「個々のシーンにはそれぞれ理由があるが、もう少し配慮は欲しかった(本文参照)」ぼくが生きてる、ふたつの世界 yukispicaさんの映画レビュー(感想・評価)
個々のシーンにはそれぞれ理由があるが、もう少し配慮は欲しかった(本文参照)
今年338本目(合計1,430本目/今月(2024年9月度)24本目)。
※ (前期)今年237本目(合計1,329本目/今月(2024年6月度)37本目)。
※ この後、別映画館で「五等分の花嫁*」を見てからの帰宅ですが(水瀬いのりさん、伊藤未来さんのファン)、憲法論が絡まないアニメは見てもレビュー対象外です。
さて、こちらの作品です。3連休の本命にしている方も多いのではないかと思います。
この手の映画では当事者(ここでは、ろう者の当事者)不在で作られることが多いですが、当事者の方が何名も出ている点、および、聴覚障害の会の後援もあるなどかなり本格的に作られている点など非常に印象が持てました。
いわゆるCODA(親がろう者で、子が聴者である場合の子自身や、子の親に対する介護などの負担をいう語)に関しては、「CODA あいのうた」などをはじめとして日本映画、外国映画等も多く放映されるようになりましたが、本映画は日本映画で日本の文化や取り巻く環境等を重ねてみることができる点などきわめてよかったところです。
個々気になる点まではあるとして(以下)、複数論点におよび、かつ、それぞれが重なる部分もありますので、さっそく採点に入ります。
なお、当方は重度身障2級なので、一般的に何であろうと手帳に含まれうる限り最低限の知識以上は持っています。
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(減点0.1/この映画をバリアフリー上映で1回しか放映しない点など)
朝方に1回しかない映画館が多いです。また、それ以外は通常上映ですが、10年前でもあるまいし、すべての上映でバリアフリー上映にしたところで誰が怒るのかがまったく不明であり(2023~2024年でそんなことに腹を立てているようではとてもではないが人権の観点から危うい)、思い切って全てをバリアフリー上映にすべきだったのではなかろうか、と思います。これは、この映画の趣旨を考慮したものです(全ての何の映画も全部バリアフリー上映にしなさい、という趣旨のことではない)。
(減点0.1/個々個々わかりにくい点がある)
上記のように、ろう当事者や当事者の会が後援している等かなりわかりやすい展開になりますが、一部わかりにくい点があります。
・ 玄関の前で明かりをつけたり消したり
→ 今でこそ、聴覚障がい者の方向けの「点滅形式のファックス」や「点滅で誰かが来たことを知らせるセンサー」等が福祉機器として貸与されたり支給されたりしますが、当時(主人公の子の小さいときのシーンで、ファミコンのマリオをやっている(1985年))にはそのような制度はありませんでした。このため、「光の点滅」で知らせるという文化は、当事者のみならずCODAの当時者(つまり、子)にも共通の文化です。
・ 手話勉強会で宮城と東京で表し方が違うという話、パチンコ屋で「そんなにパチンコやっていると破産しますよ」のシーンほか
→ このことは、東京と宮城で手話表現が違う(手話にも方言があります)ことを意味する部分で部分的に出ますが、もう一歩進んで「手話には方言がある」ことを明示してもよかったのではないかと思います。
※ また、CODAを主人子とする以上、どうしても「親の干渉を受けやすい」のは事実で、例えば宮城出身であっても親が沖縄出身で沖縄のろう学校を卒業して宮城に引っ越していれば表現も沖縄方言になりますので、「どこ出身か」より「親がどこ出身か」のほうが大きい部分が多々あります。
・ 「手まねで学習してろう学校に…」
→ 主人公の子供パート(ファミコンが出るので1985年ごろ)おじいちゃんから出てくる話ですが、小学3年生(10歳くらい)と仮定して、親が第一子を産むのが統計上25~30歳なので、25歳と仮定すればろう者の親は1960年頃になります(ざっくり計算)。
このころのろう学校は、手話を「手まね」と読んでおり、とにかく健常者(ここでは、ろう者に対義する意味での「健常者」の意味)に合わせること「だけ」が重視されたため、健常者の話し方の口の動き等から内容を推測する「読唇術」(どくしんじゅつ)というものが主に教えられ、手話は「手まね」等として教育内容から省かれる等の扱いでした。しかし読唇術にも限界があり、「たばこ」「たまご」「なめこ」の違いを判別させる等(読唇術の学習であまりにも無意味とされた学習例の頂点)、およそ当事者が日常生活で使わないような例まで学習させ当事者の負担は異様に高いものでした。
※ ただし、2020年以降は日本ではコロナ事情があったこと、また現在(2024年)でも個人でもマスクをつけていることが多い一方、スマホ等の普及で、筆談やスマホ筆談が一般的かつ普通にできるようになってきたので、読唇術を本格的に必要とする機会は相対的に少なくなったのも確かです。
一方で日本の学校である以上、国語(ここでは、「日本語」としての国語をいう)も学習していましたが、小学3年生ころになると、文と文を「しかし」」「だから」などの接続詞等でつなぐ文などが登場し、国語をおろそかにした教育を受けた当事者はここから国語力に躓くことになります(これを当事者の間では「(ろう者の)9歳の壁」といいます)。このため、この時代の当事者は成人しても小学4~6年程度の国語力しかないといった状況であり(もちろん、親の教育等によってだいぶ異なるが、一つの傾向。また、手話教育発祥の地といわゆる京都を中心とした関西圏では比較的高度の国語力を獲得できた)、これがまた成人してからの就職差別等を生むことになります(現在、2023~2024年ではろう者と健常者で国語力の差はほとんど見られません)。
※ 当事者への理解が進んだ例として、車の免許も「大き目のミラーをつけること」を条件に免許取得が認められるようになりました。ただ、古い時代のろう教育しか受けていない当事者には「学科試験の日本語がわからない」という方も一定数いて(これも一般的傾向で、全員がそうではない)、まだ途上にあるところです。
こういった細かい部分はちらちらっと出てきますが、完全に出てくるものではなく、「CODA あいのうた」等から少しずつ進んできた当事者への理解への「さらなる第一歩」として「もう一つの踏み込み」が欲しかったです。
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ただいずれにしても、当事者不在で作られることがしばしばある中で、当事者を数多く起用し、また、当事者の会の後援・監修等もある本作品は極めて良い作品であり(年間300本を超えてみる私でもベスト10には入りそうな作品)、迷ったら無条件でおすすめです。