「武士・時代劇へのオマージュと佐幕派(会津藩)の悲運」侍タイムスリッパー talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
武士・時代劇へのオマージュと佐幕派(会津藩)の悲運
高坂新左衛門が思わず商店のシャッターから引き剥がして見入ってしまったポスターに書かれていたように、自潘が命を懸けて従おうとしていた幕潘体制が崩壊してしまってから140年も経った日本に降り立ってみれば、幼少から磨いてきた剣術の腕前は、時代劇の斬られ役くらいにしか役に立たない-。
その寂寥感は、並大抵のものではなかったことでしょう。
そういえば、本作を観終わって考えてみると、ひところはテレビの定番とも言えた「水戸黄門」も「遠山の金さん」も「大岡越前」も、放送終了になって、もう久しくなってしまってもいたようです。
本作は、いわゆる武家社会の「担い手」として、武芸(剣術)に生きた武士や、その武士の生き様(ざま)、そして武士を主役とした時代劇ドラマへのオマージュとして、素晴らしい一本でもあったと、評論子は思います。
本作の題名は「タイムスリッパー」ではあるのですが、「どっこい、時代劇はタイムスリップ(時代錯誤の遺物)なんかじゃぁないんだよ」という、時代劇・斬られ役の魂がこもった一本だったことも、間違いがありません。
「素直な気持ちで「観てよかった」と思える作品」とは、評論子が入っている映画サークルの先輩会員の、本作に対する評でしたけれども。
その先輩会員の評どおりに、十二分な優秀作ということだったと、評論子も思いました。
(追記)
長岡潘は、かつての盟友であった会津潘攻撃の尖兵として官軍(明治政府軍=薩摩・長州を主体とする連合軍)に利用されることを拒んで、官軍から壊滅的な打撃を受けてしまいます。
(この間の事情は、別作品『峠 最後のサムライ』に詳しい)。
当然、会津潘の方でもそういう事情は知悉していたので、長岡潘の手前、簡単に官軍の軍門に下ることもできない。
そして、他方の官軍としても、いわば「官軍に楯突く不届き者」に対する、いわば「見せしめ」として、作中の高坂新左衛門が目を通した台本でも言及されていたような、酷(むご)い仕打ちを、あえて会津潘に行わなければならなかった。
そして、後にそんな仕打ちを受けるほど、佐幕派(会津潘)の薩摩・長州の両潘に対する恨み(敵愾心)には、お互いに骨髄に染みるような相当に根深いものがあったことは、想像に固くありません。
本作でも、高坂新左衛門と風見恭一郎との確執にも、上記のような背景を考えると、締めつけられるような胸の痛みを感じます。
(正直に自白すれば、そのことに思いが至り、鑑賞中には、何度も涙が出そうになった評論子でもありました。)
そして、それが、武士や武士道(そしてその流れを汲む時代劇)に対するオマージュと並んで、本作のもうひとつのバックボーンを構成していることも、また疑いのないことだろうとも、評論子は思います。
(追記)
本作は、自主製作の作品として単館上映から全国公開に拡大した作品ということですけれども。
その故もあって、いわゆる「豪華俳優陣」が主役を演じたり、脇を固めているわけではなく、言ってみれば「あまり顔なじみでない俳優さんたち」が演じているだけに、「芝居くささ」を感じることなく、そのぶん素直にストーリーに感情移入できたという要素はあったかと思います。
変に「豪華俳優陣」に引っ張られていないという点も、本作の美点として指摘して良いのではないかと、評論子は思います。
(追記)
幕府の治世を是と信じて、新政府(薩長連合軍)と血みどろの死闘を繰り広げ、劣勢を強いられた佐幕派(会津藩)は、態勢挽回の、いわば切り札として、長州藩士・山形彦九郎の暗殺を計画。その刺客として高坂新左衛門が差し向けられる―。まさに血で血を洗うような争いを繰り返していたものの、140年余りを経てみると、庶民にもイチゴのショートケーキが日常の茶菓として用いられるような国になっていた。
高坂新左衛門にしてみれば、あの死闘の日々はいったい何だったのかという寂寥感・徒労感に、さぞかし苛(さいな)まれていたことでしょう。内心では。
しかし、このことはおくびにも出さず、140年後の世界では、その140年後の世界で、果敢に時代劇の「斬られ役」としての居場所を求めようとする。
武士は、他人に内心の動揺を知られることを「恥」と認識したと聞き及びますけれども。
そして、それ故「武士は食わねど高楊枝」ともいいますけれども。
やっぱり、高坂新左衛門もその意地があり、彼も間違いなく武士であったということなのでしょう。
本作のビジュアルにある襷(たすき)がけの高坂新左衛門の後ろ姿からは、その意地が、オーラのように立ち上っているように思えて、評論子には、なりません。
(そして、それ故、あのイチゴのショートケーキは(会津磐梯山に降り積もった雪のように白い握り飯と並んで?)、本作では意外と重要なアイテムだったのではないかと、評論子は思います。)
(追記)
ちなみに。評論子の祖先も武士だったと聞いています。
仙台地方を治めていた亘理伊達藩が、藩財政の立て直しを北海道の拓殖にかけて入植してきた当時、その亘理伊達藩に仕官しており、当主とともに北海道に移り住んで来たようです。
(評論子が北海道で生まれ育った理由が、それで分かったりもしました)
侍ですから、やっぱり腰に大小はぶら下げていたとは思うのですけれども。
しかし、お役目が「物書役(ものかきやく)」ということで、今ふうに言えば「財務会計係」ということでしたから、別作品『武士の家計簿』のような、いわゆる算盤侍(そろばんざむらい)だったようです。
それ故、そちらの方面は、高坂新左衛門のような「藩内随一の使い手」どころか、おそらくは、満足に抜いたこともなかったのだろうと思います。
抜くどころか、生活苦から「武士の魂」も売払ってしまい、腰に差していたのは、とっくの前から竹光だったと言うのだけは、その末裔である評論子としては、「なし」にして欲しいところです。
そして、その末裔である評論子も、いっときは財政再建団体転落も必至と言われた、さる貧乏自治体に奉職(仕官)してしまっているわけですから、「末裔よ、お前もか。」とばかりに、さぞかし草葉の陰で苦い顔をしていることでしょう。
(追記)
第76・77代の内閣総理大臣に、海部俊樹という人がいました。武士と同じく真意や内心の動揺を他から見透かされることは「半人前」とされる政治家の世界に身を置きながら、屈託のない笑顔が印象的な、政治家としては稀代の方だったと思います。
多くの政治家が、選挙ポスターのように「取って付けたような笑い方」(もちろん、真意を隠して愛想笑いをしている訳ですから、どうしても、そんな笑い方になる)をする中で、あんなに屈託なく笑える政治家というのは、どんな人なのだろうかと、ずいぶん
と不思議に思った記憶があります。
(しかも、同氏は、失礼ながらご自身の実力で地位を得た方ではなく、自民党内のスキャンダルや派閥争いの妥協の産物として、いわば「当座の間に合わせ」で内閣総理大臣に据えられた方)
件(くだん)の海部氏が「時局にかんがみて国民の真意を問う必要がある」として「重大決意)」を記者会見で表明すると、「重大決意=解散&総選挙」と一般には受け止められて、たちまち内閣総理大臣を解任され、マスコミは「スナックの雇われママが勝手に店を改装しようとしたのでクビになった」などと評しましたけれども。
後にNHKの番組に出演した同氏がインタビューに答えて「重大決意は、重大決意。それが何だったのかは、もう胸の奥底に秘めてしまいました。」と、例の屈託のない笑顔(むしろ、爽やかな顔?)で答えていたことを、評論子は、今でもよく覚えています。
本作の高坂新左衛門と海部氏。
どちらもずば抜けた自制心=精神力をお持ちのご仁だったことは、疑いようもないことのようです。
トミーさん、いつもコメントありがとうございます。
「高坂と風見の魚釣のシーン」…はい、評論子も、よく覚えています。
一見すると和解でもしたかのように談笑しながらでしたけれども。その時の高坂の心中や、いかばかりだったことでしょうか。
内心の敵愾心はおくびにも出さず、風見と間近に対峙(あえて「対峙」と書きま
す)できる自制心は、まさに武士道を極めた武士・高坂ならではのことだったとも思います。
(有り体(てい)に白状すれば、評論子が落涙しかけたシーンの一つでした。)
風見と(表向きは)笑顔で魚釣をしていた時の高坂の気持ち(真意)を思うと、本当に胸が痛みます。
そして、そのシーンに着目なさったトミーさんの映画ファンとしての慧眼にも、敬意を
表したいと思います。
共感ありがとうございます。
先輩がタイムスリップして来た時の状況はあの描写だけでは解りませんが、高坂氏はまだ若い!若者ならではの柔軟性で未来世界に溶け込もうとする辺り、一種の青春映画にも感じられますね。
仇敵同士、魚釣りの撮影シーンが最近なんかジワります。