「障がい者の世界と健常者の世界を「ふたつの世界」として区別する必要はあったのだろうか?」ぼくが生きてる、ふたつの世界 tomatoさんの映画レビュー(感想・評価)
障がい者の世界と健常者の世界を「ふたつの世界」として区別する必要はあったのだろうか?
せっかくCODAを題材として取り上げたのに、聴覚障がい者の両親と健常者の息子の家庭ならではの特殊性が、ほとんど伝わってこないのはどうしたことだろう?
息子が母親の通訳をする様子が描かれるのは、幼い頃に魚市場で買い物をする場面の一度切りで、それ以降は、息子が両親の助けとなっているようなシーンは出てこない。
息子は、「親が障がい者で可哀想と思われたくない」と言うが、そんなエピソードが具体的に描かれることもない。
小学生の息子が、うまく話せない母親を恥ずかしく思う気持ちは分からないでもないが、彼が、近所のプランターを壊した犯人として、あらぬ疑いをかけられたのは、別に、両親が障がい者だからではないだろう。
思春期を迎えた息子が、両親を疎ましく思うのも、普通に反抗期だからだろうし、受験に失敗した彼が、「何も相談に乗ってくれなかった」と母親を責めるのも、手話でちゃんとコミュニケーションが取れているので、単なる八つ当たりとしか思えない。
東京で暮らすようになった息子が、俳優のオーディションや就職活動に失敗したり、パチンコ屋でバイトをしたり、雑誌の編集部で働いたりするようになるのも、両親の障がいとは関係がない。
息子は、東京で、聴覚障がい者の手話サークルに参加するが、手話に方言があることや、必要以上の通訳が障がい者の自立の妨げになることを知るものの、そのことが、彼の人生や両親との関係に大きな影響を及ぼすということもない。
ラストで、息子は、公衆の面前で手話で話してくれたことを母親から感謝され、それまでの母親との接し方を悔い改めて涙するのだが、これは「現在」のことではなく、「過去に上京する時」の回想なのだ。
どうして、このような時系列にしたのかは定かではないが、「だったら、東京に出てきた後の話は何だったんだ?」とも思ってしまう。
もしかしたら、作り手には、CODAの特殊性を殊更強調しようという意図はなく、むしろ、障がい者だとか健常者だとかにこだわらない普遍的な物語を描きたかったのかもしれない。
ただ、そうだとすると、どうして、タイトルで、障がい者の世界と健常者の世界を「ふたつの世界」として区別したのだろうか?
結局、そこのところは、最後までよく分からなかった。