箱男のレビュー・感想・評価
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《わたし》について
覗いたね?
《17歳のわたし》
安部公房の『砂の女』を読んでから、世界の何もかもが変わってしまった。
というのは大げさではあるが、少なくとも人間はふっと行方不明になれることを知った。社会の中で生きることは当たり前のようで当たり前ではない。ふとあるべき人生のレールから降りようと思ったら、いやそんなたいそれたことを考えずとも、今日は学校や仕事に行くのを辞めようと思ったら、または段ボール箱を被ってみようとか、さらには自分の意志とは関係なく昆虫採集で砂丘にいってみたら、いつでも社会から行方不明になれる。病まずとも疎外されずとも、いなくなれる。その気軽さを幸とするか不幸とするかは任せるが、私には安心に思えた。だから本作についても原作は読んでいたし、劇場公開もとても楽しみにしていたから初日にいった。
《TOHOシネマズ日比谷シャンテ》
はじめてシャンテに行った。それは仕事終わりにいける距離の問題でなのだが、本作をみるには最も適した劇場のように思えた。
日比谷は綺麗な街だ。ビル群には高級店がいっぱいある。歩いている人もおしゃれだ。けれどあまりにも綺麗すぎる。全てが整地されて、ジェントリフィケーションが進んだ空間。なんか素晴らしいディストピアのように思えた。何もかもあって何もない空疎さが漂っている。
しかしそれは私がはじめて日比谷をちゃんと歩いたから受けた印象であって、高架下には居酒屋があって、昔ながらの店があることも知った。そしてシャンテも。
私は当然のようにシャンテとTOHOシネマズ日比谷の違いが分からず、TOHOシネマズ日比谷へ行ってしまった。そして4階から高級店が立ち並ぶフロアを下って、別館のシャンテに移動した。シャンテの入っているビルは古いし、小さい。でも箱男が日比谷に住み着くならここだと思ったし、1階にチケット売り場があるのは驚いた。そして落ち着ける。スクリーン1に入るための後方の扉は螺旋状の階段を昇って入ることにもテンションが上がった。
シャンテはその古さと小ささから日比谷という街にある巨大な段ボール箱のように思えた。空疎さからエスケープする場所。だから落ち着けるのだと思う。そして場内もまたひとつの段ボールの中であって、私たちは本作を覗くことになる。
《ようやく中身について》
序盤から圧倒されたし、何か骨太なイメージをみせられた。最近の邦画は陽だまりにいるような優しいイメージが多いように思うけれどーそれは現代性で、いいのだがー、硬派なものもとてもいい。好き。美術が最高。音楽のガシャガシャ感と思いっきりぶつ切る感じもとてもテンションがあがった。そして本作の翻案を映画ならではの表現で巧みに行ったと思う点は画郭と音響である。
《シネスコは風景のためにあるわけではない》
本作の画郭はシネマスコープである。横幅がよりワイドな画郭。私は邦画でシネマスコープだからよかったと思える作品をあまり知らない。それもシネスコは、代表作としてあげられる『アラビアのロレンス』のように、平坦だけど見たこともない素晴らしい風景を映すのに適していると考えるからだ。だから山々に囲まれ平地が狭く乱雑な日本ーその限定もまた粗雑ーの空間に適さないと思っている。
しかしシネスコの本領は段ボール箱の覗き窓と同化することで発揮されることに驚嘆した。広大な風景は必要ない。道ばたに転がっている段ボールで十分なのだ。そしてこの表現が、劇場で本作をみることと箱男が世界を覗くことを同化させ、私たちを箱男たらしめるのだ。
《くぐもった声はどこから発せられている?》
もうひとつ印象的なのは音響だ。本作の画は全体的に暗いし、登場人物の発する声はくぐもっている。だからよくみえないし、ちゃんと聞こえない。下手くそな自主映画か?と思ってしまう。しかしそのみせ方が、現前するイメージの現実レベルを下げる。そして語られる全てのことが、箱の中の語りであり、箱男が日記に書くフィションであることを明らかにさせる。
ワッペン乞食が登場するのも、狙撃されるのもフィクションだからだ。しかし事実としてあるのは箱男が日記にそのフィクションを書いたことだけである。
フィクションはフィクションである。しかし映画でフィクションが現れるためには、事実として存在するものをカメラで記録しなければならない。それなら私たち観賞者がみるイメージは事実である。しかしその事実はフィクションなのだ。錯綜してきた。それなら今みているイメージは事実なの?フィクションなの?そして語り手は一体誰なの?そのフィクションと事実の峻別つかない様を見事に描いたのが原作であり、本作もまたそうである。
《しかし翻案は不十分なのでは?という疑念》
私は原作を読んでから本作をみたので、物語の筋を理解したし表現も面白いと思ったのだが、未読の人は「クレイジー」としか思えないのではとも感じた。それは読解能力の有無ではなく、本作の翻案が不十分な気がするからだ。
その一番の原因は「覗くこと」と「記録」の分離である。
本作は原作と比較して誰が本当の箱男かのバトルがより繰り広げられる。そのために箱男の日記を誰が所持し、記述しているかが問題となっていく。このとき「箱男が覗いたことを日記に記録する」という一連の運動が分離して、記録に物語が主眼を置くことになる。
するとショットが本来もつ「覗くこと」の意味が無視される。ショットこそ「覗くこと」と「記録」が峻別つかずに構成されたものだろう。私たちはショットをみることで2つの側面を一挙に受け取る。しかし物語は記録に焦点を当てるから、覗くことをナレーションで代用させる。だから「覗くこと」の意味が映像イメージと音声イメージで二重化されるから過剰のように思えるし、齟齬が生じると違和感でしかない。だからバトルを繰り広げた後、誰が箱男で、誰が書いているんだと語るそれを「エンターテイメント」として受け取ることは難しいような気がする。白けてしまった人もいると思う。
他にも翻案の不十分さと言えるのは、医者とニセ医者の出来事の中途半端さや最後の箱男と葉子の二人きりの時間にも感じる。中途半端に捜査させるなら省略したほうがいいと思ったーただそれだとニセ医者が箱男になる動機が稀薄になったりと難しいがーし、箱男と葉子が二人きりでやるのは、扉や窓を段ボールで覆うことではない。葉子が着衣のままなのも、閉ざされた世界での〈私〉の解放として脱ぐことが必然だしー現実的な演出の問題は分かるがー、二人の世界の描き方も何か違うような気がした。二人きりの世界はユートピアである。しかし社会と隔絶されているからすでに破綻している。そのことを有機的に描いてほしかったし、それは原作にはあった。私はベルナルド・ベルトリッチの『ドリーマーズ』みたいなものを想像していたから違和感しかなかった。
そして私が一番何か違うと思ったのは、誰が本物の箱男かバトルする展開である。
《箱男は全てがニセであり、本物である》
私の結論は端的にこれである。箱男が匿名的な人物の表象であるなら、誰が本物でニセなのか探し当てるのは不毛である。私もまたある匿名的な人物として本物である。しかし誰かが指し示したその匿名的な人物ではないから、ニセである。それが無限にこの世界で生きている〈私〉には起こりえている。だから箱男はニセであり、本物であり、この世界に独りしかいない〈私〉が、複数いる。そのように思えるから、なぜ彼らがバトルしているのかよく分からないし、箱男の本質を見誤っているような気がしてならない。
さらにこのことは書くことやショットにも同様に言える。書いたことやショットのその行為自体は事実≒本物かもしれないが、書かれたことや映されたことは、フィクション≒ニセになってしまうし、フィクション性を帯びてしまう。しかし私たちはフィクションを事実として受け入れられるし、またはその攪乱ぐらいに戸惑い、書くことやショットの根源的な奥深さを思い至ることもできる。それが本作にないとはいわないし、むしろ意識されているとも思うが、十全に描かれたとは思えない。
《おわりに》
石井岳龍監督が27年越しに永瀬正敏さんを再びキャスティングし完成させた執念は、その事実として賞賛されるべきであることだ。私は原作に軍配を上げてしまったので、文句なしの大絶賛ではないのだが、驚きと混沌ぐあいは凄まじく、劇場でみてよかった作品だとは思っている。私はナレーションが過剰に思えてしまったが、ラストの街の描写はナレーションを排し、ショットで十全に虚実の攪乱を行っていたから後味も悪くない。しかし原作のラストの方が好きかな…。そしてここまで長ったらしく書いている私は誰だ?
17歳の私が『砂の女』を読んだことも昨日、シャンテでみたこともフィクションかもしれない。そしてここまでの文章は書き手が複数いて、独りの私が考えたことではないかもしれない。匿名な私には証拠立てるものが何もない。そしてここまで読んでいる人が何人いるかも分からないから言明する必要性も分からない。でも読んでいただいた人や証拠のためにも本名を明かそう。私の名前は、________。
時を超えて人間を映し続ける前衛的な物語
安部公房の原作は1973年に出版されている。一方本作は時代設定を現代に置き換えているが、原作にあった雰囲気は全く揺らいでいない。
小説「箱男」はとにかくアヴァンギャルドで実験的だ。映画の中で永瀬正敏の演じる男が書き綴っていたノートや新聞記事、誰かの手紙、供述書などが筆跡についても言及されつつランダムにつなぎ合わされた構成(手書きのタイトルや字幕、さまざまな筆跡のエンドロールはこういった描写へのオマージュだろう)。ところどころに、安部公房自身が撮影した写真のページが挟まれる(映画冒頭のモノクロ画像はこの写真の一部)。
この独特のストーリーテリングは、たかだか50年経ったくらいでは古さを感じさせない。
個人的な感想としては、正直飲み下しづらい。普通の小説と同じように物語の流れや主題を追おうとすると、全くつかみどころがない気がしてくる。
ただ、箱男という存在と彼が晒される運命は、その時々の時代を生きる人間を映す鏡なのかもしれないとは思う。それもとびきり上等で、曇ることのない鏡。
映画.comの本作特集記事と同様、私も箱男のあり方を見て「スマホやパソコンを通して社会を見る匿名の自分」を連想した。
一方、文芸評論家の平岡篤頼氏による新潮文庫版の解説には、次のような解釈が書かれている(カギ括弧内のみ引用、それ以外は要約。詳細は文庫巻末をご覧ください)。
現代人は流行やしがらみに支配され、そのうえ「ひどいニュース中毒に罹って」おり、「テレビやラジオから離れられない」。箱男になる前の主人公はそのような状態だった。それら情報の供給源を捨て去ることにより、彼の見る「風景が均質になり」、大切だったものと無価値に思っていたものとが同等に見えるようになる。彼は覗き屋から「認識者」へと変わる。(要約終わり)
つまり、箱男は情報過多な世界と自分の間に遮蔽壁を設けた人間の姿であると、平岡氏は解釈しているのだと思う。これは、先述した私の解釈とはある意味逆だとも言える。
また、平岡氏は箱男のこの状態について幸不幸の判別をしようとすること自体「市民の感覚」だとも述べている。
この解説文は約40年前(1982年)のもので、現代人とは当然当時の人々を指しており、テレビやラジオ云々という部分には古さがあるが、人間が情報依存の状態にあると見做し、その状態を脱すると世界の見え方が変わり価値観の転換が起こる、という視点自体は現代にも通用する。
現代の感覚で箱男から想起するネット依存やネット上の匿名性の象徴といった解釈と、40年前の平岡氏の解釈。他にもさまざまな読み解きができるだろう。こういった幅のある考察を喚起するところに「箱男」という物語の凄み、度量の大きさを感じる。
ところが、本作はラストで「箱男はあなたです」というメタ表現をやった。確かに原作にも別の方法でのメタ要素はあるにはあるが、こういった説明じみたものではない。
それは本作を観ている最中に観客が自分でじわじわと感じればよいことで、そこでとどめるからスマートなのであって、わざわざダメ押しで明言して解釈を固定しなくてもいいのではと思った。そこだけ残念(あくまで私の好みの話です)。
俳優陣は、浅野忠信がいい味を出していた。単純に、あの世界観の中で人間臭さが際立っていたから目が行ったというのもあるかもしれないが。腹に一物ありそうなのに憎めないおじさん感を出すのが上手い。少し前に見た配信ドラマ「SHOGUN」でもいい演技をしていた。
小説の箱男の目の部分の穴はもっと大きくて、艶消しビニール幕がカーテンのように取り付けてあるのだが、俳優の目が映らないからビニールはなしにして、ラストシーンのためにスクリーンのアスペクト比に合わせたサイズの穴にしたのかな。
箱男が意外と俊敏に走ったり派手なバトルをこなすところ、贋箱男が葉子に浣腸をされるシーンなんかは笑ってしまった。基本的に難解で好みの分かれる作品だが、そういった動きのあるシーンはコントのように単純に楽しんでもいいと思う。生前の安部公房も、石井監督に「娯楽映画にしてほしい」と言っていたらしいし(大衆的ではないけど……)。
どっぷり浸って、感じたい怪作
段ボール箱に小さく空いた長方形の隙間。そこから世間を臨む二つの瞳。我々は果たしてこの不気味な物体を見つめている側なのか、それともじっと見られている側なのか---。安部公房が73年に著した奇妙すぎる小説が、50年経つ今なお、攻めの姿勢を忘れぬ衝撃作として存立し続けているのは驚きだ。この映画の制作過程では27年前にドイツでの撮影休止という予期せぬトラブルが生じたとか。その苦難を乗り越えていざ完成体に達した本作は、リアルな泥臭さと、観る者を煙に巻くトリッキーさ、差し込まれる緩急、そして我々が石井岳龍という名を聞くときにいつも体にほとばしる電流を併せ持った文字通りの怪作となった。永瀬と浅野による「ELECTRIC DRAGON」が進化を遂げたかのような宿命の対峙もシュールで味わい深い。観客を選ぶ作品ではあろうが、文学から受け継がれし魂を感覚的に昇華させた映像版として、どっぷり浸って感じたい一作だ。
安部公房の半世紀前の前衛小説を、石井岳龍監督が合理的に再構築しモダナイズした渾身の娯楽作
安部公房の1973年の小説「箱男」は代表作の1つとして知られるが、恥ずかしながら未読だったので本編鑑賞前にあわてて読んだ。登場人物は多くないにもかかわらず、視点が入れ替わったり、モノローグと手記が混在したり、誰による語りなのかが曖昧になっていったりと、一筋縄ではいかない相当に難解な小説だ。ノンリニアの語りというか、するすると読み進むことを敢えて拒み、読者に都度立ち止まって考えることを求めるかのような仕掛けとでも言えるだろうか。
さて石井岳龍監督は、作家本人から映画化の許諾を得て、1997年に日独合作としての製作決定を経てハンブルクで巨大セットを組むも、資金上の問題でクランクイン前日に中止に追い込まれたという。そこからさらに四半世紀を経て企画が再始動、現代日本の都会に舞台を移し、以前の企画でメインキャストだった永瀬正敏と佐藤浩市、さらに浅野忠信も加わり、ついに完成させた執念の作品だ。
「『箱男』は娯楽にしてほしい」との原作者の意向をくみ、永瀬が段ボール箱をかぶって扮する箱男がにわかに走り出したり、浅野が演じるニセ医者との格闘があったりと、共同脚本も担った石井監督はアクションシーンでストーリーを牽引するエンタテインメントへと昇華させた。原作小説が現代のネット社会を予見したとも評されるアイデンティティの喪失という問題提起を、映画ではアクションの主体としての身体性を強調することによって単にわかりやすくするだけでなく、失われゆくアイデンティティを取り戻す可能性と希望をも提示しているように感じた。
不思議な作品
なんかよく分からなかったというのが率直な感想。
箱男は女性のふくらはぎフェチと思われる。
あと、広い世界にいて、箱男が閉じられた世界にいると思っている人々が、箱男から見たら逆に閉じられた側の人々だという場面が面白かった
だから、箱男の外側を基準とするか、箱男のいる側を基準とするかで、覗く覗かれるの立場が逆転する。
箱男の外側から見ると、箱男の側は箱によって閉じられた閉鎖空間であり、箱男は閉じられた世界から外を覗く、逆に箱男の側から見ると、箱男の外側が段ボールによって閉じられた世界で、広い世界にいると思っている人々は、実は段ボールによって閉じられた空間にいることになる。そして、人々はそこに開いた小窓から箱男の世界を覗くということになる。
2024/9/5(木)鑑賞
。
勇気に拍手です。
「砂の女」の感動をもう一度と、勝手に期待しての観賞でした。
可笑しくも、悲しくも、涙する事もなく、自らの感受性に疑問を感じさせてくれました。観るところを見落としたのか、感じる取る力がなかったのか。商業映画としてこの小説で挑戦した勇気には関心しました。
妄想なぞなぞ映画
箱男に憧れた男性が箱男になりかわろうとする話…なんだけど、いろんな要素が混ざり合ってよくわからない映画になっていると思う。
もっと映画向けに面白くできたんじゃないかな?
小説原作は内容によって見せ方を工夫しないと観客に意図が伝わらないと思う。
おじさんだらけの中で若い女優が一人っていう絵がキツイ。
白本彩奈さんのヌードが綺麗だった。
箱を通して自分を見つめる
箱に入りたくなった。普段見ている景色が違って見える気がする。そんなことを思わせてしまう作品。理性がなくなり、欲望そのままに解放される。蛹の例えはなるほど。己の理性も欲望も手記も、ぜんぶどろどろに溶けて一体になって新たな何かになる。女性はまさに細すぎない肉体美で見惚れた。いるだけでエロティシズム。
【今でも前衛的】
中高生の頃にハマって読んでた「壁-S・カルマ氏の犯罪」「砂の女」「他人の顔」「無関係な死」「燃えつきた地図」「箱男」他の小説に戯曲、懐かしい!
半世紀前の作品だが色褪せるどころか今こそ考察が必要なテーマ。時代背景が現代設定でやや違和感があった(勿論それを狙ったのだろうが)のと、エンディングはもうちょい観る者の解釈に委ねる演出が作風と合ってる感じはした。
説明不足によって変態趣味のカオスと化した「アヴァンギャルドな映画」
原作者安部公房の生誕100年。その作者が『箱男』の映画化を唯一認めるものの、クランクイン直前に頓挫してしまった経緯。その監督による数十年を要した執念の映画化。
当時のキャストと有名俳優が名を列ねる豪華さ。
『砂の女』しか読んだことないものの、「安部公房ワールド」に魅了された筆者は心弾ませ映画を鑑賞した。
ところがどうだろう….スクリーンからは脈略のないストーリーと中年男たちの変態趣味が恥ずかしげもなく映し出されていただけだった。
冗談はここまでにしておいて、少しレビューらしいことを書いて見よう。
この映画を観て、後日原作の方を読むと自分がどうして楽しめなかったのか分かった。
原作は「前衛的作品」として知られているものの、箱男に魅了される理由や命を狙われる訳、作品のテーマである「都市と人の帰属の問題」などが書かれているが、映画ではいきなり「ワッペン乞食」との死闘が繰り広げられ、それが箱男の使命なのだと謎の達観をしている。
また、看護婦に魅了されていく箱男が彼女の足のスタイルを覚えていたということも、彼女と出会う前から箱の中に女性の足のスケッチが数枚貼ってあるおかげで、そういった性癖なのだと誤解させる。
プロットはおおむね原作通りなのだが、原作よりも言葉が少なすぎ、演出もいたずらに登場人物の意図を感じさせないようにわざと混乱させるようなカオスさを感じた。だから、鑑賞してる側としては何がどうなっているのか理解が追いつかなかった。
原作を読んでると自然と理解できるし、楽しめるのだろう。どうもそれが前提となっているように思える。
こういった作品が好きな人は好きなのだろう。単に合わなかったのだ。
それでも、終盤のシーンは誰しも箱男になるというメッセージ性を感じれたし、ダンボールを被りながらのアクションは唯一楽しめたところであった。
シュールな現代の寓話
前置き無しに冒頭から”箱男”の視点でドラマが始まるという、ちょっと入り込みずらい内容ながら、不思議と引き込まれてしまうのは、この”箱男”にどこか現代の風刺を見てしまうからだろう。匿名性を保持しながら世間を観察する彼は、昨今のSNSや監視社会を彷彿とさせる。もっとも、箱男は他者に危害を加えたり誹謗中傷するようなことはしない。ただ大人しく傍観者に徹するだけなので人畜無害という言い方もできる。ただ、世間を冷ややかに見つめるその眼差しにはどこか薄気味悪さを覚えた。
安部公房の原作(未読)が発表されたのは1973年ということなので、当時はまだインターネットもない時代である。こうした穿った解釈は作者の狙いから外れたものかもしれないが、作品というものは時代と共に捉え方も変化するものである。敢えて今、映画化した意味。そこを想像するのは面白いと思う。
また、箱男には引きこもりの暗喩も見て取れた。人間関係が希薄な現代においてディスコミュニケーションの問題は深刻だ。そうした提示も透けて見えてくる。
他にも、箱男の生態については色々と考察出来て面白い。
箱男はなろうとしてなれるものではなく、前の箱男を倒して引き継ぐものらしい。まるで一子相伝、秘奥義のごとき厳粛さであるが、これが本作にバトルアクションのような要素を持ち込んでいるのが面白い。
また、箱男は外の世界を眺めながら日がな一日妄想をノートに書き綴っている。それにどんな意味があるのか分からないが、何となく小説家・安部公房の自己投影のように見えた。
監督、脚本は石井岳龍。実は本作は1997年に映画化される予定だったが、その時は様々な問題で製作が頓挫してしまったらしい。そう考えると、今回は27年越しの執念の映画化ということで感慨もひとしおだろう。
元来、アヴァンギャルドな作風を得意とする氏だけに、今回のシュールな世界観は正にうってつけという感じがした。妄想も入り混じった虚実混濁した展開は、観る人を選ぶかもしれないが、そこも含めて作品のユニークさに繋がっていると思う。
欲を言えば、初期時代のようなパンキッシュな演出をもっと観てみたかったが、そこはそれ。むしろ意識的にコメディタッチを優先した所に大胆さも覚える。例えば、箱男こと”わたし”とニセ医者のやり取りには何度笑わされたことか。
二人の間で繰り広げられる看護師・葉子を巡る愛憎ドラマも、どこか無邪気さが感じられて微笑ましい。ニセ医者と葉子のエロティックな行為を”わたし”が覗き見するシーンなどは、コメディとして観れば傑作ではなかろうか。
ちなみに、本作は”見る、見られる関係”のエロティズムにも迫っており、このシーンはその最たるものと言える。
そして、この”見る、見られる関係”はラストのオチにも繋がっていく。第4の壁を破るのはデッドプールだけではない。日本には箱男がいた…とニヤリとさせられた。
キャスト陣では、ニセ医者を演じた浅野忠信の妙演が印象に残った。彼は本作のコメディテイストの要を担っており、ここまで嬉々とした演技は見たことが無かったので新鮮だった。
よくわからない。という「ねらい」
劇場の音圧は良かったが観客マナーがひどくて、
あたりに配慮なく何回も席を立ち、おつまみ的なお菓子をくしゃくしゃする人。
途中思いっきりスマホを開いてメールか何かを確認する人。
まさかのそんな方々に挟まれて鑑賞。
そんな中最後のエンドロールが不愉快でした。
導入はワクワクして観てたけど、
内容が進むにつれて支離滅裂?画面が暗くてよくわからない。バトルシーンはコミカルなものを狙っているのか本気なのかもよくわからない。
そんな「よくわからない」が狙いなんだろうか?病的な情景を描いたとすればそれは意図的だと思うが。。。
あとは箱男は改造人間かなんかなのか?
と思えるところもあり。
実験的な作品だと思いました。個人的にはもっとポップなものを期待して行って、違ったなあ。って感想です。作品としてはもうちょっと評価高くて良いと思います。
全く意味がわからない、けどなぜか引き込まれるような作品
事前の情報は全く知らず、永瀬正敏さんと浅野忠信さんが主演なので面白そうだと思い見てみました。何か原作があるそうですが、この映画に関してはストーリーとかどうでもいいというか全くわけがわからない感じですがなんか引き込まれて見ちゃいました。やはり出演者の方々の演技が皆さん安定安心の演技力なのでそのあたりが魅力の作品かと思います。
特に浅野忠信さんのふざけているような感じがだいぶ作品を引っ張ってくれていたように思います。佐藤浩一さんもすごかったですがあまり登場しなくてもうちょい出てきてほしかった、それくらいもっと見ていたいイカれたキャラクターでした(笑)
永瀬さんはずっとかっこよかったですし、白本さんは初めて見る女優さんでしたが綺麗な謎の美女感がとても良かった、体がめちゃくちゃ綺麗だなーと見とれちゃいました!
あと渋川さんもなんだか楽しそうでした笑
ちょっと自分としては90分くらいで終わった方がよかったかなと。
序盤はサクサク進み何がなんだかわからないのだがすごく気になって引き込まれてましたが
後半になり浅野さんも出てこなくなるあたりから永瀬さんと白本さんで話が進むあたりが長ったらしくなかなか見ていてしんどかったです。
自分はSABU監督の作品とか好きなので
こういう意味のわからない、なんだったんだ?的な作品はわりと好きなため最後まで見れましたが人によっては好き嫌いがだいぶ別れると思います。
後ろの席の人が途中で帰っていったので人によっては見るのがだいぶ退屈な作品かなと。
ちなみに自分の地域は昼間しかやってなくて平日に休みとって見に行ったら誰もいないと思いきややけに高齢者のおじいさんやおばあさんが多くてびっくり。原作のファンなのかわかりませんが。
あの高齢の方々がこのぶっとんだ意味不明な作品をどう感じたのか聞いてみたかった。
てか、原作もこの映画のようにぶっ飛んでいるのだろうか?
有識者の方読んでましたらぜひ教えてください。
時代のせいか、擦りきれた感受性のせいか
旬報シネマのレビューページでやたら評価が高かったので見てみたが、どうもテーマも結末も使い古されたものであるように思えた。あるいは、それは僕の感受性のせいかもしれないし、単純な好き嫌いかもしれない。
僕は「砂の女」を読んだことがあるくらいで、安部公房の文学的世界にそこまで感銘を受けた人間じゃなかった。それでも、この映画でその世界の重厚さや倒錯的な世界への陶酔を感じたし、こういう映画にかなり影響を受ける人もいるのだろうとも思える出来だった。視点や見せ方の工夫も面白く、シリアスな笑いや、時代を現代とない交ぜにして飽きさせず、また、観客と映画の世界をシンクロさせる手法もドキッとする人もいただろう。
でも、個人的にはやはり昭和に書かれた文豪的物語という感じが拭えなかった。面白くないわけではない。ただ、外界から完全に切断された個人というテーマなり設定はやはり古くさい感じがして、この世界があまりにも重厚だからこその匂いが消えなかった。映画を見ながら、ずっといまいち乗りきれなかった。世界観、秘密めいた都合の良い女、破滅的願望……。わかる。いろんな意味ですごくわかるし、これが昭和や平成の早い時代に映像化されていたらまた見え方も変わっていたかもしれない。でも、この現代ではやはり「やりたいことはわかるけど」というか、これを真っ正面から体感できる若者はいるのだろうか? 観客も年配の方が多かった。小説という文字だけの世界なら時代も超越しのめり込むことが出来るかもしれないが、映像が乗ってしまうとどうもなぁ……というどこかずっと白けてしまっていた。まぁ、僕の擦りきれた感受性の問題なのかもしれないけど。
バトルする箱男
思った以上に原作の雰囲気や設定に沿った作りだったけど、疾走する箱男、バトルする箱男など、まさかのアクションもガッツリ入ってきて、ちゃんと石井岳龍的な『箱男』だったし、色んな意味でよくこんな作品作れたなと思った。スマホ時代を予見したような原作をスマホ時代にスマホを登場させないでやる、というのはなかなか脚色難しいだろうという感じだったけど(時代設定は明示されていない。劇中で何年とか言ってるけど、多分信用できる情報ではなさそう。キックボードとか出てくるし)、そこは石井岳龍監督なので無国籍(めちゃ日本だけど)アクション的に時代がよくわからん感じに仕上げて解決、しかもラストは『逆噴射家族』の逆バージョン的に閉じていく感じになっていたりして、そこら辺も監督らしい作品と思えた。あと佐藤浩市の軍医殿に黒幕感があり過ぎて、誰の物語なのか曖昧とした雰囲気は薄まった感があったが、当初の箱男では佐藤浩市は誰役だったんだろうというのが気になった。
男たちの鼻息
2024年。石井岳龍監督。阿部公房の名作小説を映画化。段ボール箱の中から世界を覗き見ることに取りつかれた男は、路上に寝泊まりしつつ何者かに命を狙われる日々。ある日怪我をすると見知らぬ女性に病院を紹介される。罠かもしれないと警戒しつつも病院を訪れると、、、ということから展開していく話。
第二、第三の箱男の存在(本物ニセモノ論)、覗き見ることと書くことの関係(物語論)、女性との関係(他者論)などのテーマをはらみつつ、観客を巻き込んでいく映画。1973年、学生運動は下火となっているが消費社会の狂騒(バブル)まではまだ時間がある空白の時代の、いかに生きるべきかという壮大な妄想。シラケ世代とはいいながら、箱の中の男たちは総じて鼻息が荒いところに、「真実」とか「理想」とかに意味を求める熱量がまだ存在していたことを感じさせる。若い女性の裸体に興奮しているだけでなければ。
これでいいのか箱男
文字面のままに新旧箱男が箱に入ってるけど、そんなダイレクト表現でいいのか?(原作うろ覚えではあるけれども)
ダンボールを被った2人が取っ組み合う様は小学生時代の既視感がすごい
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