「自分の生きる(活きる)環境を探す大切さ」WILL 神社エールさんの映画レビュー(感想・評価)
自分の生きる(活きる)環境を探す大切さ
エリザベス宮地監督の作品は初見。東出昌大さんの出演作品は『桐島、部活やめるってよ』、『ごちそうさん』、『クリーピー 偽りの隣人』、『Winny』を観賞済。
初めて東出さんを見たのはNHK朝ドラの『ごちそうさん』で、当時から新人で素朴な存在感ながらも”役を演じる”のではなく”その人間を乗り移らせている”かのような演技力の巧みさに目を惹かれた記憶があり、それ以降東出さんの主演作を観てみたいと思いつつも機会を逃し、例のスキャンダルが報道されてからは更にその機会を逃していた。
だけど、最近になって東出さんの狩猟生活に密着したyoutubeチャンネルを見たり、作品のあらすじや東出さん本人のインタビューを読んでいく中で、自分の中で東出さんに対して無意識下のバイアスが掛かっていたことに気づき、その無意識下のバイアスで東出さんを判断しない為にこの作品を観てみた。
観終わって思ったのは東出さんへの密着を通して”都会の人間が如何に加工品ばかり摂取しているか、自分の生きる(活きる)環境を探す大切さ”に気づかされたことだった。
東出さん自身が猟銃を携え、動物を探し仕留めて解体していくまでのシーンを規制やモザイク無しで映していたり、作中で東出さんが「動物を解体することなく加工肉を食べていることで、それぞれの生き物を殺し命を戴いてるという事実から目を逸らしてる」(意訳)っていう趣旨の言葉を考えると、普段見ているテレビはもちろん、”テレビじゃ出来ないことが出来る!”みたいな言われ方をしてるyoutubeでも依然モザイク処理はされ、言えない言葉は規制音が入るなど規制が強まっていき、食品に対して”ひとつひとつ命を頂いている”とバイアスなく捉えているつもりの自分も食品以外に目に入るものも加工品ばかりを摂取し、物が壊れたら自分で直すんじゃなくすぐ買い直す・今の家電や機器で満足しているはずなのに次の世代のものが出たら乗り換えるなど、そのものの本質を見ていないことに気づいた。
そんな加工品を嫌い、口に入るものだけじゃなく調理器具や衣服が壊れたり破れた時に自分で補修する東出さんは、人を見聞きして知るすることも人を介して加工された情報を入れたくないからこそ拠点を地方の山中にして撮影の時だけ都会へ赴く生活を選んだように、そして(結婚しているのに不倫してしまったのは悪いっていう大前提はありつつ)そんな加工品だらけの都会にいたからこそ病んでしまったようにも感じられた。
そんな生活を選んだ東出さんだけを密着していくのかと思いきや、狩猟生活をしている東出さんから東出さんがいつも接してる狩猟仲間のハンター、東出さんが狩猟生活をしていると聞いてスキャンダルがあるんじゃないかとやってきた(俗に言うパパラッチに近い)カメラマン、そんなスキャンダルを載せる週刊誌の編集者と、作中スポットライトの当たっていく人達が現代社会で”悪役”と見られる人々だったり炎上するような仕事をする人々で、そんな職業で働いている人一人一人のその職業をしていくまでの話・その職業をする意義を(その職業に直接接する機会がない観客が)聞くことで、その職業に抱いていたバイアスが東出さんへ抱いていた無意識下のバイアスにも通じていたように感じるし、東出さんやそんな人々に対してのメッセージに思えるMOROHAさんの剥き出しな曲も素晴らしかった。
スキャンダルで人を判断すること、観ないことでその人の“再起の機会”を奪ってしまうこと。
それが善意か悪意かに関係なく誰かを簡単に切り捨てる世の中の怖さを、この映画を通して改めて感じた。
言葉や映像を加工せず、全て映し出す構成になっている理由は最後に明かされるものの、監督がその構成にしたのは、東出さん自身が接した”信用する人”には誤解されることを恐れないように、”この作品を終わりまで観てくれる観客”一人一人を信用してくれてるからと思える、現代へ生きている人々に対する教養であり教育であり哲学でもあるし、東出昌大さんが山奥で狩猟生活(生きる場所)をしながら“俳優”って職業(活きる場所)を続けていくことの理由や意志(遺志)がおのずと分かったり感じることが出来るような作品だったと思うし、だからこそ彼の出演作を避けていた人にこそ観てほしい作品だと感じた。
