「「つながること」の意味と大切さを寓話的なギミックで描く、男三人イチャコラアニメ。」ふれる。 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
「つながること」の意味と大切さを寓話的なギミックで描く、男三人イチャコラアニメ。
このあいだ、「とん太」で並んでとんかつを食ったばかりだったので、大人パートが始まった瞬間に「あ、ここ高田馬場だ!」とわかりました(笑)。
あと、面影橋とか。ビッグボックスとか。
新婚当時に新大久保に住んでいたので、なんか懐かしい。
あと、服飾学校がまんま初台ー新宿間にある文化服装学院だし。
土地勘があると、観ていてちょっと親密さが増すような。
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「つながってる」ことを重視するSNS世代には、若者にせよ、老人にせよ、けっこう響く話なのかもしれない。
本作のテーマはまさに「つながること」。
そして、「つながりかた」の優劣や善悪ってあるのか、という話だ。
男の子三人のインティメットな友情と、シェアハウス。
女の子二人を含めた新たな共同生活と、三角関係の連鎖。
シンプルな人間関係が複雑になってくると生まれる齟齬。
きれいだけど「ずるい」つながりかたで形成された、ピュアな友情。
「言葉」をちゃんと用いた、拙いながらもリアルなつながりかた。
終盤で暴走した「ふれる」が生み出す、すべてがつながったSF的世界。
一見、話の本筋からずれているように見える「ストーカー」の存在も、ワンウェイで成立する、一方的でよろしくない「つながりかた」の典型的な一例である。
終盤に出て来る「高圧的な会社の先輩」との「体育会系」的なつながりかたも、秋くんが見た表面的なマイナス面と、諒くんが語る内実のギャップが面白い。一部のヤフコメ民が絶対に是認しようとしない「パワハラっぽいけどいい人なんですよ」ってやつですね(笑)。
人は人といろいろな形でつながってゆく。
どうつながるのが、いいつながりかたなのか。悪いつながりかたなのか。
むしろ、いい悪いではなくて、つながること自体が大切なのではないのか。
つながった「結果」として生まれる「絆」こそが真に重要なのではないのか。
そういったちょっと「青臭い」ことを、正面からまっすぐに衒いなく扱った、とても素直でけれんのない、基本的にいいアニメだったと思う。
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良く出来ているな、と思ったのは、
霊獣「ふれる」の能力の「本当の機能」の設定。
そりゃそうだ。なんでも考えてることが駄々洩れなら、逆に仲良しなんかに「なれるわけがない」。
相手に対する想いというのは、うまく「調整」「加工」して伝えるから、相手にも好感情を生み出すことが出来る。
生のままの感情をお互い剥き出しに垂れ流し続けていたら、友情など育めるはずもない。
そこのところに、ちゃんと理由づけしたうえで、さらにはその「便利な感情のやりとり」で育まれた友情について「楽をした」「ずるをした」と言い切るセンスは素晴らしい。
結局、ここで語られていることは、現代のSNSでのやり取りでも同じことが言えるんだろうと思う。
Xやヤフコメでの、相手の尊厳を削り合うような壮絶なたたき合い。
逆にインスタやフェイスブックでの、歯の浮くようなおべんちゃらの飛ばし合い。
ラインでの、ひたすらつながり合い監視し合う、息のつまるような社会空間。
エコーチェンバー。タコツボ化。分断とカルト化。
やりとりの短文化。条件反射のレス。スピード化。つながらない権利の消失。
どちらにせよ、いずれも「健全」なコミュニケーションとはとても言い難い感じがするけれど、それでも人はつながらずにはいられない動物だ。
ならば、多少やってることは気持ち悪くても、相手を貶めない形で社交的に「褒め合う」インスタでのやり取りのカルチャーなんかは、あれはあれでまだしも悪くないのでは、と思ったりもする。あるいは、匿名でのぶっ叩き合いで日常の憂さが本当に晴らせるのなら、それはそれでいい面だってあるのかも。
とはいえ、一定の自己顕示欲と承認欲求を満たす意義は認めるにしても、それには相応の羞恥心と含羞くらいは伴ってほしいというのが個人的な希望だし、「つながる」ことが目的化して、「いいね」の数やビューのカウンターの奴隷になっちゃったら、なんとなくもうおしまいな気もする。
この『ふれる。』で描かれているのは、まさにそんなコミュニケーションの「作法」や「目的」についての考察であって、観ているとどうしても、「さて自分は他者とどうかかわっているのか」と、ついつい我が身のありかたについても振り返って考えてしまう。
そういうところは、とても良い映画だと思う。
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気になるところもある。
中盤の「男女でシェアハウス編」の作りが、
なんか全体的に雑なんだよなあ。
てか、そもそも、男三人で島から上京してシェアハウスしてる連中が、見知らぬ女の子がストーカーに追われてるからって、いきなり自分たちの部屋に同居させるもんか??
まずは、駅前直結で、セキュリティのしっかりしたオートロックのマンション薦めろよ。とくに諒くんは不動産屋なんだから(笑)。
女の側からしても、いきなり男三人と同居とか、ちょっとあり得ないんじゃないの。
優太と奈南ちゃんのふたりがキスしたからって、いきなりサプライズパーティってのも、唐突な展開すぎて女の子二人以上に、こっちがドン引きですよ。いや、そんなことやらないだろ、ふつう。それに百歩譲って、やるならやるで、優太と奈南が主役のサプライズパーティでしょ?? なんで、片方の優太が「招く側」で席に座って待ってるんだよ(笑)。頭おかしいだろ。
あの展開で、諒と秋がいきなり奈南を「ビッチ」とか「尻軽」とか吐き捨てるみたいに悪口いうのも、普段のキャラクターからして「あり得ない」感じで、怒って飛び出した女の子二人以上に、客のほうが途方にくれるばかりだ。作り手の都合なんだろうけど、とくに秋くんはもともと「場面緘黙」みたいなやつなんだから、あのシチュエイションであんなひどいこと、絶対さらっと吐き捨てたりしないでしょ。
あと、ベランダで諒と秋が手を握り合ったときに、お互いに「樹里が好きだ」という感情を伝えたのに伝わっていないって話も、なんかさすがにご都合主義がすぎるような……。
だって、ふたりともあそこで相手に樹里への恋愛感情を「伝えた」と確信している以上、その気持ちはその後は相手に隠す必要がないわけで、折に触れて絶対に行動に出ちゃうものだと思う。とくに諒はああいうタイプだから、「俺あいつと付き合ってるんだ」と秋に伝えた以上、ふつうに秋の前では「カップル」として行動するはずで、病院での樹里の抱きつき以前にも、いくらでも「二人が付き合っている」ことを示す動きは見せていたに違いなく、そのシグナルをすべて秋が見落としていたというのは、秋をバカに仕立て上げすぎていて、ちょっと可哀想だ。
あれだけ「ストーカーが危険だから」って理由で、わざわざ男三人と無理やりシェアハウスしたっていうのに、襲われた日にあんな暗い夜道を女ひとりで帰させてるのも、ちょっと信じがたい感じがある。ぜんぜん誰も対策とかしないで生活してたってことかな?
終盤の、男三人が友情を再確認する、熱くて爽快でちょっとナイーブな展開も、大前提として「奈南がストーカーに襲われて大けがをして入院している」って重大な状況下にあるのを完全に忘れているかのような振る舞いが続いていて、けっこう猛烈な違和感があった。
優太はもともと奈南が好きだったうえに、自分がストーカーを引き込んだとかいってえらく後悔してたのに、その後その話に一言もふれないよね? なんで??
他にも、行きつけの店で赤の他人をスカウトするときに「いきなり静岡に行かせるような失礼な案件」で急にスカウトしないだろうとか、個人的な感覚でいえば、結構つくりはゆるい話なのかなあと思うけど、気にならない人は気にならないのかな? というか、男女でシェアハウスって設定自体に、初老のオタクの青臭い道徳心と羨望心がアラームを発しているだけなのかもしれないが(笑)。
その他、ふと思ったことなど、箇条書きで。
●高田馬場の街が美麗な背景によって美化されている。ちょっと『PERFECT DAYS』みたいな(笑)。
●単純に、美形男子の三形態(ガテン系、無口系、ショタ系)がわきゃわきゃ友達ごっこしている様を「愛でる」アニメって一面も大きいかもしれないが。そのわりに腐女子が食いついている気配があまりない(興行成績が振るわないとのうわさ)のは、シェアハウスに女二人をぶっこんで、あげく恋愛までさせてしまったからだろうか。
まさに、『Free』みたいなキャラの取り合わせなんだけどなあ(笑)。難しいもんだ。
●最近の若い俳優さんたちは、みんな本当に器用に声優をこなす。秋役のジャニーズの子は若干クセがあったが、諒と優太の役の子は、プロの声優顔負けの精度で素晴らしかった。
●女の子二人のキャラ、どっかで観たことあるタイプだなあと思ったら、『WUG』っぽかったのでした(爆笑)。
●服飾学校の副担任、映画じゃなくてTVの深夜アニメだと、きっと津田健次郎じゃなくて、子安武人にこの役回ってたんだろうな。
●「ふれる」のハリネズミ形態って、「糸で出来ている」というのもあるんだろうけど、コミュニケーションって基本「とげとげして、ふれると痛い」ものだということなんだろう。
●オーラスの光あがってくの、めっちゃ『CLANNAD』とか『Kanon』っぽいし、最後のYOASOBIのアレンジもなんとなく鍵っぽいよね。
●ラストで「ふれる」の糸が下につづいていく演出が、『ぼくのお日さま』とかぶっていてニヤリ。
●なんでタイトルに「。」が入っているのかと思ったら、青春三部作に全部「。」がついてるからなのね。
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ちなみにわたくしごとながら、僕自身は、ちっとも「つながらない」人間である。
キャラクターとしてはよくしゃべるし、誰とでも仲良く出来る社交的なタイプだと自負しているが、プレイべートで誰かとつながっている必然性をまったく感じない。
20年間喧嘩もせずに妻と仲良くやっているが、それ以外、小中高の友人とは全くの没交渉で、大学時代の友人であっても「向こうから連絡してくる」人間とかろうじてつながっている程度。
結婚して10年くらいして、妻に「あなたから人に連絡とってるのをホント見たことないわね」といわれて、自分のほうが驚愕したくらい。あれ、そうだったっけ?みたいな。
人見知りの妻と違って、自分は会社では陽キャの人なつっこいタイプで通してるし、上司からも可愛がられることが多いので、「自分がプライベートで何十年も友達や地域の住民とほぼ交流していない」ことに、我ながら全く気付いていなかったのだ(笑)。
そもそも、スマホを持ったのが5年前くらいで(それ以前はガラホ)、こことヤフコメ以外、何もSNSをやったことがない(Xもインスタもほぼ見ない)。
要するに、自分はどうやら「人と分かち合ったり」「人に悩みを相談したり」「さみしいときに頼りにしたり」「誰かに思ったことを伝えたかったり」といった感情がまるっと欠落しているらしい。
考えてみると、趣味もぜんぶ一人でやるものばかりだ。クラシックの演奏会も、観劇も、鳥見も、古仏巡礼も、美術館めぐりも、天然記念物めぐりも、夏山登山も。
単純に隣に知り合いがいると集中力がそがれるし、何かを観たあと相手に気を使いながら感想戦をするのがひたすら億劫なので、だいたい何かを見て考えるときは常に一人である。
代わりに、誰かを前にしたら全力で応対する。全力で楽しませる。仕事のクライアントにはレンタル奴隷として全身全霊で尽くす。そうやって生きて来た。
だから正直なことをいえば、『ふれる。』のなかで模索されているテーマやモチベーションに個人的にそこまで関心があるかというと、あまりない(笑)。
なんで、社会人になってまでシェアハウスで生活する必要があるのかまるで理解できないし、対人関係でそこまで悩んだことがないので、「孤独」や「つながり」や「絆」というものについて、切実なテーマとしてあまり感じたことがない。
というわけで、他の人ほどにはハマれなかったかもしれないと言い添えておきます。