって、すべての部分でしっくり来たわけでもない。とくに序盤はあまり空気感が一定しないというか、雑然とした感じがあって、なかなか作品世界に入り込みづらかった。
結局、彼女が処女懐妊だったのか、男の精が入ったのかもよくわからないし、後から生まれたほうのスキアナ(=カルリータ)は結局なんのために育てられていて、映画内でどういう役割を求められていたかもイマイチ理解できない。ふつうはこちらのほうが「スペア」扱いなのでは? わざわざ同じ修道院にアメリカから呼び寄せておいて、マーガレットにカルリータと関係を深めてはならないとか言ってるのも、何だかなあって感じ。じゃあ、別の修道院で監視すりゃいいじゃん。
カルリータが描いてた絵も結局なんだったんだろうね。予知能力(予兆=オーメン)か感応力の発現? このあたりもう少しヒントがあってもよかったような。
ザルのような極秘資料の管理、簡単に見つかる秘密の通路、修道院内に神父の内偵者が複数いるなど、異端キリスト教組織の危機管理の「ゆるさ」も気になる。やたら修道女にタバコを喫わせてるのは、堕落の象徴としてなのか、それとも単なる時代性なのか。自殺した修道女の意図も僕にはよくわからなかったし、行きずりの男が666を見たから何だというのか(ふつうだからといって「あざを探せ」とか言わない)。そもそも内顎や頭皮が「盛り上がってる」のを「あざ」というのか(笑)。
「双子」設定も、続編につなげようというのはよくわかるのだが、イマイチ必然性は感じられなかったなあ。だいたい、帝王切開したあとの妊婦があんな風にうろうろ歩き回ったりできるもんなのだろうか(端から自然分娩は考えていないような見せ方だったけど、「悪魔の子」はまともに産まれた子じゃない、という意味合いでの帝王切開なら酷い感覚だ)。
なんにせよ続篇はありそうだが、ダミアンと三人が闘う流れ?
なんか、あんまり面白くなりそうな気はしないなあ(笑)。
コメのコメありがとうございます。
グレゴリーペックとゆーイケメン大物俳優をキャスティングした「元祖オーメン」
5●歳の私はリアルタイム視聴者でした。
串刺しやら首チョンパやらのシーンだけ切り取りされて騒がれ(昔も今も変わりませんな…)
クォリティ高いサスペンス作品と一般評価されるのは後年。
ダミアンの産みの母の墓掘り起こしたら山犬の骸だったんで、グレゴリーペック(養父)がいよいよダミアン殺害を決意する…流れ。
前日譚ムリがありそで、観ないかなー。
(動画配信されたら観るかもです)
ひささま
コメントありがとうございます。そのへん、一切絵としてはありませんでしたね。目が醒めたら部屋に戻っていただけで。彼女たちの「親」に関しては、山犬とつがわせたという説明が(こちらも映像は出てきませんが)出てきます。