「コットの立ち位置が胸に痛い」コット、はじまりの夏 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
コットの立ち位置が胸に痛い
<映画のことば>
かわいそうに。
あなたが、うちの子なら、よそに預けたりはしないのに。
どうしてコットが、伯母であるアイリン(コットのお母さんのお姉さん?)と、その連れ合いのショーンの家庭に預けられることになったのかは、本作の明確には描くところではなかったと思いますけれども。
母親・メアリー(の第三子?)の出産が近いこともあり、母親の育児の負担を減らすためだったのかも知れません。
(そう以前ではない時期に、コットよりも少し年長だったと思われる一人っ子の(?)長男を不慮の事故で亡くしていたショーン夫妻に対する「慰(なぐさ)め」の意味もあったのでしょうか。)
もっとも、父親がコットをショーン夫妻に預けるときに、子供は物凄く食べるので、その分は働かせても構わないといった趣旨の発言をしますけれども。
冗談めかしてはいるものの、実は少なからず本心で、コットの両親にしてみれば、いわゆる口減らしの意図もあったのではないかと、評論子は疑ってしまいます。
上掲の映画のことばも、そのことを言外に感じ取ったアイリンが思わす発した言葉だったと考えるのは、果たして評論子の穿(うが)ち過ぎというものでしょうか。
実際、学校へ持っていくお弁当が用意されていなかったり、コットを伯父夫婦に預けに来た父親は、コットの着替えなど、身近な荷物を車から荷卸ししないまま、家へと帰ってしまったり…と、あまりコットの身辺を心配したり、気遣ったりする印象は、評論子は受けることができませんでした。
そう考えると、コットの立ち位置は、とても胸に痛いものです。
そして、最初の頃のシーンで、コットの髪がボサボサ気味だったことも、評論子には気になりました。
(作品の中程のシーンで、アイリンが、丁寧にコットの髪を梳(くしけず)ってあげていたのとは、まさに好対称。)
母親からも、充分な愛情は注がれてはいなかったのでしょうか。
ショーン家ではコットをお風呂に入れて、丁寧に体を洗ってあげるシーンが挿入されているのは、コットの体の汚れが、アイリンには気にかかったからなのでしょうか。
それやこれやで、評論子には、コットは(草刈人を雇う余裕がないなど、家庭の経済面ではあまり余裕がなさそうなこともあって)自分の家では、両親にはあまり愛情を注がれてはいなかったように見受けられました。
コットが「やっと見つけた居場所」(予告編のフレーズ)というのは、そのことの謂(いい)なのでしょう。
そう考えることができるとすると、コットにとって、この夏が「はじまりの夏」(本作の邦題)ということも、素直に合点がいきそうです。
(面倒な作業=危険な作業?があるから、今週はコットを農場には案内しないという、ふだんはぶっきらぼうではあっても、コットを見守るショーンの気遣いに、ほんのりとした温かさを感じたのも、評論子だけではなかったことと思います。)
そんな感慨もあって、観終わって、本当に切ない一本でした。評論子には。
佳作というにも、充分だったとも思います。
(追記)
「あらまあ、大変だわ。
この古いマットレスは、いつも濡れているの。私ったら、うっかりしていたわ。パジャマを脱いで。」
初めて使った馴れないベッドでのコットのおねしょも、さりげなくフォローしてくれるアイリンの気遣いは、そのまま、ショーン家の雰囲気を象徴しているようで、温かかったとも思いました。
<映画のことば>
何も言わなくていい。
沈黙は悪くない。
たくさんの人が沈黙の機会を逃し、多くのものを失ってきた。
実の両親の下ではすっかり心を閉ざしてしまっていて、それ故に寡黙でもあったコットに、これ以上の慰めの言葉は、ちょっと他には思いつかないのではないかと思います。