「私的、ラストに感じた苦笑の理由とは」箱男 komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
私的、ラストに感じた苦笑の理由とは
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
この映画『箱男』は、原作が安部公房 氏で原作は1973年に発表されています。
映画の冒頭で1970年代の話がされるので映画の舞台は1970年代当時なのかな?と観ていると、箱男になっている主人公・“わたし”(永瀬正敏さん)が覗いている外の世界の人々の服装や車や物からするとどうやら現在で、ニセ医者(浅野忠信さん)がノートパソコンを使っているのもあり、映画は現在の話というのが分かります。
カメラマンの主人公・“わたし”は、ある時、自宅の庭に現れた箱男に銃を撃ち箱男を仕留め、空っぽになったその箱に今度は自分が入って箱男になります。
箱男になった主人公・“わたし”は、箱の覗き穴から外を見ていると、ビルの屋上から旗を振る男(渋川清彦さん)や、ライフルを撃って来るニセ医者に追いかけられたりします。
ある時、箱男の“わたし”の前に、看護婦見習いの葉子(白本彩奈さん)が現れます。
美しい脚の葉子は、ニセ医者に撃たれた“わたし”の傷の治療のために、金を渡して病院に来るように促します。
その後、箱男の“わたし”はその病院に行き治療を受け、後に、箱に入ったニセ医者と裸になった葉子との、変わったプレイを目撃します。
観客にはニセ医者と軍医(佐藤浩市さん)との関係も次第に明らかになって行きます。
ところで、箱男の主人公・“わたし”は、思いついたようにノートに自分の思考を記録しています。
このノートは、箱男の“わたし”が殺された時の犯人の証拠になるとの証言もありますが、内容は“わたし”の妄想に近い思索の記述になっています。
するとこのノートの内容は、箱男の主人公・“わたし”が、(外の世界を観察してそれを記録したというよりも)自身の【内面】の底について書かれた精神的な内側の記述だと分かって来ます。
箱男の主人公・“わたし”は、一見、外の世界を観察しているようでそうではなく、ほぼ終始一貫、自身の【内面】に固執してノートの記述を日々行っている事が分かります。
なぜなら、現在の私達の風貌や現代的な物や車など(<他者>)について箱男の主人公・“わたし”はほぼ一切関心を示していないからです。
つまり、箱男とは、【自己】の内面に固執して【自己】の底を記述しようとしている人物だということになります。
そしてニセ医者や軍医も、【自己】の内面に固執して、その解決のために美女(葉子)との性的な関係を求めている事が分かって来ます。
映画の最終盤で、遂に箱男の主人公・“わたし”は、病院の内側を段ボールで覆い病院全体を大きな箱にすることで、その中で美女である葉子との性的な関係に成功します。
ところが性的な関係の後に葉子は、主人公・“わたし”から去って行くのです。
そして主人公・“わたし”は、葉子が最後に自分から去って行った理由を、葉子がもっと箱の奥深くに行ったのだと解釈します。
しかしながら1観客の私には、葉子が箱男の主人公・“わたし”から去って行った理由について“わたし”の映画での解釈は間違いだと一方で思われました。
葉子が箱男の主人公・“わたし”から去って行った理由は、単に【自己に固執している箱男の“わたし”が、<他者>である葉子を見ていなかった】のが理由だと私には思われました。
ところで、今作の原作者である安部公房 氏は既に亡くなっていますが、1924年(大正13年)生まれの青春時代を戦争期間に過ごした戦中派です。
召集前に終戦を迎えて戦争には行っておらず小説家でデビューしたのは戦後ですが、戦前と戦後でがらりと価値観が変わった経験を通して、自身が認識している世界を【自己の内面】の根底から解釈作り直すことに迫られた世代だったと思われます。
そして原作の「箱男」が書かれたのは1973年で、70年代の学生運動が終わり高度経済成長期の真っ只中に書かれた作品でした。
70年代の学生運動やその後の高度経済成長期を支えたのは、その親世代が戦争で【自己の内面】に傷を負った戦中派である、団塊の世代でした。
この団塊の世代は、いわば親世代の戦中派の【自己の内面】の心の傷を子供として受け継ぐ形で、世代的に学生運動で連帯し、その後に高度経済成長期に世代的に邁進することになります。
つまり、原作の「箱男」の戦中派の原作者・安部公房 氏にとっても、戦中派の子供世代である団塊の世代にとっても、【自己の内面】の心の傷を深く探ることは、個人の固執を超えて世代的世間的な広がりを持つことが出来たのです。
ところが現在において、この【自己の内面】の固執は、単に(自己と違う)<他者>を見ることが出来ない人物として周りには理解されます。
なぜなら現在において既に世代を超えて世間に共通する【自己の内面】(の傷)は存在せず、せいぜい世代間で途切れていて、究極的には自己と切り離す形でそれぞれの<他者>について考え続ける必要に迫られるのが、”多様性”という現在の姿だからです。
この映画『箱男』において、主人公・“わたし”もニセ医者も軍医も、【自己の内面】(の傷)に固執し、その【内面】の傷からの救済されるために美女の葉子に性的な関係を求めて解決しようとします。
そして、美女の葉子は、自分にとって<他者>であるニセ医者や“わたし”を、彼らから見て<他者>の存在として救おうとしますが、結局は【自己の内面】(箱)から出られない彼らに落胆して離れて行ってしまう、というのが今作の物語の根底構造だったと思われました。
ところでこの映画はラストに唐突にこの映画を観ている観客に、【箱男はあなた達だ】、という趣旨の主張を行って物語は着地します。
多くの観客はこのラストにあっけにとられたと思われます。
なぜなら、多くの現在に生きている私達観客は、自分にとって<他者>である『箱男』の登場人物やストーリーについて観ていたと思われるからです。
多くの観客は、【自己の内面】(の傷)(箱)に固執し続ける“わたし”やニセ医者や軍医に対して呆れもありながらも興味深く彼らを<他者>として映画を観ていたと思われるのです。
1観客の私は、【箱男はあなた達だ】の趣旨をラストに主張している映画の制作者に対して、そんな全く間違った主張をしていないで、そろそろ現在の様々な<他者>である外の人々に関心を(私達観客と同様に)示した方が良いですよ‥と苦笑しながらこのラストの主張を聞いていました。
なぜなら私を含めた多くの観客は、時代が過ぎ去った【自己の内面】(の傷)に未だに固執している監督含めた制作者のラストでの全く間違った主張に対して呆れ、<他者>である箱男たちに対して最後まで理解しようとしていた葉子のように、この映画から最後に立ち去ったと思われるからです。
今作のレビュー評価の点が全体的に殊の外に低いとすれば、それが理由だったように僭越、個人的には思われました。
皆さん難しく考え過ぎ。安部公房スタジオ旗揚げ当初から“関係”していた女優(芸名もつけた)と一緒に取材旅行、重要な場面の発案、最後に『君へのラブレターだよ』との言葉で労をねぎらい完成に至った本作。謎めいた女、葉子は山口果林 。そして映画のラスト(笑ってしまうが)箱男は〇〇だ!の正答はもちろん「彼」ですよね。