「「ふれる」の存在意義とは?」ふれる。 えがおさんの映画レビュー(感想・評価)
「ふれる」の存在意義とは?
俳優陣の良さ、及びYOASOBIの素晴らしく集約された歌詞とメロディに期待をし、胸を弾ませ鑑賞しました。
鑑賞した日は内容に納得ができないことばかりでしたが、翌日になり全体の流れを自分なりに考えてみたらある程度は落ち着きました。
自分なりに考えた全体の流れですが。
秋は極度な口下手で幼少期は友達が出来なかったが「ふれる」のおかげで2人の友人が出来た。秋も話せるようになってきたが、大人になりそれぞれの黒い感情も大きくなり、友人同士で衝突するようになってしまった。
「ふれる」はアンチブロック機能も追いつかなくなり時折様子がおかしくなったり一晩家を開けたりするようになる。心を伝える力が作用しないことも多くなり秋達は勘違いしてすれ違い。(島の師匠は、「ふれる」に頼りすぎると大変なことが起きる、という内容をしっかり伝えず寝てしまう)。
秋達は互いに考えが伝わって居なかったことに自分達で気づき、自分達の言葉で伝えることの大切さを自覚。
〈「ふれる」の力は要らない?〉という気持ちが「ふれる」に伝わり、「ふれる」は暴走。口下手だった秋が「ふれる」に心をしっかり伝える。手袋をしないといけないほど痛かった「ふれる」のトゲ(終盤では糸で、人に気持ちを伝える力)は抜け落ち小さくなった。もうこの力は必要ない。共同生活の家は引き払い、「ふれる」は秋に付いていった。
かな、と思っています。
「自分の言葉で伝える大切さ」というキャッチコピーは納得したのですが、考えがぐるぐると回ってしまい、複雑な気持ちになります。
キャッチコピーからも、【力も含めた「ふれる」の存在意義を否定している映画】でもありますよね…。ふれるの力は要らなかった。3人の意思疎通を邪魔していた。
もっと、【「ふれる」そのものの存在意義があるポジティブな方向に持っていって欲しかった】。それかいっそ、「ふれる」を誕生させないで「不思議な力があって...」という程度の話にしてほしかった。
と思いますが、力がなくなったと思われる「ふれる」はイチ生き物として秋に付いていったので、今後は普通の生き物として必要とされ、可愛がられるのでしょう。
この終わり方を見れば一応、存在を否定しているわけではないと言いたいのでしょうが。
そもそも、「ふれる」の存在が薄いように思いました。
「ふれる」と築いた関係性は冒頭に描かれますが、台詞もなく音楽だけでただ流されるだけですし、その後も「ふれる」との愛情を感じさせる触れ合い場面はあまりないため、最後に「ふれる」が泣く程の深い関係性はあまり感じられませんでした。
事が大きくなる決定的発端となった秋と諒の屋上の場面でも、わざわざ「ふれる」の力を使う意味もよくわかりませんでした。優太も居なくて2人だけ、そのまま内緒話ができるのに、しかもお互い言いたい事は一言だけなのに。
日頃から夕飯のメニューを決めるだけの簡単なことに「ふれる」の力を使うことにもそもそも疑問でしたが、決定的発端に至る理由が弱すぎると思いました。
「ふれる」の暴走場面も支離滅裂に感じました。せめてそこで「ふれる」と3人で過ごした思い出の島の風景とかが映し出されれば「ふれる」の悲しみも「ふれる」の涙ももっと理解できて感情移入出来たのに。
思うところはまだいくつもありますが、最後に。魅力的なキャラが1人も居なくてむしろ引く部分が多かったのは致命的で残念でした。