「題名は面白いのに…挫折する理由を、個人的に解明」箱男 かみさんの映画レビュー(感想・評価)
題名は面白いのに…挫折する理由を、個人的に解明
「箱男」という題名に惹かれて原作を読んだり、または今回の映画に出かけたりする人は多いのではないか。しかし、合わなくてモヤモヤする人も、やはりとても多いと想像する。
中高生のころに原作に挫折した立場で「なぜ苦手なのか」を個人的に解明するために映画館に行き、原作も頑張って読んでみることにした。
映画を見てから原作を読むと、非常に複雑な構造の本を、かなり忠実に分かりやすく映画化してくれたんだなと思う。(なので映画を見てからの方が本が読みやすくなる)
このお話は、都市化した現代社会で他者と断絶したホームレス状態の人だとか、究極の匿名者だとかを描いているように「一見」思われる。
だが本作の本当の興味はそういう都市とか現代社会といったところではなく、要は特殊な性的欲望にあるのではないか。
箱男以外の重要な登場人物として、病院の看護師の女性、そしてなぜか箱男の立場と入れ替わりを望む病院の(偽)医者が出てくる。
(偽)医者は看護師といくらでも性的関係を結べるようなのだが、むしろ生身の人間として女性と関わるのではなく、箱に隠れて相手を一方的に鑑賞したい欲求がある(ように見える)。これは現代のデジタルポルノなどの構造を考えると理解しやすいのではないか。この(偽)医者の場合、箱に入った不自由な状態で女性に誘惑されるとか医療行為を行われるとか、何かSM的な願望も濃厚であるように描かれている。
なお原作の途中にコラムのような形で「露出狂」と「覗き魔」の対比が出てきて参考になる。安倍公房は「現代は覗き魔の時代である」というようなことを書く。露出狂は一見「見せたい人」のようでいて結局逆なのだ。自分の固有性を相手に知られず犯行を行い、被害者の反応ぶりを一方的に楽しむのだから。この「覗き」願望についての着想から箱男全体を鑑賞すれば相当わかりやすいと思う(ほかの部分が筆者には難解ということもあるが)。
こうした性的な執着の話に比べ、映画の中で延々繰り広げられる「本当の箱男」をめぐる争いには必然性を感じず、興味が持てなかった。
これは原作が苦手な理由にも関係する。「箱男」というコンセプトが魅力的なのに対し、お話が「どうやって本物の箱男になるか」「私は今日から箱男としてこのノートを書く」など、入り口部分をこねくり回して一向に中身に入らないように思えるのだ。
むしろ「箱男」という題名を思いついた小説家が、どうやって野宿者などと区別してキャラクターを作るか、心理や行動原理を本人にどう説明させるか、その思考過程(または企画案)を未消化なまま書いた本、といったほうがわかりやすい。前述のようにストレートな欲望の話などを前面に出してくれた方がよかった。
いや、小説家の創作過程を実況中継し破綻ぶりをそのまま見せるなど、自意識にこだわった作品であればそれはそれで面白い(初期の太宰治などが例になるだろうか)。ところが「箱男」の場合は現代社会を風刺したかのような体裁なのに、未完成な自己語りにつきあわされるみたいでイライラするのだ。
(原作、映画の解釈として合っているか自信がない、とりあえず個人的な解明の結果として)
劇団内の愛人(女優山口果林)へ送った言葉。この本は君へのラブレターだよ……箱の中から23才下の愛人を視姦している変態男が理論武装しているだけの話だとすれば、あらゆる哲学的考察や深読みなど全て虚しい?