顔を捨てた男のレビュー・感想・評価
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現実の捉え方の違いで分かれた人生の明暗
アダム・ピアソンを寡聞にして存じ上げず、彼自身がいわばリアル・オズワルドと形容したくなるような俳優であることを後で知って本当に驚いた。
正直な話、物語序盤のエドワードを見ながら「この風貌で俳優として働いてる設定なんてシュールだな」などと思い、オズワルドについては、特殊メイクだろうという先入観で見ていた。あの見た目であそこまで陽キャなのも主題を語るための誇張に見え、非現実的だと感じていた。
今は、ピアソンに土下座したい気持ちだ。セバスチャン・スタンもすごかったが、振り返ればこれは神経線維腫症当事者であるアダム・ピアソンありきの映画なのだ。
不条理スリラーという惹句の本作、確かに前半はその言葉通りの印象だ。雨漏りする天井から何か(ネズミ? もっと大きなものも落ちてきたような)が落ちてくる場面や、謎の薬によってエドワードの顔がベロンと剥がれて変わってゆくところなどは本当に気味が悪い。顔を捨てるって整形手術じゃないんだ……いや手術にしてくれよ。
ところがオズワルドが登場してからは、じめじめしていた物語の湿度が彼の明るさによって下がり、同時にエドワードの苦悩の描写がどこか皮肉めいたものに見えてきた。オズワルドのトークや行動は小気味よく魅力があり、そのかたわらであれこれ足掻いて包帯グルグル巻きになったりするエドワードを滑稽にさえ感じた。
容貌が変わる前のエドワードは、俳優という人前で表現する仕事に就いてはいたものの、与えられていたのは企業向けの人権教育動画における障害者のステレオタイプのような役だ。彼の仕事への向き合い方もどこか受け身に見える。治験(だったか?)で顔の腫瘍を改善する治療を受ける決断でさえも、エドワード自身が熱望して、という様子ではなく話の流れで、という印象だった。
治療で顔が変わった彼は、エドワードは死んだと偽ってガイと名乗り、一転して不動産営業で成功した。だが、隣人の劇作家イングリッドが彼との交流を題材にして書いた劇を介してオズワルドに出会ってから、彼のアイデンティティは揺らぎ始める。
イングリッドとのごく私的なエピソードを劇作品に仕立てられ、その上後から来たオズワルドの提案でその結末を変えられるなど、エドワードにも同情したくなる点はある。
ただ、彼がオズワルドとの出会いにより不安定になっていった本質的な理由は、過去の自分を彼と比較してしまったからではないだろうか。
序盤、レディー・ガガの「現実を受け入れない限り幸せにはなれない」といった言葉が紹介される。これはポジティブな受容を指すように思われる。
元のエドワードは端役で細々と暮らし、天井から雨漏りがしネズミが落ちてきて、それが不快でもなかなか修理を頼まない。死にたくなるほど現実を拒絶するわけではないが、我慢することで現実に自分を馴染ませようとする、それが治療前の彼の生き方だったように見える。
ただ、治療でイケメンになり営業で成功した以上は、オズワルドに出会おうが今の自分を肯定しておけばよかったのだが……。
「配られたカードで勝負するしかないのさ……それがどういう意味であれ」というスヌーピーの名言がある。手持ちのカードの強みを理解し、ポジティブに向き合い積極的に活用して人生を謳歌しているオズワルド。一方、既に手放したカードに後から執着を見せるエドワード。どちらが賢明な生き方かは言うまでもない。
一見ルッキズム批判の話のようでありながら、実は外見の問題のみにとどまらず「自分が今置かれている現実をどう捉えるかで人生は変わる」というテーマが語られているようにも思えた。
SNSの普及で自分の幸福を他人との比較で測る傾向が強まっている現代だからこそ、オズワルドのような生き方を実践するピアソンの言葉が刺さる。
「みんな、小さなデバイスを持ち歩いていて、まるで低い自尊心を養う装置みたいに、Instagramをスクロールしながら、他人が輝いている姿と自分の現実を比較してしまっています。」
「壊れていてもいい。自分の不完全さを受け入れて、でもその中で美しく、素晴らしい存在でいようとすることを大切にしてほしいです。」
(The Hollywood Reporter Japan インタビュー記事より)
「エレファント・マン」から45年、映画と私たちは進歩したのか?と問いかける
人の外見の好き嫌い、また内なる嫌悪感や差別的感情についての難題を突きつけてくる映画だ。ただしけっして社会派のまじめなドラマというわけではなく、サスペンスとダークなユーモアと不条理さのバランスが絶妙な娯楽作になっている点もいい。
主人公エドワードの序盤の外見は容易に「エレファント・マン」(1980年のデヴッド・リンチ監督作)を想起させる。一方、新薬の効果で古い異形の“外面”が崩れて中から新しい(セバスチャン・スタンの)顔が出現するシーンは、「ザ・フライ」(1986年のデヴィッド・クローネンバーグ監督作)の変身シーンの逆バージョンのようだと感じた。「2人のデヴィッド」の80年代の名作に通じる趣は、スーパー16ミリフィルムで撮影された映像の質感によって補強されている。
脚本も手がけたアーロン・シンバーグ監督は、生まれつき口唇口蓋裂があったため矯正手術を何度も受けたことを明かしている。そうした実体験に基づき、外見やアイデンティティをテーマに映画を作っており、長編第2作「Chained for Life」では神経線維腫症1型の当事者であるアダム・ピアソンを主演に抜擢。シンバーグ監督はこの第3作でもピアソンをオズワルド役で起用し、脚本開発段階から助言を得て当事者の視点を盛り込んでいったという。
イングリッド(レナーテ・レインスベ)が書いた舞台劇に、「醜いものを忌み嫌うのは人間の本能だ」という台詞がある。また、序盤に映る啓発ビデオでも、「“恐れ”は獣への警戒心から生まれた」「我々は原始的な脳の反応を制御できません」と説明される。そうした本能に基づく感情を理性や知性で制御するのが文明人としての進歩というわけだ。「エレファント・マン」から45年が経ち、多様性やインクルージョンといったお題目は語られるようになったものの、映画やドラマの中でアダム・ピアソンのような当事者が重要な役で登場することはまだ少ない。また世界的な傾向としても、主に民族や人種の点で昨今、多様性尊重への反動が広がりつつある。「顔を捨てた男」を観ると、私たち人間の理性は本当に進歩しているのか、と問われている気がする。
ルッキズムの皮肉に満ちた寓話
かつての「エレファント・マン」を想起させる設定だが、本作はその一歩先を行く物語だった。
”エレファント・マン”ことジョン・メリックはサーカスの見世物として悲惨な人生を歩むが、彼に比べると本作のエドワードは周囲からの奇異の目を気にしながらも、それなりに普通の日常生活を送っている。彼が住むアパートの管理人、仕事仲間、バーの客たちは彼を見ても気味悪がる様子を見せない。そういう意味では、19世紀末頃を舞台にした「エレファント・マン」とは明らかに時代の違いも感じた。
ただ、そうはいってもエドワード本人は自身の容姿に対するコンプレックスに苦しみ、友達も恋人も作らず孤独と不安に駆られている。周囲がどう見ようと、本人の中では”普通と違う”ことに苦しみ、ジョン・メリックと同様に常に疎外感を感じているのだ。
そんなエドワードは実験段階の治療でハンサムな男に生まれ変わり、不動産会社の営業マンとして新たな人生をスタートさせる。高級マンションに住み、恋人もできて成功の美酒に酔いしれる。ここから本作は「エレファント・マン」から一歩先を行く物語になっていく。
そこでキーマンとなるのがオズワルドという、かつてのエドワード同様、顔に大きな障害を持った男である。彼はエドワードと正反対で、自分の外見を気にすることなく、陽気で社交的で誰からも愛されている。エドワードの持っていないものをすべて持っているのだ。
以前の自分のように醜い容姿をした彼が幸せそうな人生を送っているのを見て、きっとエドワードはこれまでの人生を否定されたような気持になったのではないだろうか。外見ではなく内面が魅力的であれば愛される。それを体現するオズワルドを見て、エドワードの心は打ち砕かれたに違いない。
カラオケで美声を響かせて聴衆をうっとりさせるオズワルド。それを羨望の眼差しで見つめるエドワードの表情が印象的だった。
人間的魅力は外見ではなく内面にこそ宿る。これはルッキズムに対する痛烈な皮肉とも取れる。個人的には最近観た「サブスタンス」を連想した。ただ、「サブスタンス」のデミ・ムーアが最後まで若さと美貌に憑りつかれていたのに対し、今作のエドワードはそこまで暴走しなかったのはせめてもの救いである。そこは両者、似て非なる所である。
監督、脚本は本作が長編3作目の新鋭ということである。自分は初見となるが、余白を残した演出が時折見られて中々面白いと思った。
例えば、エドワードの部屋の天井にできた水漏れによる穴。これは日が経つにつれてどんどん大きくなっていく。ドラマ上これが特に機能するような場面はないのだが、エドワードの孤独のメタファーと捉えれば中々シュールで面白い。
終盤のエドワードの行動も、どういう感情から起こしたのか説明されない。かなり突然だったので驚いてしまったが、自暴自棄的に見えるこの行動にもきっと何か真意があるはずだ。オズワルド=かつての自分をバカにされたことによる怒りだったのかもしれない。
一方、ラストシーンの意味については今一つよく分からず、後になって調べてようやく分かった次第である。確かに途中で何度か伏線は張られていたが、少し分かりづらいと思った。画面をよく見ていないと気付かない人も多いのではないだろうか。
ちなみに、このラストシーンでも見られたが、カメラが度々がズームインする場面がある。ちょっと作為的という気もしたが、インパクトを与えるという意味では中々面白い効果を上げていると思った。
キャストでは、エドワーズを演じたセバスチャン・スタンの巧演が素晴らしかった。前半は特殊メイクをしているため、ほとんど彼だと気付かない容姿をしている。先入観をなくして純粋に彼の演技力を堪能できた。舞台がニューヨークということもあろう。劇中でも指摘されていたが、ウディ・アレンよろしく猫背でオドオドした演技は新鮮だった。
また、オズワルド役のアダム・ピアソンも印象に残った。彼は実際に神経線維腫症を患っており、本作の外見そのままの素顔ということである。
尚、彼は同監督の前作で主演を務めたということらしい。残念ながら、日本未公開作なので観ることは出来ない。ただ、彼のような個性派俳優を続けて映画に登場させていることから、この監督は何かしら一貫したテーマを持っているような気がした。
後半のトントン拍子で軽くなってしまう
トッツィーに軍配。
外面(ルッキズム)か、内面(性格)か、究極の選択を投げかける映画。
平日に突然の休みができたので、適当に映画を物色していたところ、「顔を捨てた男」のタイトルが目に入った。ミステリーっぽいのかなぁ、と思って鑑賞した。
その思いはほぼ外れたものの、人間の外面(ルッキズム)と内面(性格)がその人の人生(観)に多大な影響を与えている(く)様子を、見事に描写している良質な映画だった。
主人公のエドワードの顔面は、疾病による腫れものによって、醜く膨れ上がっていた。性格は、控え目で、物静か、波風を立たせないよう気を配って人生を静かに送っている。それは、その風貌から成るべく目立たないように、他人の目に触れないように、陰に潜んだ生活ぶりだった。
そんな状況のなかで、治験による新薬の投与によって、エドワードは、見事に本来の自分の顔を取り戻す。その後は、自分を「ガイ」と名乗り、不動産会社のトップセールスマンになるなど、彼の人生は、180度変わったかのように見えたが、ある日、ガイの前に、以前の彼の醜い顔とそっくり瓜二つの顔をした、オズワルドが現れる。
オズワルドは、以前のエドワードとは違って、その風貌とは裏腹に、明朗快活で、前向きな性格、人生を心から謳歌している。そして、思いを寄せていた女性、イングリッドまでが次第に、オズワルドに心を引き寄せられるようになる。挙句の果てには、俳優業もしていたガイの役をも奪われてしまう始末。
ここ以降からが、この映画の本質を表現していく、重要なチャプターになっている。
このオズワルドの出現によって、ガイは恐らく、自分自身を否定されたように感じたに違いない。ガイは、以前のその顔の風貌に、非常に苦しみ、コンプレックスを抱いてきたにもかかわらず、全く同じ顔をしているオズワルドは、その事を気にしている素振りもなく、むしろ、他人以上に自由奔放に人生を楽しんでいる。それを目の当たりにしたとき、ガイの心の中にあった何かが、ことごとく崩壊していったんだと思う。
そして、その崩壊が、その顔とともに、真に生まれ変わるきっかけになれば良かったが、残念ながら、そうはならなかった。
ガイは、次第にオズワルドを妬み、疎ましく思うようになる。その状況は、以前の自分の顔に対するエドワードの性格そのものとそれほど変わらない。
オズワルドは、ガイに言う。屈託のない、けれど、本質をついた、少しトゲのある言葉、「キミは変わらないなぁ。」。すなわち、「せっかく本来の顔を取り戻したのに、ネガティブな内面(性格)も変わらなければ、その後の人生に意味はないよ。」という、オズワルドのこの何気ない言葉は、何とも考えさせられる。
本来の顔をやっとの思いで手に入れたものの、内面(性格)を変えられずに、その後の人生が開けなかったエドワード(ガイ)と、自分の顔のことは一切気にすることなく、明るく振舞うオズワルド。
この二人の人生描写の対比を通して、いやがうえにも鑑賞する者に、外面(ルッキズム)以上に重要なものは何かという普遍的な問いを投げかけている。
時間つぶしのために適当に選んだが、心の奥底にいつまでも残りそうな、忘れられないような映画だった。人生には、人それぞれ程度の差こそあれ、理不尽なこと、不平等なこと、納得できないこと、様々なことがあって、ストレスが溜まる毎日だと思うが、この映画は、そんなストレスを多少なりとも浄化してくれる、鑑賞して損はない映画だと思う。
【パンフレットを読んで】
エドワードの隣にたまたま住んでいる女性(イングリッド)が、都合よく話しかけてきて、そんなに親しくなるか? とか、オズワルドのような、そんなベリースーパー陽キャラみたいな人間なんているわけないよなぁ。とか、映画「あるある」っぽいことも考えながら鑑賞したのち、購入したパンフレットを読んだら、なんと、このオズワルド役の俳優、アダム・ピアソンさんは、この映画に「素顔」で出演していることがわかり、軽い衝撃を受けました。
てっきり、相手役セバスチャン・スタンと同様に、「特殊メイク」かと思っていて、最後まで気づかなかった。
正直、自身のレビューの最後のほうで、「鑑賞する者に、外面(ルッキズム)以上に重要なものは何かという普遍的な問いを投げかけている。」などと、青臭くて綺麗ごと過ぎる言葉を書いてしまったな、と思ったのですが、オズワルド役の人生を「地で行く」、アダム・ピアソンさんの存在を知ったら、いやいや、「青臭くて綺麗ごと過ぎる」、どころか、至極当然な問いかけであると思い直しました。
反ルッキズムは流行りなのか?
この作品で思い出した映画が2本あります。「エレファントマン」(1980年)と「マスク」(1985年)です。この「マスク」は、ジム・キャリーが出演している映画ではなく、ライオン病という病気を患ったロッキー・デニスという実在の青年の半生を描いた映画の方です。ともに感動作で特に「マスク」はハンディを負とせず明るく生き抜く姿に胸が熱くなった記憶があります。
「顔を捨てた男もそのような作品かしら?」と予備知識無しで鑑賞しましたが、違ってました。
今年公開された「サブスタンス」と同様に反ルッキズムをテーマにした映画という感じがしました。
新しい顔を手に入れたエドワード(セバスチャン・スタン)が、ガイと名乗り別人としてイキイキと活躍していく姿は良いのだが、変形した顔を持つオズワルド(アダム・ピアソン)が現れたことによってエドワードの内面が徐々に崩壊していく姿がある意味恐ろしく感じました。
外見にとらわれずありのままの自分を受け入れて生きていくことが大切かもしれませんが、なかなか難しいことかもしれませんね。
これを書いていて邦画の「ハンサムスーツ」を思い出しました。
理想と現実のギャップ
顔に特異な形態的盗聴を持つ男の理想と現実が反転する不条理スリラー。原題「A Different Man」は「エレファント・マン」を意識したような題名ですが、ストーリーに面白みが無く比較するまでもない印象を受けた。
2025-118
ルッキズムにとどまらない深みのある作品
ルッキズムを取り上げた作品なのだろうとタカを括っていたが、
それにとどまらないところに心を打たれた。
というのも、
セバスチャン・スタン演じる主人公エドワードは、
その特異な外見から、ひどい扱いを受けてきていて、
自分自身にも自信がない。
そんな彼が治療を受け、新しい顔(本来の顔だろう)を手にいれ
それなりに仕事がうまくいったりモテたりするようるなったが、
エドワードの本質は変わらないのだ。
人と比べる、人を羨む、自分に自信がないのは変わらない。
一方、昔のエドワードの顔に良く似たオズワルドは、
特異な顔にも関わらず、周囲の人たちとのコミュニケーションは抜群だし
自分に自信があり、顔のことをコンプレックスに感じているそぶりがない。
人と比べたりなんかしないし、むしろ人をたてるのだ。
だから人から好かれ、信頼されるのだろうと思う。
この人間的な本質の違いが、彼らの人生が全く異なる結果を生んでいる。
まさに人としての本質を抉り出すように描いていて、
私は心を打たれたし、自分自身も外見にコンプレックスを持ったり
他人と自分を比べたりせず、自分の人生を楽しもうとあらためて思った。
パンフレットも購入。
じっくり本作の余韻に浸ろうと思う。
エゴとアイデンティティのはざまで
なかなか際どい題材を扱って攻めている脚本演出が上手い。観客が自分の感覚を自らに問いがちなシーンがあり、外見による差別ということについて向き合うことになる。
ただ本作の秀逸なところはそれ以上に、外見の変化によって明らかになっていく主人公のエゴを描いていくところ。外見含めた自分を全否定し、違う人になることを選んだくらいなのに、好きだった女性への執着と外見が変わっても元々の自分のアイデンティティは捨てられないという様子の描き方が独特。自分と同じ病を持っていても人生を謳歌している人に感じる強い嫉妬。観客は自分がこのスクリーンの中の話に対して感じる感情感想は正しいのか?と自問自答してしまう。不思議な魅力を持った作品。
主人公のエドワード役は「アプレンティス」で見事なトランプ像を演じた人。内面と外見の演技の複雑なバランスが見事。
驚いたのは後から出てきた主人公が嫉妬することになるオズワルドを演じている方は本当にその顔の症状を持っている方とのこと。すごい役者、だからこそこの作品に力があるのかもしれない。
2025 58
生まれ変わる時
顔に特異な形態的特徴を持ちながらも新薬により治った男が、治療前の自分と似た男と出会い、動き始めたはずの新しい人生が…といった物語。
これは深く考えさせられる作品ですね。
現実問題として、男女問わず見た目が良いことは計り知れないほどのアドバンテージであることに異論はないと思います。
自信が付いたエドワードは仕事でも成功していき、かつて憧れた彼女と…。
そんな中、突如現れたオズワルド。かつての自分と同じ立場にあり、そんな彼と心を寄せ合って熱い友情が生まれる…的な展開になると思いきや。
う〜ん、そのことを気にもしていない(ようにみえる)オズワルドに、人知れずコンプレックスを抱いたのでしょうか。あれ程苦しんでいた自分と何故こうにも違うのか。そしてあろうことか、生まれ変われたはずの自分が、かつての"自分"に全てを奪われていくような感覚…。
結局大事なのは見た目ではなく心だよね…
なんてくだらない綺麗事を言うつもりはサラサラないですが、エドワードとオズワルド、確かに輝いてみえたのはオズワルドであることもまた事実か…。
なんとも複雑な気持ちにさせられた作品だった。
それはそうと、皆さん動物は責任をもって飼いましょうよ。んで、イングリットさん、最初は素敵な女性かと思ったが、あんたも中々にね…。。
そして最後。日本食なのが何となく誇らしいが、この後がどうなるか…っていうか何を伝えたい場面なのか?
また、エドワードに関しては主治医には普通にありがとうございますで良かったのでは?
細かい所が少し気になってしまったかも。
いずれにせよ、難しくも良作だったと思います。
容姿というより、過剰な自意識
ルッキズム云々という問題ではない
見た目が全てではない
ストレンジダーリンと比べると遥かに面白かった。
あそこまで酷い容姿の人っていない?と思うけどでも役者を目指してるのも凄かった。
よく目指そうと思えたね。勇気がある。
整形して演出家の女性と良い感じになったらオズワルドという過去の自分に遭遇性格は明るくおしゃべり奥さんやお子さんもいたから驚いた。
オズワルドの登場で男性もおかしくなり知人を殺して刑務所行き顔にボール当たる監視官も知らんぷり顔にボール当たると痛い私も経験者なので分かる。笑えない。
刑務所から出てきてオズワルドと女性誰?再会来てくれたのはいい人だった。
私もあまり容姿を重視しすぎる人が苦手そういう人は言葉悪いけどクズが多い。
内容考えた人中々良かったと思います人間は顔だけじゃないんですよそう思いませんか?
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