顔を捨てた男のレビュー・感想・評価
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現実の捉え方の違いで分かれた人生の明暗
アダム・ピアソンを寡聞にして存じ上げず、彼自身がいわばリアル・オズワルドと形容したくなるような俳優であることを後で知って本当に驚いた。
正直な話、物語序盤のエドワードを見ながら「この風貌で俳優として働いてる設定なんてシュールだな」などと思い、オズワルドについては、特殊メイクだろうという先入観で見ていた。あの見た目であそこまで陽キャなのも主題を語るための誇張に見え、非現実的だと感じていた。
今は、ピアソンに土下座したい気持ちだ。セバスチャン・スタンもすごかったが、振り返ればこれは神経線維腫症当事者であるアダム・ピアソンありきの映画なのだ。
不条理スリラーという惹句の本作、確かに前半はその言葉通りの印象だ。雨漏りする天井から何か(ネズミ? もっと大きなものも落ちてきたような)が落ちてくる場面や、謎の薬によってエドワードの顔がベロンと剥がれて変わってゆくところなどは本当に気味が悪い。顔を捨てるって整形手術じゃないんだ……いや手術にしてくれよ。
ところがオズワルドが登場してからは、じめじめしていた物語の湿度が彼の明るさによって下がり、同時にエドワードの苦悩の描写がどこか皮肉めいたものに見えてきた。オズワルドのトークや行動は小気味よく魅力があり、そのかたわらであれこれ足掻いて包帯グルグル巻きになったりするエドワードを滑稽にさえ感じた。
容貌が変わる前のエドワードは、俳優という人前で表現する仕事に就いてはいたものの、与えられていたのは企業向けの人権教育動画における障害者のステレオタイプのような役だ。彼の仕事への向き合い方もどこか受け身に見える。治験(だったか?)で顔の腫瘍を改善する治療を受ける決断でさえも、エドワード自身が熱望して、という様子ではなく話の流れで、という印象だった。
治療で顔が変わった彼は、エドワードは死んだと偽ってガイと名乗り、一転して不動産営業で成功した。だが、隣人の劇作家イングリッドが彼との交流を題材にして書いた劇を介してオズワルドに出会ってから、彼のアイデンティティは揺らぎ始める。
イングリッドとのごく私的なエピソードを劇作品に仕立てられ、その上後から来たオズワルドの提案でその結末を変えられるなど、エドワードにも同情したくなる点はある。
ただ、彼がオズワルドとの出会いにより不安定になっていった本質的な理由は、過去の自分を彼と比較してしまったからではないだろうか。
序盤、レディー・ガガの「現実を受け入れない限り幸せにはなれない」といった言葉が紹介される。これはポジティブな受容を指すように思われる。
元のエドワードは端役で細々と暮らし、天井から雨漏りがしネズミが落ちてきて、それが不快でもなかなか修理を頼まない。死にたくなるほど現実を拒絶するわけではないが、我慢することで現実に自分を馴染ませようとする、それが治療前の彼の生き方だったように見える。
ただ、治療でイケメンになり営業で成功した以上は、オズワルドに出会おうが今の自分を肯定しておけばよかったのだが……。
「配られたカードで勝負するしかないのさ……それがどういう意味であれ」というスヌーピーの名言がある。手持ちのカードの強みを理解し、ポジティブに向き合い積極的に活用して人生を謳歌しているオズワルド。一方、既に手放したカードに後から執着を見せるエドワード。どちらが賢明な生き方かは言うまでもない。
一見ルッキズム批判の話のようでありながら、実は外見の問題のみにとどまらず「自分が今置かれている現実をどう捉えるかで人生は変わる」というテーマが語られているようにも思えた。
SNSの普及で自分の幸福を他人との比較で測る傾向が強まっている現代だからこそ、オズワルドのような生き方を実践するピアソンの言葉が刺さる。
「みんな、小さなデバイスを持ち歩いていて、まるで低い自尊心を養う装置みたいに、Instagramをスクロールしながら、他人が輝いている姿と自分の現実を比較してしまっています。」
「壊れていてもいい。自分の不完全さを受け入れて、でもその中で美しく、素晴らしい存在でいようとすることを大切にしてほしいです。」
(The Hollywood Reporter Japan インタビュー記事より)
A24割と外れなしだけど…
セバスチャン・スタンの役の振り幅よ
君は何も変わってない
栴檀は双葉より芳し
顔を捨てた男 A Different Man
変顔から真顔の新しい顔へ脱皮したエドワードが、その後色々な事件を起こし数十年後にバッタリとオズワルドに街で出会って食事をする場面。
オズワルドは今も同じ変顔のままで、バイタリティに色々なことに挑戦しているた。
そんな彼との食事メニューを選ぶのにエドワードはなかなか決められないことに一言。
少しも変わっていないね!
エドワードは変顔から真顔になり、その時に名前も変えて新しい人生をチャレンジして来たのに、オズワルドからすれば真顔からも少しも変わっていないエドワードへの再会の感想だ。
何処を変えれば、何が変われば、君、変わったねと発見してくれるのだろうか?
(^O^)
顔を捨てた男
A Different Man
「サンダーボルツ*」「アプレンティス ドナルド・トランプの創り方」のセバスチャン・スタンが主演を務めた不条理スリラー。
顔に特異な形態的特徴を持ちながら俳優を目指すエドワードは、劇作家を目指す隣人イングリッドにひかれながらも、自分の気持ちを閉じ込めて生きていた。
ある日、彼は外見を劇的に変える過激な治療を受け、念願の新しい顔を手に入れる。
過去を捨て、別人として順風満帆な人生を歩みだすエドワードだったが、かつての自分の顔にそっくりな男オズワルドが現れたことで、運命の歯車が狂いはじめる。
容姿が変わっていく主人公エドワードの複雑な心情をセバスチャン・スタンが特殊メイクを施して熱演し、2024年・第74回ベルリン国際映画祭で最優秀主演俳優賞(銀熊賞)、2025年・第82回ゴールデングローブ賞のミュージカル・コメディ部門で最優秀主演男優賞を受賞。
「わたしは最悪。」のレナーテ・レインスベがイングリッド、
「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」のアダム・ピアソンがオズワルドを演じた。
外見やアイデンティティをテーマにした作品を手がけてきたアーロン・シンバーグが監督・脚本を手がけ、全編16ミリフィルムでの撮影による独創的な世界観を作り上げた。
顔を捨てた男
A Different Man
2023/アメリカ
不条理
実は『アニー・ホール』のようにほろ苦くも愛おしいブラックコメディ
奇しくも全米公開時期が重なった『サブスタンス』とは、ともにルッキズムをモチーフとしている点からも比較されやすい。その際、本作は「話のひねりやエンタメ性に欠け、地味に説教臭い」と言われることがどうも多いようだ。が、果たしてそうだろうか。
コラリー・ファルジャ監督の『サブスタンス』は、絶えず女性に若さと美を求めてくるようなクソ男性中心社会をぶった切って、ある意味とても教訓的な作品だった。対する本作は、「容姿の美醜」という厄介なモチーフを扱いながら、一種のブラックコメディという体裁をとって、ルッキズムの内面化がもたらすアイデンティティ・クライシスをカリカチュアしてみせる。
ここで注目すべきは、おそらく神経線維腫症と思われる病に罹った容貌を全面的に見せながら、それをことさら「特別扱い」しない点だ。ココは大いに共感を覚えたところでもある。
たとえば、主人公エドワード(セバスチャン・スタン)の周囲はごく普通に彼と接する様子が描かれる。同じ病気を患うオズワルド(アダム・ピアソン好演!)が登場してもそれは変わらない。各人の心の中はともかく、少なくとも彼らのことを当たり前に受け入れている。その顔に過剰反応して心無い言葉を浴びせたり、あるいは腫れ物に触るように気遣ったりしない。唯一そんな「特別扱い」が窺えるのは、主人公が自ら出演する企業内研修ビデオを見るシーンだろう(ビデオに描かれた内容は、まるでロベール・ブレッソン監督作『白夜』における劇中映画シーンのような空々しさだ笑)。
さて、そんな本作を観て真っ先に思い浮かべたのは、先に挙げた『サブスタンス』ではなく、1970年代のウディ・アレン監督作品、なかでも『アニー・ホール』『マンハッタン』の二作だった。やや唐突かもしれないが。
たしかに、主人公の男が極度に神経質だったり、天井の“穴”から何か落っこちてくるあたりは『ボーはおそれている』の不穏さを思わせるし、陰口叩いた理学療法士をいきなり包丁で刺すくだりはヨルゴス・ランティモス作品のような冷めた視線を感じさせる。
一方、本作とウディ・アレン作品の作風は一見似ても似つかない。では、どのあたりがそう感じさせるのか(※映画冒頭、アパートの住人が彼のことを「ウディ・アレンに似ている」と不意に言うセリフが出てくるので、これがヒントになったとはいえるかもしれない)。
まず最初に、他人から見れば自分の存在など大した問題ではないのに周囲の目を気にしすぎる主人公の性格は、ウディ・アレンが先の二作で演じた「神経症気味でプライドが高すぎる、冴えない風貌の主人公」とどこか一脈通じる。セバスチャン・スタンはイケメンだけど。
また映画前半の主人公の身なりは、前二作におけるウディ・アレンのファッションを想起させる。とくに終盤、プリーツ入りチノパンにタックインしたチェックシャツ、あのハットとメガネのセバスタはウディそっくり。そんな彼が複雑な笑みを浮かべるラストショットには、『マンハッタン』の最後に映し出されるウディの切ない笑顔のアップが重なってくる。
共演者たちについても同様のことがいえる。ヒロイン(レナーテ・レインスヴェ)のやや風変りだけどやっぱり俗人的というキャラは「アップデートされたダイアン・キートン」といった趣だし、“人たらし”でどこでも人気者のオズワルドは、『アニー・ホール』で常に高身長の女性をはべらせているポール・サイモンみたいだ。となれば本人役で登場するマイケル・シャノンは、さしずめ『アニー・ホール』に出演していた批評家マクルーハン本人といったところか。
さらに言うと、全編16mmフィルムで撮られたマンハッタンの街の風景はどこか懐かしさが滲む。またアパートの部屋、小劇場の舞台装置、バーの店内など一連のプロダクションデザインにも、70年代ウディ・アレン作品のもつ空気感、インディーズ映画的な匂いが感じられる。
これらから推察されるのは、本作が、「容姿は変わっても周囲の目を気にかける内向的な性格は変えられなかった者の悲劇」とか「自己肯定感の低いひとに対して外見より中身だよと諭す教訓譚」といったひとことで括れるような単純な構成をとっていないということだ。
現代的な「ルッキズム」をモチーフとした不条理系ブラックコメディの体裁をとりながら、その実、ウディ・アレン初期作品のようなほろ苦くも愛おしい小市民的ドラマを、ごく「普通」「当たり前」に描いてみせる——そんな離れ業のようなことを本作はやってのけてるのではないか。その点にもっとも心揺さぶられた。
エレファントマン・トワイライトストーリー編
作品の宣伝方法を失敗してしまった作品だと思います。
残念ですが、最近の鑑賞作品で5本の指に入る「眠くなる時間が多い」作品でした。
以下、作品の個人的評価を記したいと思います。
①邦題が誤解や先入観を与えた。
素直に、「ディファレントマン」で良かったと思う。
「捨てた」ことよりも、「違う(ディファレント)」ことがテーマの作風に見えた。
②セバスチャン・スタン製作総指揮の気持ちが注がれ過ぎた作品かも。
映像や物語構成が独特過ぎた。
個人的に、80年代頃のヨーロッパ作品のイメージが全体的に有ったので、この意図的な映像の見せ方はセバスチャン・スタンさんが個人的にやりたかったのではと思ったりした。
お若い俳優さんだが、そのご両親様か祖父母様もしくは恩師からか、影響を受けていたのかなと。
全体的に「エレファントマン」を最大にイメージさせた。
※エレファントマンはもっと古い時代の作品だが、映像具合は70年代~80年代頃のクラシックなイメージでした。
③導入や進行があまりにも滅裂。
不可解過ぎる行動、流れ、感情表現、急展開、登場人物の性格や対応、さらに鑑賞側が絶対求めていない意味のないヌード。
物語の構成も映像の引継ぎも滅裂が目立った。
※逆を言えば、クラシックな作品にはこのような滅裂と思える「画風」は多くあると思う。それがその時代の特徴だったとも思えます。
……つまり、最初の番宣映像や邦題において、その作品の「イメージ」を、もう少し違って(正確に)発信していれば、鑑賞に臨む時の気持ちも違ったと思えるので、最初に感じたのは「日本の配給会社のミス」でした。
テレビドラマですね。まさにトワイライトストーリーや世にも奇妙な物語のような、救えなく意味が分からない、怖い感じのドラマ。
良い点が無いわけではありません。
ダブル主演のアダム・ピアソンさんの好演技と映像の見せ方。
誤解してほしくないんですが、偏見から忖度しているわけではありません。
鑑賞中は、本当の神経線維腫症の方とは知りませんでしたので、鑑賞後に思ったのは演技が普通の健常者と全く同じプロの演技力があったことに称賛を送りたくなりました。
また、見た目の特殊な人物に対する周りの対応の観せ方も、ちょっとだけ驚く程度で普通の健常者同士レベルの感覚で描いておられたので、その自然な映像の見せ方は素敵だなと思いました。
※冒頭の地下鉄でジロジロ見たり嘲笑するような人物は、相手が超絶美形だろうが何だろうが変わらずいやな態度をする人々レベルなので。
時代的なコンプラ問題もあるかもしれませんが、虐待やいじめが表現されていない点も良かったです。
ですが申し訳ないのですが、今の時代に映画館で鑑賞するにはあまりにも全体構成が不可解なので低評価となりました。
彼が捨ててしまったのは、顔だけではなかったはずだ
2025.7.17 字幕 アップリンク京都
2023年のアメリカ映画(112分、PG12)
顔面の神経繊維腫症を患う男性の天国と地獄を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本はアーロン・シンバーグ
原題の『A Different Man』は直訳すると「別の男」という意味
物語の舞台は、アメリカのニューヨーク
社員教育用ビデオに出演しているエドワード(セバスチャン・スタン)は、ある時から顔面神経繊維腫症を患い、顔面のほとんどが奇形となっていた
そう言った人が職場にいた時の接し方のビデオに出演することになったが、大した実入にはなっていなかった
ある日のこと、彼のアパートの隣の部屋にイングリッド(レナーテ・レインスヴェ)という劇作家志望の女性が引っ越してきた
彼女の訪問に驚いて怪我をしたエドワードは、それを機に彼女との距離を縮めていく
だが、エドワードは自分の容姿にコンプレックスを持っていて、このままではうまくいくわけがないと思っていた
そんな折、主治医のヴァーノ医師(ジョン・キーティング)から、この病気の専門医フレックスナー(マラカイ・ウィアー)が治験を行なっていると知らされる
エドワードはすがる思いでそれに参加し、その効果があったのか、顔の腫瘍が取れて、元の顔に戻ることができた
その後、フレックスナーがエドワードの自宅を訪れるのだが、彼はエドワードが自殺をしたと嘘をついてしまう
イングリッドはそれを聞いてショックを受けるのだが、エドワードは自身を「ガイ・モラッツ」と改名(以下エドワードのまま表記)して、別の場所で生きていくことを決めた
そして、それから数年後、エドワードは不動産のトップセールスマンとして活躍し、街角でイングリッドを見かけるのである
映画は、エドワードのことがわからないイングリッドとの再会によってうまくいく様子が描かれるのだが、そこにかつての自分と同じような容姿をした男オズワルド(アダム・ピアソン)が現れるところから動き出す
イングリッドは「エドワードと自分の馴れ初め」などを劇にしていて、エドワードを演じる俳優を探していた
そのオーディション会場に偶然足を運んだエドワードが役を勝ち取るものの、そんな彼女の前に理想の俳優が現れてしまう
オズワルドはなんでもこなせる男で、劇のセリフもあっさりと覚え、何をさせても期待値以上のことをしていく
エドワードはやがて劣等感を抱き、イングリッドはそんな彼から距離を置き始める
そして、決定機となる事件が起きてしまうのである
わかりやすい「完全上位互換」の登場によって地位を脅かされる様子が描かれるのだが、この時点でエドワードは普通の人間として暮らしている
なので、エドワードがオズワルドに嫉妬を覚える必要はないのだが、彼にかつての自分を重ねてしまっている
何もできずに逃げた過去を悔やみながら、同じ容姿をしながらも全く違う人生を歩んでいるオズワルドは、エドワードにとっては雲の上の存在にも思える
そして、エドワードは精神的におかしくなって奇行が増え自滅してしまう
テーマとしてはルッキズムのアンチテーゼを描いていて、人は見た目以上に内面を重視しているというメッセージが込められている
エドワードは常に自分と他人を比べるのだが、オズワルドはそんなことは気にしない
だが、オズワルドから差し伸べられる手はエドワードにとっては屈辱的なもので、彼がいかにして横暴で不寛容かということがわかる
顔が元に戻ったことで性格が一変しているのだが、ある意味、悪い方向に振り切れている感じがして、容姿に自信があっても性根がおかしいと人格も歪んでしまうのだな、と感じた
いずれにせよ、オズワルドが登場するまでにかなりの時間を要するので、展開がかなり遅いように感じる
彼の登場後にようやく本格的に話が始める感じなので、前半をもう少しテンポ良くしても良かっただろう
あっさりと顔が治りつつ、同じ容姿をしている人が街で嫌がらせされているのを見るというものでも描ける部分が多かったように思えた
テーマとしてはかなり尖っているのだが、ルッキズムの追求が人を幸せにはしないという一方で、やはり内面は表面に現れていることを描いていた
前半のエドワードは悲哀に満ちているが、オズワルドはそんなことがなく、むしろマーベルに出てきそうなヒーローに見えてしまう
そう言った意味において、ルッキズムを否定するだけでは世の中は良くはならないのかな、と感じた
人間の本質を問う
捨てる顔あれば拾う顔あり
言いたいことは分かるのだけど、引っ掛かりが多過ぎて刺さらなかった。
序盤はイングリッドとの出会い以外は語ることもなく、非常に退屈。
顔が治るまでに苦しむ描写は要らないし、それこそモロに特殊メイクを剥がしてる感じで興醒め。
だったらエドワードの生きづらさやイングリッドに惹かれる様子をもっと描いてほしい。
せっかく顔が治ったのに、イングリッドにアプローチせず別人として生きるのも理解できん。
下地もなく数年で不動産営業として成功するのも舐めすぎだし、そもそもどうやって身分偽ってるの?
オズワルドが出てきて少し面白くなるし、同じ“顔”への捉え方の対比というのも分かる。
でもいくらなんでも彼への偏見なさ過ぎないかな。
何でも出来る上に金まであり、エドワードに対しても一切の悪意なく気遣ってくれて…
ここまでくるとファンタジー感が強くて、寓話としてもあまりに極端。
「劣等感なんて必要ない、前向きに生きてればみんなあなたを好きになる」みたいな楽観思想に見えてしまう。
イングリッドは脚本に動かされてる印象で人間味を感じないし、主人公に共感も同情もできない。
終盤に刺すべき相手はそいつじゃないし、台詞で「変わってない」なんて皮肉オチも直接的で捻りゼロ。
天井の破損が伏線なのかメタファーなのか最初の方では分からないし、意味の判然としない描写も多数。
なんだか喩えにならない下手クソな喩え話をずっと聞かされた気分です。
救いが無さすぎる
ルッキズムなんてダメ!話し合えば人間なんだし、多様性の世の中だよ。それが、理想。わかる。
見た目が大事、人は見た目、それがストリートだ!
良いとか悪いじゃ無くてこれが、これが現実でリアルなんだ。
と、逃げる事無く、躊躇することすらない作品であったと感じた。
そして、世間にその貼られたレッテルを、なんとも思わないか、被害者となるか。
この時点で始まる事が、本質なんだと感じた。私だったら、後者だろうし、もう共感してました。いや、ムカつくよ。取られたと思うよ!老害とか言われる世の中だよ。持ってた物が大事じゃなかったのに、それを取られて良く使われたらそりゃ、悔しくてしょうがないだろう!
私は、包丁までは持ち出さないにしても。いや、どうなのだろう。
嫉妬、憎悪、妄想、これは始まった時から決まっている。
変わってないなーと言われることに絶望した。
ちゃんとオチてる?
野獣、その後
野獣は王子様になり、お姫様と結ばれてめでたしめでたし、と思いきや。。
理想の外見を手に入れさえすれば人は幸せになれるのか?というのがテーマですかね。
エドワードは野獣の顔を捨て、新たな顔を手に入れましたが元のシャイでやや卑屈な性格は変えられなかったのが敗因?
オズワルドは野獣ですが性格は自信たっぷりでおしゃべり好き、自己開示力に優れており出会う人皆がオズワルドを好きになっていく。
私、エドワードの性格は嫌いじゃないですけれどね。
むしろ容貌関係なく、オズワルドみたいに初対面からグイグイくる方が苦手かも…
アメリカではミステリアスなイケメンてだけじゃ人の心を掴めないのでしょうか。
イングリッドは移ろいやすい人心をやや誇張して書かれたキャラクターですが、コロコロ変わるあり得ない言動もなぜか説得力がありました。
男性におけるルッキズムについて新しい知見が得られるかなと思って鑑賞しましたが、もう少し掘り下げて欲しかったようにも思います。
セバスチャン・スタンの特殊メイクと、メイクの下から覗く自信なさげな演技、さらに変身後の陰のある演技が大変良かったです。
経営者として見た再起と信頼の再構築
『顔を捨てた男(The Man Without a Face)』は、過去の事故によって顔に大きな傷を負い、社会から孤立した男と、落ちこぼれの少年との交流を描いた静かなヒューマンドラマだ。監督・主演を務めたメル・ギブソンの演技と演出には、孤独や再生への強いメッセージが込められている。
経営者としてこの作品を観たときに感じたのは、「一度失った信頼をどう取り戻すか」というテーマの重さだ。主人公のマクラウドは、事故の真相や過去の噂によって偏見にさらされているが、少年との関わりを通じて“信頼”を取り戻していく。その過程は、まさに企業や個人が再起する際の「信頼の再構築」と重なる。
たとえば、私たちが展開を検討しているグローバルワークスという事業においてもそうだ。海外進出や外国人との協業では、過去のやり方が通用しない場面が多い。文化や言語の壁を越えて相手に信頼されるには、「誠実さ」「結果」「継続的な姿勢」が必要になる。マクラウドもまた、少年に対して一切媚びず、まっすぐに向き合うことで信頼を勝ち取っていく。
また、この映画は「ラベルを貼る社会」への警鐘でもある。顔に傷がある、過去に噂があるというだけで排除される理不尽さ。経営の現場でも、経歴や学歴、国籍といった表面的な要素にとらわれすぎて人材を見誤るリスクがある。グローバルワークスのように多様な価値観を持つ人々と協働する事業では、「人の本質を見る力」が問われる。
『顔を捨てた男』は、派手な展開があるわけではないが、一人の男が「過去を受け入れ、未来を築く」プロセスを丁寧に描いている。経営者として、どんな状況でも人の可能性を信じ、再起を支える姿勢を忘れてはならないと強く感じさせられた作品だ。
Contents
A24作品はここ最近不発続きで、今作への期待値もそこまで高くは無かったんですが、セバスチャン・スタンが出てるならなんとかなるかも…?というところに期待を込めて鑑賞。
そんな事はなかったです。いつもの苦手なA24でした。
顔に変形を持つエドワードが治験を受けて全く違う顔を手に入れて人生をやり直していく…といった感じの作品で、決してハッピーな方に行く事は無いだろうなと思いましたが、それでもそういう方向に向かってしまうのか…という期待外れな感じが個人的にはありました。
性格が大人しいからこそ普段の生活で自分をあまり出せないエドワードが隣人に優しくされたりしながら些細な変化があるのかなと思ったら本当にジャブ程度なのでもっと深掘りしてほしかったなーとは思いました。
エドワードもといガイをそこまで辱める必要性はあったのか?ってくらいオズワルドが登場してからの展開は苦しいものがありました。
エドワードと同じように顔に変形を抱えているオズワルドは出会いの時から自身満々で陽気に振る舞っており、事あるごとにエドワードに近づいてきたりと相反する性格のキャラクターを描きたかったのは分かるんですが、シンプルに絡みすぎてウザいというのが強かったです。
顔を変えたはずなのに元の顔に執着してしまったがために、変形した顔の男の舞台にそのまま出てしまったり、かと思いきや変形した顔のまま過ごしているオズワルドに全てを奪われていき、脚本家のイングリッドもオズワルドの中身と見た目にどんどん惹かれていくという中々にNTRな展開に転がっていってしまいます。
ここではイングリッドの中身の薄さ、都合が良すぎる考えがかなり嫌いで、そのせいもあって絶対にガイの方が良いだろうとガイ応援隊になっていったのでその後の展開には目も当てられず。
全体的に演劇に繋がる描写がご都合すぎるのも個人的には引っかかりまくりでした。
ガイとしての個人の戸籍をどこで手に入れたのか、まずエドワードの顔面手術の内容がどこから漏れたのか、なぜオーディション会場に吸い込まれるように入っていったのか、オズワルドはなんで勝手に入ってきて受け入れられているのか、偶然とはいえそんなにオズワルドと会えるか?とか作品内のコミュニティが狭すぎるのが違和感につながりっぱなしで仕方なかったです。
まぁガイ自身も立ち振る舞いにそこそこ問題があり、自暴自棄になって自分の元の顔の仮面を被って仕事をしたり、職場で大暴れしたり、演劇に突撃してセットに叩き潰されたりと惨めな目に見事に遭っていてうわぁ…ってなりました。
ルッキズムをメインテーマに据えた作品では直近に「サブスタンス」があり、あちらはエンタメ極振りかつ、整形をする、もとい自分の体を必要以上に弄る事に対しての極端なまでのアンサーを叩きつけてくれていたのに対して、今作は顔を変えたとしても元の顔に縋りたくなるという逆転現象を描いてはいるのですが、どうにも要所要所が淡々としつつ、それでいて内容が回りくどいというWパンチが個人的には相性が悪かったです。
終盤の展開もまぁ蛇足かなといった感じで、介護士をブッ刺して刑務所にぶちこまれたり、出所したかと思ったら偏屈な爺さんに絡まれたり、また偶然オズワルドと会って飯に誘われて引っ越すことを伝えられて、オズワルドの何気ない一言が悪意全開に聞こえて笑って終わるという、この一連の流れでエドワードが何も報われてないのが本当に心苦しかったです。
整形しても良いことは無いという痛烈なメッセージとしても受け止められますが、全体通しても辛気臭い作品だったというのが最終的な印象です。
役者陣の演技やメイクあたりは良かっただけに残念。
鑑賞日 7/14
鑑賞時間 13:10〜15:05
放題はどうなの?
全58件中、1~20件目を表示
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