箱男のレビュー・感想・評価
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《わたし》について
覗いたね?
《17歳のわたし》
安部公房の『砂の女』を読んでから、世界の何もかもが変わってしまった。
というのは大げさではあるが、少なくとも人間はふっと行方不明になれることを知った。社会の中で生きることは当たり前のようで当たり前ではない。ふとあるべき人生のレールから降りようと思ったら、いやそんなたいそれたことを考えずとも、今日は学校や仕事に行くのを辞めようと思ったら、または段ボール箱を被ってみようとか、さらには自分の意志とは関係なく昆虫採集で砂丘にいってみたら、いつでも社会から行方不明になれる。病まずとも疎外されずとも、いなくなれる。その気軽さを幸とするか不幸とするかは任せるが、私には安心に思えた。だから本作についても原作は読んでいたし、劇場公開もとても楽しみにしていたから初日にいった。
《TOHOシネマズ日比谷シャンテ》
はじめてシャンテに行った。それは仕事終わりにいける距離の問題でなのだが、本作をみるには最も適した劇場のように思えた。
日比谷は綺麗な街だ。ビル群には高級店がいっぱいある。歩いている人もおしゃれだ。けれどあまりにも綺麗すぎる。全てが整地されて、ジェントリフィケーションが進んだ空間。なんか素晴らしいディストピアのように思えた。何もかもあって何もない空疎さが漂っている。
しかしそれは私がはじめて日比谷をちゃんと歩いたから受けた印象であって、高架下には居酒屋があって、昔ながらの店があることも知った。そしてシャンテも。
私は当然のようにシャンテとTOHOシネマズ日比谷の違いが分からず、TOHOシネマズ日比谷へ行ってしまった。そして4階から高級店が立ち並ぶフロアを下って、別館のシャンテに移動した。シャンテの入っているビルは古いし、小さい。でも箱男が日比谷に住み着くならここだと思ったし、1階にチケット売り場があるのは驚いた。そして落ち着ける。スクリーン1に入るための後方の扉は螺旋状の階段を昇って入ることにもテンションが上がった。
シャンテはその古さと小ささから日比谷という街にある巨大な段ボール箱のように思えた。空疎さからエスケープする場所。だから落ち着けるのだと思う。そして場内もまたひとつの段ボールの中であって、私たちは本作を覗くことになる。
《ようやく中身について》
序盤から圧倒されたし、何か骨太なイメージをみせられた。最近の邦画は陽だまりにいるような優しいイメージが多いように思うけれどーそれは現代性で、いいのだがー、硬派なものもとてもいい。好き。美術が最高。音楽のガシャガシャ感と思いっきりぶつ切る感じもとてもテンションがあがった。そして本作の翻案を映画ならではの表現で巧みに行ったと思う点は画郭と音響である。
《シネスコは風景のためにあるわけではない》
本作の画郭はシネマスコープである。横幅がよりワイドな画郭。私は邦画でシネマスコープだからよかったと思える作品をあまり知らない。それもシネスコは、代表作としてあげられる『アラビアのロレンス』のように、平坦だけど見たこともない素晴らしい風景を映すのに適していると考えるからだ。だから山々に囲まれ平地が狭く乱雑な日本ーその限定もまた粗雑ーの空間に適さないと思っている。
しかしシネスコの本領は段ボール箱の覗き窓と同化することで発揮されることに驚嘆した。広大な風景は必要ない。道ばたに転がっている段ボールで十分なのだ。そしてこの表現が、劇場で本作をみることと箱男が世界を覗くことを同化させ、私たちを箱男たらしめるのだ。
《くぐもった声はどこから発せられている?》
もうひとつ印象的なのは音響だ。本作の画は全体的に暗いし、登場人物の発する声はくぐもっている。だからよくみえないし、ちゃんと聞こえない。下手くそな自主映画か?と思ってしまう。しかしそのみせ方が、現前するイメージの現実レベルを下げる。そして語られる全てのことが、箱の中の語りであり、箱男が日記に書くフィションであることを明らかにさせる。
ワッペン乞食が登場するのも、狙撃されるのもフィクションだからだ。しかし事実としてあるのは箱男が日記にそのフィクションを書いたことだけである。
フィクションはフィクションである。しかし映画でフィクションが現れるためには、事実として存在するものをカメラで記録しなければならない。それなら私たち観賞者がみるイメージは事実である。しかしその事実はフィクションなのだ。錯綜してきた。それなら今みているイメージは事実なの?フィクションなの?そして語り手は一体誰なの?そのフィクションと事実の峻別つかない様を見事に描いたのが原作であり、本作もまたそうである。
《しかし翻案は不十分なのでは?という疑念》
私は原作を読んでから本作をみたので、物語の筋を理解したし表現も面白いと思ったのだが、未読の人は「クレイジー」としか思えないのではとも感じた。それは読解能力の有無ではなく、本作の翻案が不十分な気がするからだ。
その一番の原因は「覗くこと」と「記録」の分離である。
本作は原作と比較して誰が本当の箱男かのバトルがより繰り広げられる。そのために箱男の日記を誰が所持し、記述しているかが問題となっていく。このとき「箱男が覗いたことを日記に記録する」という一連の運動が分離して、記録に物語が主眼を置くことになる。
するとショットが本来もつ「覗くこと」の意味が無視される。ショットこそ「覗くこと」と「記録」が峻別つかずに構成されたものだろう。私たちはショットをみることで2つの側面を一挙に受け取る。しかし物語は記録に焦点を当てるから、覗くことをナレーションで代用させる。だから「覗くこと」の意味が映像イメージと音声イメージで二重化されるから過剰のように思えるし、齟齬が生じると違和感でしかない。だからバトルを繰り広げた後、誰が箱男で、誰が書いているんだと語るそれを「エンターテイメント」として受け取ることは難しいような気がする。白けてしまった人もいると思う。
他にも翻案の不十分さと言えるのは、医者とニセ医者の出来事の中途半端さや最後の箱男と葉子の二人きりの時間にも感じる。中途半端に捜査させるなら省略したほうがいいと思ったーただそれだとニセ医者が箱男になる動機が稀薄になったりと難しいがーし、箱男と葉子が二人きりでやるのは、扉や窓を段ボールで覆うことではない。葉子が着衣のままなのも、閉ざされた世界での〈私〉の解放として脱ぐことが必然だしー現実的な演出の問題は分かるがー、二人の世界の描き方も何か違うような気がした。二人きりの世界はユートピアである。しかし社会と隔絶されているからすでに破綻している。そのことを有機的に描いてほしかったし、それは原作にはあった。私はベルナルド・ベルトリッチの『ドリーマーズ』みたいなものを想像していたから違和感しかなかった。
そして私が一番何か違うと思ったのは、誰が本物の箱男かバトルする展開である。
《箱男は全てがニセであり、本物である》
私の結論は端的にこれである。箱男が匿名的な人物の表象であるなら、誰が本物でニセなのか探し当てるのは不毛である。私もまたある匿名的な人物として本物である。しかし誰かが指し示したその匿名的な人物ではないから、ニセである。それが無限にこの世界で生きている〈私〉には起こりえている。だから箱男はニセであり、本物であり、この世界に独りしかいない〈私〉が、複数いる。そのように思えるから、なぜ彼らがバトルしているのかよく分からないし、箱男の本質を見誤っているような気がしてならない。
さらにこのことは書くことやショットにも同様に言える。書いたことやショットのその行為自体は事実≒本物かもしれないが、書かれたことや映されたことは、フィクション≒ニセになってしまうし、フィクション性を帯びてしまう。しかし私たちはフィクションを事実として受け入れられるし、またはその攪乱ぐらいに戸惑い、書くことやショットの根源的な奥深さを思い至ることもできる。それが本作にないとはいわないし、むしろ意識されているとも思うが、十全に描かれたとは思えない。
《おわりに》
石井岳龍監督が27年越しに永瀬正敏さんを再びキャスティングし完成させた執念は、その事実として賞賛されるべきであることだ。私は原作に軍配を上げてしまったので、文句なしの大絶賛ではないのだが、驚きと混沌ぐあいは凄まじく、劇場でみてよかった作品だとは思っている。私はナレーションが過剰に思えてしまったが、ラストの街の描写はナレーションを排し、ショットで十全に虚実の攪乱を行っていたから後味も悪くない。しかし原作のラストの方が好きかな…。そしてここまで長ったらしく書いている私は誰だ?
17歳の私が『砂の女』を読んだことも昨日、シャンテでみたこともフィクションかもしれない。そしてここまでの文章は書き手が複数いて、独りの私が考えたことではないかもしれない。匿名な私には証拠立てるものが何もない。そしてここまで読んでいる人が何人いるかも分からないから言明する必要性も分からない。でも読んでいただいた人や証拠のためにも本名を明かそう。私の名前は、________。
時を超えて人間を映し続ける前衛的な物語
安部公房の原作は1973年に出版されている。一方本作は時代設定を現代に置き換えているが、原作にあった雰囲気は全く揺らいでいない。
小説「箱男」はとにかくアヴァンギャルドで実験的だ。映画の中で永瀬正敏の演じる男が書き綴っていたノートや新聞記事、誰かの手紙、供述書などが筆跡についても言及されつつランダムにつなぎ合わされた構成(手書きのタイトルや字幕、さまざまな筆跡のエンドロールはこういった描写へのオマージュだろう)。ところどころに、安部公房自身が撮影した写真のページが挟まれる(映画冒頭のモノクロ画像はこの写真の一部)。
この独特のストーリーテリングは、たかだか50年経ったくらいでは古さを感じさせない。
個人的な感想としては、正直飲み下しづらい。普通の小説と同じように物語の流れや主題を追おうとすると、全くつかみどころがない気がしてくる。
ただ、箱男という存在と彼が晒される運命は、その時々の時代を生きる人間を映す鏡なのかもしれないとは思う。それもとびきり上等で、曇ることのない鏡。
映画.comの本作特集記事と同様、私も箱男のあり方を見て「スマホやパソコンを通して社会を見る匿名の自分」を連想した。
一方、文芸評論家の平岡篤頼氏による新潮文庫版の解説には、次のような解釈が書かれている(カギ括弧内のみ引用、それ以外は要約。詳細は文庫巻末をご覧ください)。
現代人は流行やしがらみに支配され、そのうえ「ひどいニュース中毒に罹って」おり、「テレビやラジオから離れられない」。箱男になる前の主人公はそのような状態だった。それら情報の供給源を捨て去ることにより、彼の見る「風景が均質になり」、大切だったものと無価値に思っていたものとが同等に見えるようになる。彼は覗き屋から「認識者」へと変わる。(要約終わり)
つまり、箱男は情報過多な世界と自分の間に遮蔽壁を設けた人間の姿であると、平岡氏は解釈しているのだと思う。これは、先述した私の解釈とはある意味逆だとも言える。
また、平岡氏は箱男のこの状態について幸不幸の判別をしようとすること自体「市民の感覚」だとも述べている。
この解説文は約40年前(1982年)のもので、現代人とは当然当時の人々を指しており、テレビやラジオ云々という部分には古さがあるが、人間が情報依存の状態にあると見做し、その状態を脱すると世界の見え方が変わり価値観の転換が起こる、という視点自体は現代にも通用する。
現代の感覚で箱男から想起するネット依存やネット上の匿名性の象徴といった解釈と、40年前の平岡氏の解釈。他にもさまざまな読み解きができるだろう。こういった幅のある考察を喚起するところに「箱男」という物語の凄み、度量の大きさを感じる。
ところが、本作はラストで「箱男はあなたです」というメタ表現をやった。確かに原作にも別の方法でのメタ要素はあるにはあるが、こういった説明じみたものではない。
それは本作を観ている最中に観客が自分でじわじわと感じればよいことで、そこでとどめるからスマートなのであって、わざわざダメ押しで明言して解釈を固定しなくてもいいのではと思った。そこだけ残念(あくまで私の好みの話です)。
俳優陣は、浅野忠信がいい味を出していた。単純に、あの世界観の中で人間臭さが際立っていたから目が行ったというのもあるかもしれないが。腹に一物ありそうなのに憎めないおじさん感を出すのが上手い。少し前に見た配信ドラマ「SHOGUN」でもいい演技をしていた。
小説の箱男の目の部分の穴はもっと大きくて、艶消しビニール幕がカーテンのように取り付けてあるのだが、俳優の目が映らないからビニールはなしにして、ラストシーンのためにスクリーンのアスペクト比に合わせたサイズの穴にしたのかな。
箱男が意外と俊敏に走ったり派手なバトルをこなすところ、贋箱男が葉子に浣腸をされるシーンなんかは笑ってしまった。基本的に難解で好みの分かれる作品だが、そういった動きのあるシーンはコントのように単純に楽しんでもいいと思う。生前の安部公房も、石井監督に「娯楽映画にしてほしい」と言っていたらしいし(大衆的ではないけど……)。
不思議な作品
なんかよく分からなかったというのが率直な感想。
箱男は女性のふくらはぎフェチと思われる。
あと、広い世界にいて、箱男が閉じられた世界にいると思っている人々が、箱男から見たら逆に閉じられた側の人々だという場面が面白かった
だから、箱男の外側を基準とするか、箱男のいる側を基準とするかで、覗く覗かれるの立場が逆転する。
箱男の外側から見ると、箱男の側は箱によって閉じられた閉鎖空間であり、箱男は閉じられた世界から外を覗く、逆に箱男の側から見ると、箱男の外側が段ボールによって閉じられた世界で、広い世界にいると思っている人々は、実は段ボールによって閉じられた空間にいることになる。そして、人々はそこに開いた小窓から箱男の世界を覗くということになる。
2024/9/5(木)鑑賞
。
全く意味がわからない、けどなぜか引き込まれるような作品
事前の情報は全く知らず、永瀬正敏さんと浅野忠信さんが主演なので面白そうだと思い見てみました。何か原作があるそうですが、この映画に関してはストーリーとかどうでもいいというか全くわけがわからない感じですがなんか引き込まれて見ちゃいました。やはり出演者の方々の演技が皆さん安定安心の演技力なのでそのあたりが魅力の作品かと思います。
特に浅野忠信さんのふざけているような感じがだいぶ作品を引っ張ってくれていたように思います。佐藤浩一さんもすごかったですがあまり登場しなくてもうちょい出てきてほしかった、それくらいもっと見ていたいイカれたキャラクターでした(笑)
永瀬さんはずっとかっこよかったですし、白本さんは初めて見る女優さんでしたが綺麗な謎の美女感がとても良かった、体がめちゃくちゃ綺麗だなーと見とれちゃいました!
あと渋川さんもなんだか楽しそうでした笑
ちょっと自分としては90分くらいで終わった方がよかったかなと。
序盤はサクサク進み何がなんだかわからないのだがすごく気になって引き込まれてましたが
後半になり浅野さんも出てこなくなるあたりから永瀬さんと白本さんで話が進むあたりが長ったらしくなかなか見ていてしんどかったです。
自分はSABU監督の作品とか好きなので
こういう意味のわからない、なんだったんだ?的な作品はわりと好きなため最後まで見れましたが人によっては好き嫌いがだいぶ別れると思います。
後ろの席の人が途中で帰っていったので人によっては見るのがだいぶ退屈な作品かなと。
ちなみに自分の地域は昼間しかやってなくて平日に休みとって見に行ったら誰もいないと思いきややけに高齢者のおじいさんやおばあさんが多くてびっくり。原作のファンなのかわかりませんが。
あの高齢の方々がこのぶっとんだ意味不明な作品をどう感じたのか聞いてみたかった。
てか、原作もこの映画のようにぶっ飛んでいるのだろうか?
有識者の方読んでましたらぜひ教えてください。
これでいいのか箱男
文字面のままに新旧箱男が箱に入ってるけど、そんなダイレクト表現でいいのか?(原作うろ覚えではあるけれども)
ダンボールを被った2人が取っ組み合う様は小学生時代の既視感がすごい
題名は面白いのに…挫折する理由を、個人的に解明
「箱男」という題名に惹かれて原作を読んだり、または今回の映画に出かけたりする人は多いのではないか。しかし、合わなくてモヤモヤする人も、やはりとても多いと想像する。
中高生のころに原作に挫折した立場で「なぜ苦手なのか」を個人的に解明するために映画館に行き、原作も頑張って読んでみることにした。
映画を見てから原作を読むと、非常に複雑な構造の本を、かなり忠実に分かりやすく映画化してくれたんだなと思う。(なので映画を見てからの方が本が読みやすくなる)
このお話は、都市化した現代社会で他者と断絶したホームレス状態の人だとか、究極の匿名者だとかを描いているように「一見」思われる。
だが本作の本当の興味はそういう都市とか現代社会といったところではなく、要は特殊な性的欲望にあるのではないか。
箱男以外の重要な登場人物として、病院の看護師の女性、そしてなぜか箱男の立場と入れ替わりを望む病院の(偽)医者が出てくる。
(偽)医者は看護師といくらでも性的関係を結べるようなのだが、むしろ生身の人間として女性と関わるのではなく、箱に隠れて相手を一方的に鑑賞したい欲求がある(ように見える)。これは現代のデジタルポルノなどの構造を考えると理解しやすいのではないか。この(偽)医者の場合、箱に入った不自由な状態で女性に誘惑されるとか医療行為を行われるとか、何かSM的な願望も濃厚であるように描かれている。
なお原作の途中にコラムのような形で「露出狂」と「覗き魔」の対比が出てきて参考になる。安倍公房は「現代は覗き魔の時代である」というようなことを書く。露出狂は一見「見せたい人」のようでいて結局逆なのだ。自分の固有性を相手に知られず犯行を行い、被害者の反応ぶりを一方的に楽しむのだから。この「覗き」願望についての着想から箱男全体を鑑賞すれば相当わかりやすいと思う(ほかの部分が筆者には難解ということもあるが)。
こうした性的な執着の話に比べ、映画の中で延々繰り広げられる「本当の箱男」をめぐる争いには必然性を感じず、興味が持てなかった。
これは原作が苦手な理由にも関係する。「箱男」というコンセプトが魅力的なのに対し、お話が「どうやって本物の箱男になるか」「私は今日から箱男としてこのノートを書く」など、入り口部分をこねくり回して一向に中身に入らないように思えるのだ。
むしろ「箱男」という題名を思いついた小説家が、どうやって野宿者などと区別してキャラクターを作るか、心理や行動原理を本人にどう説明させるか、その思考過程(または企画案)を未消化なまま書いた本、といったほうがわかりやすい。前述のようにストレートな欲望の話などを前面に出してくれた方がよかった。
いや、小説家の創作過程を実況中継し破綻ぶりをそのまま見せるなど、自意識にこだわった作品であればそれはそれで面白い(初期の太宰治などが例になるだろうか)。ところが「箱男」の場合は現代社会を風刺したかのような体裁なのに、未完成な自己語りにつきあわされるみたいでイライラするのだ。
(原作、映画の解釈として合っているか自信がない、とりあえず個人的な解明の結果として)
見られるものにより見るものが成り立つ
勅使河原+武満の白黒映画の同時代性を求めるのは無理だ。社会からの疎外もありきたりだ。やっぱり「見る(覘く)と見られる」だな。世界とは見られる側の支配の様だ。この映画はすべて「葉子」を見ることを求めることで成り立っている。それも剥き出しにだ。葉子役に白本彩奈さんを得たのだから、27年待った甲斐があったんじゃないかな。
人間という箱の、ミクロコスモス
どこから書けばいいだろう。
とりあえず、意外にも全体を通して概ね原作に忠実だったことに驚いた。
原作を大きく改変せずに、まとめあげたのは凄いと思う(後述するがラストだけ違う)。
箱=匿名の存在になることは、社会的には一種の逃げで、社会からの防衛的手段。
自然界では、生態系のトップに立つ存在以外は、基本的にどんな動物も「隠れている」。身を晒すことは、生命の危険および狩られる危険性があるからだ。
箱男は、箱という安全領域から覗き見ることで社会を「狩って」いるのだろう。
(箱男を襲うホームレスは、箱男を好んでおらず排除したがっている。なぜなら彼らは世間の好奇に晒されているし、仕方なくその立場に甘んじているから、積極的に隠遁している箱男が邪魔なのだ)
原作でも映画でも、箱からの視点と立場はめまぐるしく入れ替わる。偽箱男は、箱男が自分の行動を客観的に描いた存在かもしれないし、ストーリー上には存在する、箱を奪い取ろうとする「本物の偽者」なのかもしれない。はたまた先代の「箱男」のノートを受け継いだ物語を完成させるための、思考実験の賜物なのかもしれない。それとも、もしかしたら軍医は箱男の成れの果てなのかもしれない。
たった紙一つで絶対領域を作り出せてしまうことの面白さと怖さと滑稽さ。
箱という安全地帯から抜け出せない男を優しく誘導する女性は、やはり徹底的なリアリストなんだな。
でも、安倍公房はそんな些末な人間社会を描きたかったわけじゃない気がする。
人間という箱の、ミクロコスモス。思考という深淵な渦に自分自身が飲み込まれたら、現実との境がなくなるのでは、と。そもそも「認識」とは何なのかと。もっと壮大なテーマを抉っているのかもしれない。
安部公房は、監督に「映画化するなら娯楽に」と語ったそうである。
その公約通り?なのかはわからないが、結末だけは原作にはない「映画的」なアレンジがされていた。
いわゆる映画のスクリーンを箱男の窓になぞらえて「あなたも潜在的な箱男だ」と示唆したのだが、形だけでも結末らしさを迎えねばならないという意識が働いてしまったのだろうか。一種取ってつけたような安易さも感じたが、SNS時代の今に通じるメッセージとも受け取れる。
しかしそのせいで、テーマが少しぶれたようにも感じる。
申し訳ないですが1点で精一杯です。
原作も、原作者の世界観も全く知らず、石井岳龍監督の作品も観たことが無く、ただただ予告を観ただけで興味をそそられ、鑑賞した結果です。
箱男、箱に開けた小さな穴から世界を覗き見る男。
その世界観を広げて広げてどうなるのか、という期待と佐藤浩市さん観たさで、皆さんのレビューを気にせず鑑賞した結果、この展開は正直全く予想してなかった、という結果に。
箱を被ったまま走る、なんなら戦うくらいは理解できるんですが、途中の葉子とのからみや、手帳がどうこう...のストーリーは(超前衛的と書けば片付くのかもしれませんが)どっぷり世界観に浸ったつもりでしたが、残念ながら私には理解できず。
お金を払った以上、理解できなくても、気持ち悪くても最後までは観る!ということで最後まで観たんですが、途中で退出していったまだまだ若いカップルの英断を称賛したいです。
佐藤浩市さん、浅野忠信さん、永瀬正敏さんという素晴らしい俳優さん達の出演されている映画にこんな点数をつけてしまうのもどうかとは思ったんですが、すみません。
佐藤浩市さんを見れたのと、エンドロールの手書き文字(ご本人が書かれてるのかな?)が新鮮で良かったので、0.5点ずつ加算で1.0点というところ。
冒頭が面白いが色々展開していくと…。スクリーンの長方形が! メジャー系で公開されること自体は凄い。
冒頭から「箱男」という何ともシュールな光景が続く。
単に、段ボール箱を被って隠れている男の話。
理解できないのに、引き込まれてしまう魅力がある。
しかし、中盤から、彼を狙う男たちやら、周りの人間との関係が広がり出し、展開し始めると、徐々に普通の話に近づいていき、緊張感も無くなり、普通の不条理な話になっていくのが残念。
妄想であれば何でもありなので。
作家の妄想を映画館という箱の中で観ている。
観客の妄想でしかない。
無限の階層からなる妄想の世界。
スクリーンの長方形が、段ボール箱の覗き窓だったんだ。
観客席が映った映像は、劇場版のエヴァとそのまんま同じだった。
それにしてもこういう映画が、メジャー系で公開されるのはそれ自体が凄い。
箱が可愛い
もちろん、汚いし臭そうだ。
しかし、箱の被り物が走ったり突然手を出してきたりして演出の妙だと思うが、戦ってるところなんか萌すら感じました。
暗い独特な雰囲気の映画にあってブラックジョークでエンターテイメント性を発露させています。
三谷幸喜のように分かりやすくエンタメしてるわけではないので一見とっつきにくいけれど、こちらも爆笑必至です。
ただ映画館の中はそんな雰囲気でもないので、我慢しつつでちょっと大変でした。
さて、原作者は安部公房でwikiに載っていたけれど原稿用紙300枚の本作を書くのに3000枚の原稿用紙を書き潰したって逸話があるらしいです。
この話からも分かる通り、難解です。
段ボールは社会と自分を切り離すガジェット。切り離すであって隔離されるわけではないのがズルい所であり、箱の魅力だと思う。
被ったことないので想像だけだけれど、きっと子供の頃の秘密基地に近い。ワクワクやドキドキを感じさせる高揚感がありそうだ。
とても上手い作りになっていると感心させられたのが、メモ帳の存在により、メタ構造自体を作品内で示唆する、いや指摘している。
世界5分前仮説のように誰かメモの筆者がいて今が存在している…かもしれない。
我々は誰かに動かされているのかもしれない。
SNSは見えない段ボール。社会と相互に接続していたら言わない言葉も出る。スマホひとつ持った私はもしかしたら箱男なのかもしれない。
箱男と美女
箱を被り世界を違う形で観る箱男。
その存在を知り、興味を持ちその姿を
自分の物にしようてする別な箱男が現れてくる。
見たい自分、見られてる自分、見てる自分
見て欲しい自分の不思議な欲求。
箱に囚われた、臆病な自尊心と葛藤の揺らぎ
その中でしか感じられない広大な欲望と妄想。
自分だけの空間で楽しむ羞恥心。
現代のスマホを保持して生きてる私達の
世界にも通じる。
白本彩柰さんは特別な魅力があり綺麗。
事務所を移籍して正解だと思った。
みている・みられている・箱男はスマートフォン
独特の表現と演出で好き・嫌いがはっきりする映画でした。
長瀬さん(わたし)、浅野さん(せんせい)の共演に興味があり
原作を知らずに鑑賞!個人的には好きです。
現代スマホを持つのは常識のようですね。スマホは見ているのか?
見られているのか?一方的?双方向?箱男はスマホに似ているなぁ・・・
と思いました。
あのノートは”つぶやき”です。心の声ですと解釈。
実は自分スマホをもっていないので、スマホの世界観知らないです!
葉子が主人公たちの間で坦々と話してかけていくのが妖艶な感じです。
ものすごいつまらなさ
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永瀬は段ボールに入り、くり抜いた穴から外を観察してた。
すると謎の男から襲撃を受け、腕を銃で撃たれる。
病院に行った際、そこの医者が襲撃犯だと分かった。
箱男は一人しか存在できんので、権利を譲れと医者が言う。
拒否すると戦いになり、よく分からんが負けて権利を失う。
でラスト、「一方的に観察してる箱男はあなただ」で終了。
いや、ちゃうし。
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永瀬が何者かも分からんし、全てが観念的かつ抽象的過ぎ。
映画館で見たら大体楽しいのに、こんなにつまらんなんて。
はよ終わらんかなってずっと思ってたわ。
ラストだけは少しなるほどと思ったけどな。
スクリーンの中がいくら危険だろうが一方的にそれを眺め、
何のリスクもなく勝手に同情したり感動したりしてる観客。
登場人物から見れば、実に利己的で無責任な存在やろな。
でもそれで全て伏線回収されるなんてことも全くなく、
やっぱりただ退屈な映画やったことに変わりはないけどな。
石井 岳龍(聰亙)監督作 想像の上の上を行く 超ファンキーな映像がたまらなすぎる!
石井 岳龍(聰亙)監督作品に出会ったのは「夢の銀河」 静かな映像だったが衝撃だった。今でも夢に出てくるほど脳裏に焼きつく世界観は、今作でも良い意味で裏切られた。ギレルモ・デルトロやジャンピエール・ジュネ監督や近年で言えばエドガー・ライト監督くらいの見た事ない、目を通して脳天にぶち抜ける“画”は強烈なインパクトを放っている。
原作自体アンチ小説というくらいなので読んでも幻惑的で難解な内容は正直理解するには難しい。
なので安部公房を読んでもさっぱりわからんし、つまらん!という方にはまず勧め無い、そしてさっぱりわからなくても興味あるという方は是非観る事を勧めたい。
私も「箱男」を読んだのはもう何十年も前、父が安部公房氏と同じアパートに住んでいて奥様とも交流があった事もあり、物心ついた時には安部公房作品をはじめ家のほとんどが本で埋め尽くされていた。
正直当時読んでも全く理解出来なかったし、正直“画”なんて浮かんで来なかったけれども。
そんな作品が映画化されるという事でどんな作品に仕上がるのかと思っていたところ、まじか!こうきたか!
ど直球で目から入る映像が脳で処理する前に脳天をつけ抜けるこの感覚!一体なんなんだ!
深い意味など考えずに箱被って走り回る“画”だけでも強烈なインパクト、衝撃の一言。
二度三度観たら見え方も変わってくると思うが、初見のインパクトはさすが石井監督!
上映館少なく、万人ウケする様な作品では無いので、上映している間に是非衝撃体験をオススメ。
とりあえず、わたしの視界から見えたものは、このようなものだった
2024.8.29 MOVIX京都
2024年の日本映画(120分、PG12)
原作は安部公房の同名小説
箱男に魅了された男たちを描く社会派シュールコメディ
監督は石井岳龍
脚本はいながききよたか&石井岳龍
物語の舞台は、日本のとある町(ロケ地は群馬県高崎市)
カメラマンの「わたし(永瀬正敏)」は、ある日街角で出会った「箱男」に魅了されるようになっていた
箱男が脱ぎ捨てた箱に入ってみたわたしは、そこから見える世界に魅了され、心が躍るのを感じていた
わたしは街角に佇んで社会を覗き込み、自分の存在が消えていることに快感を覚えていく
そんな彼を付け狙うワッペン乞食(渋川清彦)などもいたが、いつしか自分の写真を撮り始める謎の存在に付け回されるようになった
男(ニセ医者、演:浅野忠信)は軍医(佐藤浩市)の望みを叶えるために箱男に近づいていたが、箱男のことを知るたびに、その魅力に取り憑かれていった
映画は、27年前に頓挫した企画が今になって再始動したと言う内容で、当初の企画通りに永瀬正敏が演じることになった
箱男とは何者かを追っていく中で、成り切ろうとしたものの、その手帳が改竄されたものと知って絶望したりもする
謎の女(白本彩奈)は軍医の女のようで、ニセ医者の女にも思え、さらにわたしを翻弄するキャラクターとなっている
彼女が全裸になるシーンでは全てが見えているようで見えていないと言う感じになっていて、その見えていない部分は脳内で補完された妄想と同じ類のようにも思えてくる
ラストでは、箱男の覗いている窓はスクリーンと同じで、「箱男は、すなわち、あなただ」という文言が引用されるが、これは蛇足以外の何者でもない
幾度となく箱男の目元がクローズアップされるたびに「ああ、そう言うことなんだろうなあ」と思っていたので、それをはっきりと言ってしまうんだ、と言う感覚になってしまった
箱男の窓がクローズアップされて、そのままスクリーンと同化すると言うだけでも意味は通じると思うのだが、わかりやすさを優先した、と言うことなのかもしれない
いずれにせよ、箱男から見えるものは光であり、それ以外は隠したい闇ということになる
見たいものを見て、見たくないものを無視し、それらを妄想して補完していくというのは、記憶改変のメカニズムに似ているように思えた
それは、箱男とは何者か?という疑問を持ったと同時に、自分の中で想像するものがあって、それが行動(真似)によって乖離を感じ、さらに妄想を膨らませていくというジレンマに陥っていく
そういった積み重ねの結果として、対象に向き合う自分は何者なのかを突きつけられているように感じてくる
箱男からしか見えないものは、その人にしか見えないもので、手帳は自分の言葉で紡ぐしかない
なので、真に価値のあるものとは、ありのままを見て、感じたありのままを自分の言葉で紡ぐことなのかな、と感じた
わたし(永瀬正敏)は「箱男」 古いダンボール箱を頭からすっぽりと被...
わたし(永瀬正敏)は「箱男」
古いダンボール箱を頭からすっぽりと被り、町の隅から世界を一方的に覗き見ている。
その匿名性、完全な孤立・孤独を得て生きている。
宿敵はワッペン乞食(渋川清彦)。
同じような存在だが、彼は完全な孤立・孤独を得ているとは言い難い。
わたしは勝った。
が、斃したのは謎の男(浅野忠信)。
男は、軍医と呼ばれる男(佐藤浩市)のもとで働き、軍医とともに「箱男」の地位を乗っ取ろうと目論んでいた。
彼らには、葉子という名の美しい女性(白本彩奈)がいた。
彼女は「箱男」の出口なのか・・・
といった物語で、冒頭、1973年からの物語として始まるが、実際は2023年の物語として描かれます。
雰囲気は、最近の映画でいえば『シン・仮面ライダー』に近いか。
あの映画も「変身」の映画で、別の存在になっていった。
いや本郷猛は仮面ライダーを自覚していて、匿名ではないのか・・・という思いが浮かび上がる。
現代社会の匿名性の不条理さを描いているようにみえるが、箱男vs.ニセ箱男の対決にスライドする後半は「虚実の境界の曖昧さ」「主体と客体」「実存」の物語へと変化する。
ここでは『ドグラマグラ』を想起する。
が、「虚実の曖昧さ」は、元の小説では「文字」によって表現されている(だろう)から問題はないのだが、映画は「映像」「音」「編集」「文字」などのさまざまな要素で構築されているので、なかなかに厄介。
小説で表現された虚実を、映像に移し替えようとしているが、結果、あまり成功しているとは言い難い、と感じました。
たぶん、虚実を結ぶマクガフィンが日記だからで、日記は文字によるもの(文字の形、配列、挿絵なども含まれるが)。
2023年のマクガフィンとしたら、「写真」「映像」「短い文章(つぶやき)」になるのだろう。
ま、SNSだ。
さらにSNSでやり取りされる「写真」「映像」「短い文章(つぶやき)」は、各個人の手元に存在しているようにみえて、その実、存在していない。
実体がわからないクラウドにアップされたものだ。
さらに、それらは時系列さえもランダムに表示され、「覗き見」たり「感じ」たりしたことを記録(したように)できる。
これならば、最後の台詞、「箱男はあなただ」がまさにその通りだと感じたかもしれない。
付け加えるなら、映画は底意地悪く、エンドクレジットでスマホの着信音などを鳴らしているのだから、日記→スマホのほうが適切だったと思う。
(箱の覗き穴はスクリーンと同じ縦横比を用いた演出で、「箱男はあなただ」の「あなた」が映画を観ている観客を指しているのはわかりやすいが、スマホにすると演出にもう一工夫がなるけれど)
ただし、そんな脚色をすると、安っぽく、別物の映画になったかもしれないが。
なお「箱」は、執着の果てとして、京極夏彦『魍魎の匣』の「匣」に通ずるや否や。
箱男を意識する者は、
箱男になる!
って、じゃあ自分も?って思いながら鑑賞。その姿勢がラストへの伏線になるとは、、、
実際少し欲しくなったよ、箱。
安部公房は昔結構読んでいたので、原作既読。その観点からすると、非常に世界観をキープして映画化していると納得。安部公房作品は演劇的なものも多いので、そういうムードを上手く取り入れてるね。
安部公房作品と言えば、60年代、勅使河原監督の「砂の女」が有名。白黒で、CGなんてない時代だけど凄い映像美だった印象。そういう部分へのオマージュもあるんだろうな。カラー作品だけど光と影の多用は白黒風だしね。
キャスティングもいいね。特に浅野忠信の偽医者が凄くいい!登場人物が少ないからこそ、演劇風の演出も上手く行ってる気がした。
60〜70年代のアングラムードが漂った感じは、昔の文芸座なんかで公開してるようでもあり、昔良き文学映画のテイストも意識してるんだろうな。
原作未読の人の感想とは結構違うかもだけど、印象深い作品でした!
今年1番、かも?
私的、ラストに感じた苦笑の理由とは
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
この映画『箱男』は、原作が安部公房 氏で原作は1973年に発表されています。
映画の冒頭で1970年代の話がされるので映画の舞台は1970年代当時なのかな?と観ていると、箱男になっている主人公・“わたし”(永瀬正敏さん)が覗いている外の世界の人々の服装や車や物からするとどうやら現在で、ニセ医者(浅野忠信さん)がノートパソコンを使っているのもあり、映画は現在の話というのが分かります。
カメラマンの主人公・“わたし”は、ある時、自宅の庭に現れた箱男に銃を撃ち箱男を仕留め、空っぽになったその箱に今度は自分が入って箱男になります。
箱男になった主人公・“わたし”は、箱の覗き穴から外を見ていると、ビルの屋上から旗を振る男(渋川清彦さん)や、ライフルを撃って来るニセ医者に追いかけられたりします。
ある時、箱男の“わたし”の前に、看護婦見習いの葉子(白本彩奈さん)が現れます。
美しい脚の葉子は、ニセ医者に撃たれた“わたし”の傷の治療のために、金を渡して病院に来るように促します。
その後、箱男の“わたし”はその病院に行き治療を受け、後に、箱に入ったニセ医者と裸になった葉子との、変わったプレイを目撃します。
観客にはニセ医者と軍医(佐藤浩市さん)との関係も次第に明らかになって行きます。
ところで、箱男の主人公・“わたし”は、思いついたようにノートに自分の思考を記録しています。
このノートは、箱男の“わたし”が殺された時の犯人の証拠になるとの証言もありますが、内容は“わたし”の妄想に近い思索の記述になっています。
するとこのノートの内容は、箱男の主人公・“わたし”が、(外の世界を観察してそれを記録したというよりも)自身の【内面】の底について書かれた精神的な内側の記述だと分かって来ます。
箱男の主人公・“わたし”は、一見、外の世界を観察しているようでそうではなく、ほぼ終始一貫、自身の【内面】に固執してノートの記述を日々行っている事が分かります。
なぜなら、現在の私達の風貌や現代的な物や車など(<他者>)について箱男の主人公・“わたし”はほぼ一切関心を示していないからです。
つまり、箱男とは、【自己】の内面に固執して【自己】の底を記述しようとしている人物だということになります。
そしてニセ医者や軍医も、【自己】の内面に固執して、その解決のために美女(葉子)との性的な関係を求めている事が分かって来ます。
映画の最終盤で、遂に箱男の主人公・“わたし”は、病院の内側を段ボールで覆い病院全体を大きな箱にすることで、その中で美女である葉子との性的な関係に成功します。
ところが性的な関係の後に葉子は、主人公・“わたし”から去って行くのです。
そして主人公・“わたし”は、葉子が最後に自分から去って行った理由を、葉子がもっと箱の奥深くに行ったのだと解釈します。
しかしながら1観客の私には、葉子が箱男の主人公・“わたし”から去って行った理由について“わたし”の映画での解釈は間違いだと一方で思われました。
葉子が箱男の主人公・“わたし”から去って行った理由は、単に【自己に固執している箱男の“わたし”が、<他者>である葉子を見ていなかった】のが理由だと私には思われました。
ところで、今作の原作者である安部公房 氏は既に亡くなっていますが、1924年(大正13年)生まれの青春時代を戦争期間に過ごした戦中派です。
召集前に終戦を迎えて戦争には行っておらず小説家でデビューしたのは戦後ですが、戦前と戦後でがらりと価値観が変わった経験を通して、自身が認識している世界を【自己の内面】の根底から解釈作り直すことに迫られた世代だったと思われます。
そして原作の「箱男」が書かれたのは1973年で、70年代の学生運動が終わり高度経済成長期の真っ只中に書かれた作品でした。
70年代の学生運動やその後の高度経済成長期を支えたのは、その親世代が戦争で【自己の内面】に傷を負った戦中派である、団塊の世代でした。
この団塊の世代は、いわば親世代の戦中派の【自己の内面】の心の傷を子供として受け継ぐ形で、世代的に学生運動で連帯し、その後に高度経済成長期に世代的に邁進することになります。
つまり、原作の「箱男」の戦中派の原作者・安部公房 氏にとっても、戦中派の子供世代である団塊の世代にとっても、【自己の内面】の心の傷を深く探ることは、個人の固執を超えて世代的世間的な広がりを持つことが出来たのです。
ところが現在において、この【自己の内面】の固執は、単に(自己と違う)<他者>を見ることが出来ない人物として周りには理解されます。
なぜなら現在において既に世代を超えて世間に共通する【自己の内面】(の傷)は存在せず、せいぜい世代間で途切れていて、究極的には自己と切り離す形でそれぞれの<他者>について考え続ける必要に迫られるのが、”多様性”という現在の姿だからです。
この映画『箱男』において、主人公・“わたし”もニセ医者も軍医も、【自己の内面】(の傷)に固執し、その【内面】の傷からの救済されるために美女の葉子に性的な関係を求めて解決しようとします。
そして、美女の葉子は、自分にとって<他者>であるニセ医者や“わたし”を、彼らから見て<他者>の存在として救おうとしますが、結局は【自己の内面】(箱)から出られない彼らに落胆して離れて行ってしまう、というのが今作の物語の根底構造だったと思われました。
ところでこの映画はラストに唐突にこの映画を観ている観客に、【箱男はあなた達だ】、という趣旨の主張を行って物語は着地します。
多くの観客はこのラストにあっけにとられたと思われます。
なぜなら、多くの現在に生きている私達観客は、自分にとって<他者>である『箱男』の登場人物やストーリーについて観ていたと思われるからです。
多くの観客は、【自己の内面】(の傷)(箱)に固執し続ける“わたし”やニセ医者や軍医に対して呆れもありながらも興味深く彼らを<他者>として映画を観ていたと思われるのです。
1観客の私は、【箱男はあなた達だ】の趣旨をラストに主張している映画の制作者に対して、そんな全く間違った主張をしていないで、そろそろ現在の様々な<他者>である外の人々に関心を(私達観客と同様に)示した方が良いですよ‥と苦笑しながらこのラストの主張を聞いていました。
なぜなら私を含めた多くの観客は、時代が過ぎ去った【自己の内面】(の傷)に未だに固執している監督含めた制作者のラストでの全く間違った主張に対して呆れ、<他者>である箱男たちに対して最後まで理解しようとしていた葉子のように、この映画から最後に立ち去ったと思われるからです。
今作のレビュー評価の点が全体的に殊の外に低いとすれば、それが理由だったように僭越、個人的には思われました。
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