インサイド・ヘッド2のレビュー・感想・評価
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感情の波が押し寄せる
ようやく見れた。
つい最近見て大ハマりした「インサイド・ヘッド」の続編。世界中で特大ヒットし、日本でも高評価の嵐。あまりにハードルが高かったけど、こんだけ大成功を収めているだけのことはあった。
誰しもが体験し、頭の中で想像していたことを完璧に映像化。これをアニメーションに起こすって、ピクサー本当にすごい。考えついても出来ないよ。感情の波が押し寄せるとか、アイデアの嵐が起きるとか、多彩なアニメーション技術と表現力に感嘆してしまう。続編だなんて、わざわざ作らなくても...とか心のどこかで思ってたけど、これは素晴らしい。数多くある“2”の中でもトップクラスでいいんじゃない?「長ぐつをはいた猫と9つの命」に並ぶね。
前作は引越しがきっかけで起きる心の変化を描いていたが、本作はアイスホッケーのキャンプで起きる思春期特有の変化を描いており、スケールが小さくなったというか、前作よりも細かいところにスポットを当てていた印象。
正直なところ、1と2、どっちが好きかと言われたら1の方が好きなんだけど、描写が細かいことで5から9と感情の数が増えたにもかかわらず、ひとつひとつにしっかりと活躍する場面があり、見応えという点においては大幅にパワーアップしている。ただ、ライリーの目に映る光景はほぼ動きがなく、基本はずっとアイスホッケーで絵変わりがしないため、映像的な面では物足りなくも感じる。
しかし、今回のライリーの年頃は、自分自身記憶に深く刻まれている時期であるためか、思春期特有の言葉や行動が胸にグッサグサ刺さりまくり。それと同時に、あなたはこうして成長したんだと、あの頃があるから今があるのだと、一緒に寄り添って前向きにさせてくれるラストだったのもすごく良かった。
子どもはアドベンチャーものとしてワクワクウキウキして、大人はこれまでを思い返して物思いに浸る。ピクサーらしく、非の打ち所のない物語展開。音楽の趣味を周りと合わせるとか、すっげぇわかる...。
今年1番あっという間だった。メッセージやテーマとしてはかなり鋭く、じっくりと深く考えさせられながらも、見たあとは幸福感で心がいっぱいになる。前作はカナシミを演じた大竹しのぶに、今回はシンパイを演じた多部未華子に驚かされた。言われないと分からんて。カナシミもシンパイも、負の感情だけど生きていく上でとても大切なこと。でも、ヨロコビを忘れないで。続編も楽しみです☺️
あと一言だけ。
ピクサー映画で最後まで見らずに席を立っちゃう人、なに?ピクサーランプのライトがパチッと消えるところまでが最高じゃん。劇場ならではの良さ。みんな、最後まで見ようね。
ピクサーはやっぱり
トイストーリーしか勝たん。娘に付き合って鑑賞。二年生の娘にはよく分からなかったよう。設定が良くできてる。よく考えられてる。同じ感情が他の人の頭の中にもあって、同じ感情なんだけど人格に合わせてまた違う。思春期のメインの感情は 心配 なんだろうか。しかし多部未華子のうまさに脱帽しました。
自分をつくるのは自分
1もすごく面白かったが、2もそれと同等かそれ以上に面白かった。
脳の機能を擬人化したものがここまでドラマチックに感動的にできるなんて、発明だと思う。
ありふれた一般人だからこそ共感性が高いという、何という逆転のアイデアか。
なぜ「思春期」になるとめんどくさい性格になるのか、無邪気なままではいられなくて、生き辛くなっていくのか、理由がよく分かる。
「シンパイ」は「未来に対する備えをさせる」動機になる感情で、大人になるために必要だけど、過剰になると暴走してライリーの行動をのっとってしまう。「シンパイ」の感情だけが取捨選択した記憶で形成された「セルフイメージ」は、「私はダメな人」というもので、特に日本人にはこういう人が多いと思う。
幼少期の発達過程においては、「私は良い人」というセルフイメージをもつことが何より大事で、これがなければ自分自身に対する尊厳を持つことができない。それは自分を大事にする源の感情でもあるし、自分自身への誇りにもなる。また、それがあるからこそ、他人ももっているであろう尊厳を大事にできる。
「ヨロコビ」たちは、この健全なセルフイメージを成長させるために存在する、と言っても良い。そのため、無数の体験の中から、そのセルフイメージの成長に必要な記憶を取捨選択している。
しかし成長して社会生活を送る中で、さまざまな人生の困難にぶつかり、無力感を味わい、客観的・相対的に自分自分を見つめられるようになってくると、単純に「私は良い人」と信じられなくなってくる。そしてセルフイメージを再構築せざるを得なくなってくる。この、一度自分を壊して再構築するという不安定な時期が思春期にあたる。
幼少期においては、「自分」というものは、「感情」たちによって受動的に作られていくものだったが、思春期以降においては、「自分」はどんな人間なのかは、「自分」がつくっていく。それは、単純に「良い人」「悪い人」では割り切れない複雑な自分像。でもそういう「いろいろな自分」はぜんぶ本当の自分で、その全部をまるごと自分自身だと肯定できること、それが本当の意味での人間の成長なのだと深く実感できるストーリーだった。
この映画はちゃんと脳科学や心理学に基づいて作られていると思うが、そういうことを全く知らなくても楽しく観れるのが良い。とくに印象に残っているシーンは、「シンパイ」が未来に起こる最悪な想像をたくさん書かせているところ。それが無数に頭に浮かんでしまい、ライリーは眠れなくなってしまう。
不安で仕方なくて眠れない夜には、自分の頭の中の「シンパイ」が暴走してるんだな、なんて思うと、少しは楽になるかも。
この世界観はほんとうによくできていて、いくらでも続編が作れそう。ライリーが恋愛とかしても面白そうだし、ライリーとはべつの人のインサイドヘッドでも面白そう。
「はたらく細胞」の漫画やアニメもヒットしてるし、これからのSFは擬人化系がくるかも…。
喜びも悲しみも幾歳月
アイスホッケーのキャンプという現実世界では些細なエピソードを、感情の葛藤をファンタジー化して90分にふくらませて描く。
個々の感情を擬人化して独立して描くので、ライリーが自主的に判断して行動しているのではなく、別人格によって他動的に操られているようにしか見えない。さながら「イブの九つの顔」とでも言うように。何ならヨロコビも心配しているし、カナシミも喜んだりしているので、キャラクターの位置づけが不明確だ。さらに脳内世界の設定や現実世界への反映のシステムがすんなりとは呑み込めないので、いろんなことが次々に起こるが、途中で置いてけぼりにされた感が強かった。
アイスホッケーの試合の場面も中途半端で、「スラップ・ショット」の方が、よっぽどわかりやすかったな。
よくできたストーリー。子育てをした親なら、さらに深く楽しめる。
純粋無垢な子供だった主人公ライリーが成長する体験を、わかりやすく解説しながら、見事なエンタテーメントに仕立てていて、さすが。クライマックスのヨロコビが操作パネルに“呼ばれて”行くシーンは、本当に良かったなあと感じた。ラストのダリィが「ここは俺が」と操作して締めるオチは、思春期あるあるで、笑えた。
失敗などの、思い出したくないことをなかったことにして、「私はいい子」というライリーのこころができていくという設定は、『小さい子供の時はそれで良いけど・・』という話の展開になり、なるほどと思った。なかったことにせず、それを含めて本当のライリーのこころを作るというのは、何だか人生訓のようだけど、その通りと思う。
頭の中の感情たちの中で、ヨロコビがリーダー格で、率先して行動を起こす。確かにいろいろなモチベーションの中心にはヨロコビ(Joy)を求める気持ちがあるので、「そうだよなあ」と思った。ライリーが寝ようとベッドに入った時に、ヨロコビがネガティブな考えが浮かんでくるのを止めさせて、ポジティブな夢をライリーに送る場面は、「そうだ。ヨロコビがんばれ!」と思った。
カナシミとハズカシも、この映画ではけっこう活躍していて、感情もバランスが大事だねと感心した。
新しい感情のシンパイは、子供にはない「こざかしい大人の計算」という印象。英語ではAnxietyと表現されていて「心配」という意味もあるけど、「気遣い」とか、「~したいという気持ち」という意味もあり、日本語の心配よりもう少し広い範囲の感情らしい。
ライリーが友達に冷たくしたのに、その友達やさしさに救われる場面は胸が熱くなった。そういう友達をつくったライリー自身の積み重ねがあったのだろうと思う。
ライリーが小さいころに好きだったモノがピンチで活躍する。この場面も誰もが思い当たるモノがあるので、心に響く。
映画館には、小学生の子供と親というグループも多かった。でも、小学生の子供には新しい感情たちを理解するのは難しいので、面白くなかったということになりそう。
そうなったとしても、親としては「今の無垢な子供との時間を大切にしよう」と考えると良いのではないか。そして、その子が大きくなった時にもう一度見て、今回の鑑賞をナツカシむのが良いと思う。
アツイノキチィ
9年前の1作目では、感情を擬人化して心理学や脳科学の知見をエンタメのアニメにするという圧倒的な構想に震えた。そこから主人公が成長して新たに芽生えた感情の新キャラが…という今回の展開は、ま、そうなるよねという感ありで前作のような驚きはなく…。そもそも日々さまざまな感情に揺さぶられる思春期のライリーに対して、おっさんのこっちは歳を重ねるごとに感受性を失ってってるわけで、鑑賞対象として無理があるのかも(爆)。
とはいえ、13歳の子どもの気持ちを親目線から想像するとつい落涙してしまったし、なによりピクサーのアニメ技術のすさまじさに相変わらず感動。アニメ内アニメやゲームのキャラの異なる描画の混在ぶりは今となっては既視感があれど、キュキュッと動く瞳や微っ妙な表情の表現力がすごすぎる。
米本国では大ヒットということなので、この先さらに続編も創られそうだが、パート10あたりでばあさんになったライリーの感情を表現した作品が観たいもの(先すぎ)。
ヨロコビもカナシミも、すべての感情と経験が自分を造る
基本的にはドタバタコメディーで、大人も子供も楽しめますが、子供には少々この映画の意図するテーマや深い意味などを理解することは難しいのではないでしょうか。
しかし、深い意味など特に考える必要もなく、十分楽しいし面白いし、かなり低年齢でも飽きないような工夫もあり、全年齢で楽しめる映画です。それでいて、深い意味や理由など裏を探ることが好きな私のようなひねくれたおぢさんも、勝手に解釈をしたりして楽しむことができました。
・「私はいい子」
赤ちゃんは、自分の感情のままに振る舞います。自分の快・不快をそのまま表すことによって、自分が親の愛情表現という報酬を得ることが可能だからです。しかし、徐々に成長するに従って反応的な感情のみでは、不十分だということを学習します。
獲得した知識・経験によって、その時々「どう振る舞うか・振る舞わなければならないか」によって報酬が変わることに徐々に気がつくのです。「私はいい子」でいる。そのように振る舞うことで、親や社会から肯定され受け入れられることが、自分にとって最も報酬が得られることを学びます。
・「他者の評価」頼みの危険
主人公の頭の中の司令所の中心に、自我の象徴である結晶があります。
司令所の面々は15年に渡り結晶を大事に育ててきました。そして特にヨロコビは、その結晶を大事にしていますし、執着しています。
主人公にとっての自我は「私はいい子」ということ。しかし、「いい子」とは何が「いい」のでしょうか。それは、周りの人達にとって「都合のいい」振る舞いです。それは、あくまで「他者から都合がいい」ということです。
ですから、自分の自己評価は他者の意向に依存していることになります。
「自分はこうしたい」ではなく、「他者からどう見られるか」が重要になってしまいます。
ヨロコビは、主人公の不名誉な記憶を記憶の隅に葬り去ってきました。「自分はいい子」という自我を保持し続けるためには、不名誉な記憶を破棄することでしか自分の高い自己評価を保つことはできなくなるからです。
確かに、必ずしも他者がどうして欲しいのかという意向を汲んでその期待に応えることは、必ずしも悪いことではありません。他者や社会の期待に応えるということは、道徳や社会の規範を学び身につけることに他ならないからです。
しかし、他者や親の意向をすべてその通りに実行することは不可能です。成長するに従って、自分の意思と他者の意向が合致しないことも増えてきます。他者はいつも自分を肯定してくれるわけではなくなっていきます。
・孤独の肖像
シンパイは、一体何をしようとしていたのでしょうか?
シンパイは、他者の評価に基づく「私はいい子」という自我を変更し、挫折や苦しみに主人公が耐えられる自我を造ろうとしました。
もはや他人の自分に対する高評価だけを期待することができなくなったのですから、他人から高い評価を受けることを目標にするのではなく、「自分自身の評価を自分で下げること」によって危機を乗り越えようとしました。最初から他人の高評価を期待しない様にしたのです。
自己評価の高い自我よりも自己評価の低い自我の方が、危機に対応できるように思われるかもしれません。しかし、実はそこから得るものは何もありません。他人が評価してくれず、自分で自分を高く評価することもできないとしたら、そこには絶望しかありません。
・シンパイの杞憂
司令室に復帰したヨロコビは、以前の自我の結晶とシンパイの自我の結晶を交換しましたが、うまく行きません。もはや自分にとって都合の良い記憶だけで形作られた以前の自我では、新しい事態には対処できなくなっていたのです。
実は、嫌な記憶も良い記憶も「ありのままの自分」であって、そこに「良い・悪い」「必要・不必要」はないのです。「受け入れるか・受け入れないか」ただそれがあるのみです。
葛藤の後、主人公はありのままの自分を受け入れることができました。
「自分はいいところもダメなとこもあるけど、それが今の自分」。
主人公は、新しい自分(自我)を織りなすことができました。
人生は、自分にとって都合の良いことばかりおきるわけではありません。「自分はいい人」という他人からの評価が絶対でもないし、「自分はダメ」と自分を卑下して萎縮してもいけない。
「自分はいい人でもあって、ダメなところもある」それを上手く一つにバランスよくまとめていく作業が、長い人生を生き抜く上での大事な過程であるということではないでしょうか。
・生きるヨロコビ
主人公の世界では、特に大変な事件が起こるわけでもなく主にホッケーの3日の合宿がメインです。ところが主人公の頭の中では、感情の大嵐、大冒険が巻き起こっています。
主に活躍するのは、ヨロコビです。
人生の中でも牽引役をする感情は「喜び」なのではないでしょうか。
それは、ただ単に「楽しい」というひと時の気分ではなくて、心の深くから湧き起こるような深い感情です。それはどこから来るのかというと「他者からの受け身の都合の良い評判」を超えた先にある「他人を尊重しあう大人の関係性」から来るのではないでしょうか。
自分の心の中に閉じこもっている時、自分だけが世界に一人ぼっちのように思えて、底知れぬ孤独を感じるものです。苦しみや悲しみに打ちのめされ、さらなる闇へ逃げたくなります。
しかし、私たちは社会や他者との関係性の中に生きています。しかし、そんな「私」を陰日向に支えてくれる友達や親や名もない人がいる。その関係性から得られる喜びこそが、真に自分を自分たらしめて自己肯定感をもたらしてくれるのです。
もし今、他者との関係性や低い自己肯定感から、悩み・傷つき・苦しんでいるとしても、私たちの頭の中ではヨロコビやカナシミが日々自分を応援し奮闘していると想像すると、自分は一人ではないと思えて生きていく勇気がもらえるような気がします。
本当に感動しました
本当に面白い映画でした。
私はインサイドヘッドをとても楽しみにしていて、もう一度インサイドヘッド1を見てから2を見ました。
そしたら1よりめちゃくちゃ共感できる場所が増えていて、面白さ、感動を映画館で生で味わうことが出来て、非常に満足しています。
親と見に行って、2人で涙ポロポロ流していました笑
感受性の豊かな方や、優しい方にこそ。是非見てもらいたい映画です。
シンパイがずいぶんアクティブ?
基本的感情(ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ビビリ、ムカムカ)に、
思春期が発動されて、シンパイ、ハズカシ、イイナー、ダリィが増員。
この4人、両親にも増員されているはずだが・・・あんまり出てこない。
最初からいないとおかしいだろ(特にシンパイとか)と思わなくもない。
あ、ナツカシが抜けていた。大人なら、ナツカシが、はびこっていそう・・・
(特に男は・・・ナツカシ系の雑誌はほとんど男向け?)
(他の新キャラは、それなりに分かるが)シンパイのキャラデザや行動がどうにも「心配」を想起させず、しっくりこなかった。
カナシミは相変わらず、ヨロコビのパシリのような扱いだが、カナシミの感情、あまり前面に出てくるものでもないので、結局こうなるか?
思春期と言えば、異性関係もと思うが、ほぼ省かれていて、それは次のネタなのかも?
結局、最後はどうなったのか、よく分からなかった・・・
感情の新キャラは、なるほどとは、思えたが、試合における作戦行動など、本来感情の入る余地はなく(競争心はあるだろうが)、別建てで知性をつかさどるキャラなり(それこそ、スタートレックのスポックやデータのような感情の乏しいキャラ)、統合的に指令する(性格を形成するような)概念が必要だった気もする。感情のキャラたちが制御しているのに違和感があった(本作ではヨロコビまたはシンパイがその任に当たっていたようだが)。そもそも、感情のキャラたちも成長しないとヘン?
あるいは、シンパイが知性そのものなのか?
とりあえずエンドロールの最期のほうまで見るのをお勧めする。
AI登場で
人は仕事が奪われる。や、人間が機械にとって変わられる
など不要なシンパイを議論している。
しかしそんな議論に勤しんでいるうちに最も大切な
人間らしさを見失ってはないか?
と本作を観て再び考えた。
宗教や信仰は人間特有の最大の戯れだ。
がこれらが無くならないのは
人間があらぬシンパイや嫉妬に悩まされるイキモノだから
なのだが、
それらはすべて感じ考える🧐と言う行為が引き起こして
いる感情である。
故、AI登場以降、人間はこういった感情や思いを手放す術
を手に入れたのであるが、
気がつかないうちにそれらを全て
忘れてはしまわなだろうか?
むしろ、それらの感情が引き起こしてきた失敗を
どこか遠くにやってしまわないだろうか?
もしもこの感情の発露を全てAIに委ねてしまって
AIが暴走した時、止める術を持ち合わせているのだろうか?
それがシンパイだ🫤
と言わんばかりのストーリー展開にほくそ笑みもした◎
人間はさまざまな感情を持ちときに暴走して
ぶつかりながら進化してきたイキモノである!
それが再提示された作品
グウウウウウウウウウウッドジョブ(^^)
魅力的キャラクターいっぱい!の 壮大なイマジネーションの世界で
ライリーの感情がめまぐるしく変わる。
まわりに求められる自分は私が求める私?
いや、私はそんなんじゃない。
じゃ自分がなりたい自分は?
いや、そもそも私ってなに?
頭の中がぐるぐるぐるぐるしちゃって、心がもつれていくあの感じ。
なのにわざとあっさりしたふりをしてみたりはたまた全然できなかったり。
本人目線や親目線で乱されながら見るむせかえりそうな思春期の日々は、ライリーには怒られそうだけど大人たちにはちょっと懐かしく微笑ましく映る。
そして、過ぎてみればそのやっかいな時間が結構大切なこと。
感情の子達はみーんな今も(歳をとっても)自分のなかに居続けていること。
人によってちがうその子達の登場のタイミングやバランスがあることがわかればゆっくりモヤが晴れるようになる時がくること。
おそらく考えることをやめない限り増えていくあの子達は〝自分と人生を彩る実はたのしい絵の具のような存在〟であること。
でも、その真っ最中にいる本人はそれどころじゃない💢ってことも、もちろん痛いほどわかる。
このライリーって、ビュンと戻って「今のあなたらしくで大丈夫」っていって抱きしめてあげたいあの時の自分なのかも知れないね。
そう思ったらライリーも彼女の感情キャラのみんなもそれぞれ一生懸命で愛おしくて仕方なくなった。
忘れたいくらいの過去もある自分の記憶の水面に光の筋がきらりとさして肩の力が抜けたような感じもした。
ライリーにまた会う日にはさらに今までにない子達があらわれて右往左往しているかも知れないけど、何があっても、どんな自分もよーくみつめて。
そして、自分だけは自分を見放さないでいてあげてと伝えたいな。
こんな世界観を圧倒的な技とストーリーでみせてくれるクリエーターさんがいる時代に生まれたことが嬉しい。
たくさんの感嘆に敬意を込めたい楽しい作品だ。
修正済み
観る人の年齢を問いません
どの世代が観ても楽しめる映画です。
一作目観ずに行きましたが、問題ありません。
素晴らしい作品でした。
『記憶の外れ』に保管されていた、ネガティブな思考や失敗の山も、成長のためには思い出すことが大人へ成長する為には必須。失敗も嫌な事も時には思い出して、大人も子供も関係なく生きていくためにはとても大切な想い出なのだと改めて考えさせてもらえる作品でしたよ。
『よろこび』と『かなしみ』は表裏一体。あの山はゴミ山ではなく経験という宝の山だったのですね。
思春期ライリーと不変のヨロコビ
思春期のライリーの頭の中。
思春期ならではのホルモンが突然溢れ出し制御不能。
元々いたヨロコビ、カナシミ、イカリ、ビビリ、ムカムカに加わる、
シンパイ、ハズカシ、イイナー、ダリィと、
時々早まって出てくるナツカシおばあちゃん。
両親はその時期を経験済みの年のため、頭の中では全ての感情が折り合いよく動いている。
ライリーはこれまでヨロコビ、カナシミ、イカリ、ビビリのコントロールによって、文武両道で優しい優等生に成長していたが、そんな良い子にも思春期が訪れる。しかも高校入学がかかったホッケー合宿直前に。
仲間であり友達の2人は違う高校へ行く事を決めていて、ライリーは憧れの先輩がいる高校にホッケー入学するためには、欠かせない合宿。
思春期に入ったからこそ、他人から見た自分の視線が強烈に気になり、先輩達に気に入られなければ、結果を出さなくてはと躍起になりオーバーヒートするライリーの頭の中は、シンパイが占拠中。
元々の感情のバランスが取れた「良い子」のライリーらしさは、友達をさておき自分だけ先輩達に取り入り、コーチの評価ノートを盗み見るような、「私はダメな子」モードに流されそうになるが、蚊帳の外にされたヨロコビが記憶の中を走り回り、これまでとは異なる認知に書き換わってしまったライリーの想い出記憶の中からライリーらしさを取り戻す。
でも、ヨロコビは気が付く。
新しいライリーらしさは、元々の「良い子」や乗り越えた「ダメな子」、思春期の周りとの関わりや経験を通して、ライリー自身が作り上げるもので、それこそが個性でありこれからのライリーの人格になっていくのだと。
合宿最終日、高校からお声がかかるかプレッシャーの重圧の中で、友達2人とは別チームでプレーするライリーは序盤、自分ばかりシュートを決め、仲間にパスを回さず、友達にパックが当たって怪我をさせても響かないほど空回りしていた。
が、反則を食らい、ボックスで過呼吸になりながら、ヨロコビがシンパイを止めてくれてはたと気がつく。
友達を大切にするライリー、人の気持ちがわかるライリーを思い出して、謝りに行こうとすると、友達もライリーを心配してボックスに来てくれた。
謝罪して、試合後半からはギリギリ、自分らしさを取り戻したライリー。
実際の思春期は数年続くもので、合宿の数日間でおさまるものではないのだが、思春期までに培った人格やライリーの人間関係が、思春期のライリーを信じて支えてくれる。
それには、これまでのヨロコビ達感情の活躍がとても大きいと感じた。
ただ、私はヨロコビの仕切り屋さんで、周りの意見を聞かず、カナシミを顎で使うところが前作同様苦手である。同級生だったらまず仲良くならないだろう。
そして、ライリーは、ひとりっこで両親の期待を背負い、周りが自分に厳しすぎるというように、良い子だがかなり心配だ。
これは社会人だったら、責任感が強く鬱になりやすく突然出勤不可になったり自死してしまったりに陥りやすいタイプに見えた。
そうならないためには、「自分を信じて自然体で自信をもつこと」「周りに頼ること」が必要であり、ライリーは思春期のうちにそこに気が付いて習得することができた。
ひと安心。
自分のことを自分でする、
みんなでひとつのことをする、
みんなのためにできることをする、と来て、
思春期には、
自分がしたいことを見つける、
そのために自分を磨く、
周りと違う自分や不完全な自分を認める、
補って貰えるよう周りを信頼して頼る、
自分らしく周りに貢献する
と人間的成長の月齢であり機会も豊富。
兄弟もいないし、何ひとつ友達に相談しないライリーが心配だったが、これからは変わっていくのだろう。
ライリーが成長して大人になっていく過程の脳内をとてもわかりやすく凝縮して描いていると思うが、ヨロコビとシンパイ以外のキャラ達の出番が少なく、ライリーの脳内はほぼヨロコビとシンパイで回っているんだなとよくわかる。2人ともライリーのために頑張っているとはいえ、押し付けがましいんだなー。。
日本人の脳内だと、イッショとかもいそう。
謎キャラ、ポーチ。
映像がきれいで分かりやすかった
中学生の娘と鑑賞
まずよかったのは心や頭の動きとてもきれいな映像で分かりやすく描かれていた点
思い出の泉から光の線(思考だろうか)が上っている様は特に綺麗で、納得できる表現だった
また、吹替版を鑑賞したのだが、新キャラ含め声がぴったり
特に花澤香菜さんのイイナーが可愛かった
ところどころクスリと笑えるシーンもあり、思春期の女の子の思考が分かりやすく描かれていたと思う
(ライリーの行動やそのまわりの言動には少々イライラしたが)
インサイド・ヘッドを鑑賞した時は、私もまだ幼かった娘も号泣だったが、今回はそんなに泣くことはなかった
おとなにならないと分からない「こどもの話」。
インサイドヘッドの続編は、主人公のライリーが思春期を迎え心の葛藤に悩みながらも成長していく物語だ。相変わらずライリーの素直な性格には共感しかない。前向きで行動力のあるキャラクターが好きなディズニーらしい少女と言えよう。今回も頭の中の個性豊かな感情たちの大活躍に引き込まれた。喜びや悲しみなどの感情をキャラクター化するアイデアは今までにいくらでもあっただろうが、これほどリアルに描いたものはないだろう。色々な感情が頭の中で働いているのを想像するのは難しくないが、感情だけでなく、様々な住民(?)が働いて人格みたいなものを作っていいる仕組みが面白い。それをディズニーらしく美しく壮大なファンタジーの世界にしてしまった。人の心ををアニメ化というか、こんなにも面白く完成度の高い世界を作れるのは、「トイストーリー」や「モンスターズインク」のピクサーしかないと感心する。
本作は、ライリーの成長過程で起こった心の葛藤をドラマティックにコミカルに描いてくれた。現実世界で起こっているのは、ライリーがちょっと反抗的になったり、友達との仲が少し悪くなったりという単純な話だが、頭の中では大変な騒動が起こっている。現実のできごとと頭の中のできごとを同時に見られるのはとても楽しい体験である。
この映画を見て、思春期の少年少女の心理が分かるとか、人の心の仕組みが理解できるという事はないと思う。とにかく見て楽しい作品である。多くの人にとって満足度の高いエンターテインメントであると思う。ただし、こどもにはあまりおすすめできない。感情そのものをエンターテインメントにするなんて、おとなにならないと理解できない話だろう。
全300件中、101~120件目を表示