「嫌なものを隠すフィルターと共に私たちは生きてゆく」ふれる。 GOさんの映画レビュー(感想・評価)
嫌なものを隠すフィルターと共に私たちは生きてゆく
色々考えさせられる映画でした。
とくに「ふれる」の衝突回避フィルター機能をめぐるエピソードは秀逸。
今の「繋がりすぎる社会」の一面を鋭くとらえていると思う。
今、急速に「いろんな人」と繋がることができる社会になっている。
そして、多くの人が「多様な価値観を認めたい」と考えている。
そこではどうしても「相手の良いところ」に偏った理解が進む。
「良くないところ」になんて注目したくないのだ。
そこはスルーしないと「相手を認められない嫌な自分」が顔を出す。
だから「悪いところ」が見えないフィルター機能は歓迎される。
でもそこで作られた関係性はバランスを欠いている。
だからいろいろ問題を引き起こす。
「過剰ないい人像」を押し付けて、それと違う面を相手に認めなくなる。
そんなの無理があるから、どこかで幻滅することになる。
秋、諒、優太も、一度はお互いに幻滅してしまう。
それでも彼らをつなぎ留めるのは、皆で過ごした風景と時間だ。
彼らはお互い良い面だけに注目して、衝突を避けてきた。
従来の人間関係から見るなら、ズルをしてきた、ということになるだろう。
でもそれは、これからの時代は当たり前になるものだ。
相手の嫌なところを見えないようにする技術は嫌でも進むだろう。
だから、私たちに必要なのは「ズルでもいい」という価値観なのだ。
共通の風景と過ごした時間の力で、幻滅を乗り切るしかない。
ズルをして、そのツケで幻滅して、ぶつかって、乗り越える。
その要素は昔からあまり変わっていない。
ではなにがかわったのか。
それは幻滅までの時間が長いことだ。
簡単に幻滅できないようになってゆく。
技術の力で「相手への幻想」は大きく膨らむようになるのだ。
そして「それが幻滅するときの威力」も大きくなってゆく。
だから私たちはその威力に負けないように、風景と時間の力を溜めるしかない。
そのとき、「ふれる」の力がやっぱり必要なのだ。
秋のように「ふれる」とちゃんと分かり合う必要がある。
ちゃんと飼いならさないといけないのだ。
そういうお話のように私は感じました。(おわり)