型破りな教室のレビュー・感想・評価
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クリスマスには重かったかな
10数年前のメキシコの話ではあるが、100年以上前の日本もこんなもんか?学校行くより勉強より仕事、家事手伝い、親兄弟の面倒。学べる時は学びたくなく、学べない時は学びたい。
型破りというか、詰め込み型ではなく自分で考えて学ぶ指導方。自分で考えるって後になってからも忘れないし、壁にぶつかった時も柔軟な気がします。
しかし、ニコに課した問題は子供には、あの環境下では正しい方を選択するのは難しいだろう。
フラグ立っていたけど、何とかなるかなって思ったけど、現実はこうなるよなぁ。
「誰が最初に間違える?」
事実は強い!感動してしまった
メキシコのリアルと世界共通の子供たちの無限の可能性
そう、子供たちの無限の可能性(ポテンシャル)は世界共通だ
そして、その可能性を大人の都合で型にはめて、数字で評価して
個々の個性や可能性に蓋をしようとすることも世界共通だ
数字で判断するのは社会や先生のエゴであり職務怠慢だが
個人個人と正面から向き合うことは先生にとってはとてつもない
エネルギーであることは間違いない
武田鉄矢さんの金八先生に当時中学生だった私は感動したものだ
それでも、「こんな先生はいない」とも思っていた 現実味は感じなかった
確かに日本では幻だったかもしれないが、映画の中の生徒も先生もひたすら
人間らしいリアルさにあふれている
それが、メキシコという国のリアルさも相まって、静かに闘うメキシコの先生の
子供たちへの愛情と、個々の生徒の抱える「現実」から打ちのめされるリアルに
見ている我々は感情を揺さぶられる
ただ、全員の生徒を救う事は出来ないこともリアルだが映画の中では
救われない生徒にも、「救い」が描かれていて涙が溢れながらも心が救われた
「誰がボスかを判らせてただ従わせればいい」
「あなたにその本はまだ必要ないでしょ」
「テスト対策の勉強だけ効率よくすればいいんだ」
私達の周りにあふれる、子供たちを「殺す」言葉にあふれる中
「君たちには無限のポテンシャルがある」
「宇宙飛行士にだって、哲学者にだって、彼女の夢を支える無二の男にだってなれる」
死んだ目の子供たちの目に光が輝く言葉がそれらをはじき返す力になっていく
彼女の名前が刻まれた小舟を、校長先生と一緒に海原に押し出すシーンが好きだ
生まれたばかりの末っ子の面倒を見るために試験を受けに行けない子供の目には
ちゃんと光が残っていることを描いているシーンが好きだ
ずっと、学校の外から、不思議そうに校庭の生徒の様子を見つめている子供が
最後に門の前に立って中をのぞいているシーンが好きだ
そして私が一番好きなのは、校長先生だったりする
いい映画だった
ゴミ山さえもが美しい。
「教育とは、生徒が自発的に成長することを促す営みである。」という信念で、型破りな授業をして、最低と見放された子供達の潜在力を開花させた実話に基づく物語。結果ではなく、知ることの喜びに目覚めた子供達の人としての素晴らしい成長の過程が何より美しく、そうなると、貧困の象徴であるゴミ山さえもが、空の青さとの対比で白く輝いて見えてしまうところが、なんとも不思議でした。(以下ネタバレありです。)
例えば、ゴミ山での金属収集で生計をたてている病弱な父の身体を労りながら、仕事を手伝うパロマは、授業を受けて、以前は思いもしなかった宇宙工学者への夢をもちはじめます。また、兄の手伝いをしながら、いずれはギャング団の一員になる道を辿っているニコは、自分が神秘的な法則に支配されている宇宙の一部であることを実感し、ギャング団に入ることをためらうようになります。さらに、自分で考えることの楽しさを知った子沢山の母子家庭の長女ルペは、大学の図書館に通って哲学の本を読みあさるようになります。この三人を軸に物語は進むのですが、三人だけでなく、学ぶことの楽しさに目覚めたこどもたちの目は、犯罪や麻薬と隣り合わせとは信じられないくらい、みんな明るく輝いていたのが、とても印象的でした。
メキシコの人質ビジネスや、麻薬犯罪を題材にした映画は数知れず、第1次トランプ政権による「壁建設」に至っては、メキシコ人がアメリカ人に比して劣っているかのような印象操作が行われているような感さえありましたが、本当にそうなのでしょうか?「1から100までの数の和」をわずか数秒で解いたパロマの計算方法は、レンガ職人の子として生まれながら「歴史上最高の数学者」と言われたガウスが小学生時代に発見した方法と全く同じでした。つまり犯罪と麻薬に汚染されているのは確かに事実かもしれませんが、それは長い歴史の違いがあってのことであって、ホモサピエンスとしての潜在的な能力は多分アメリカ人や我々と何ら変わるところはなく、天才の潜在的な発生確率は、同じなのではと思います。
また貧困のためその才能を社会で生かすすべを持たないという状態は、果たして本当に悪なのでしょうか?知る喜びだけではダメなのでしょうか?ルペが授業で「中絶の是非」の論議をするにあたりミルの「最大多数の最大幸福」(ベンサムのそれより倫理的な側面を重視しているそうです。)を引用し、「彼ならこの貧窮をみて中絶賛成と言うと思いますが、世話をしている可愛い弟たちがもし生まれなかったら・・と考えると、私は簡単に賛成とはいえません。」といった考えを述べます。そしてその考えは彼女の最後の選択に繋がっているように思うのです。その選択をしたときの表情が、たまらなく美しく見えました。
学びの力と人の可能性、そして社会の壁
『型破りな教室』は、子どもたちが持つ無限の可能性を描きながらも、社会の壁がもたらす現実の厳しさを強烈に突きつける映画でした。
観終わった後、頭の中で矛盾した感情が渦を巻き、すぐには言葉にできない余韻が残ります。
希望と絶望、喜びと悲しみと怒り、これらが同時に押し寄せ、深い問いを投げかけてくる映画です。
主人公の教師が実践する教育スタイルは「問いを起点に学びを引き出す」というものでした。生徒の知的好奇心や内なる意欲を刺激し、彼ら自身に思考し、学ぶ方法を見つけさせるスタイルです。
ティーチングではなく、コーチング。既存のカリキュラムを無視し、教科書に頼らない型破りな方法による子供たちの劇的変化は、既存の教育システムを明確に否定しています。
そのアプローチによって、子どもたちは学びの喜びを知り、好奇心が目覚め、才能が花開いきます。そして自分の未来に無限の可能性を感じるようになります。
しかし、それを許さない現実が立ちはだかります。貧困や教育の価値を知らない親たち、麻薬取引など治安の悪い地域環境。その中で、学ぶ力や秘めた可能性ではどうにもならない「社会の壁」が、子どもたちの未来を奪おうとします。
映画の最後に引用されるアインシュタインの言葉――「私の学びを妨げる唯一のものは、私が受けた学校教育である」――は、まさにこの映画のテーマを象徴しています。
教育システムが可能性発揮を邪魔せずに、引き出しサポートするものになるにはどうすべきか。この問いは、映画の舞台であるメキシコだけではなく、私たち自身の社会にも当てはまるものです。
『型破りな教室』は、学びの力の無限の可能性を信じる一方で、それを阻む社会の現実を赤裸々に描き出した作品です。その矛盾が、私たちに「では、どうするのか」と問いかけてきます。そして、観終わった後も頭の中で問いが残り続ける。そんな映画でした。
倫理と論理
メキシコ北東部にあるマタモロスの小学校に型破りな教師がやって来て、子供たちの成績を全国最低レベルのからトップレベルに導いた話。
出産の為に辞めた教師に代わり、元中学校教師のフアレスがやって来て、生徒たちに教科書とは関係ない問いかけをして巻き起こっていく。
日本とはお国柄の違いや環境の違いはあるし、そういう国の最底辺だから通じた様なところもあるだろうし、流石にそれだけでいきなりトップレベルまではないだろうにという都合の良さというか極端さを感じるつくり。
パロマの凄さもイマイチ伝わって来ないし…というか現在20代中頃ということですよね。小学生としての天才レベルだったのか、現状どうなんでしょうね…。
かなり面白かったけれどなんだか色々と物足りなさも感じた。
最高の教師は子どもの心に火をつける
予告を目にした時から鑑賞予定リストに入れていた本作。教育現場での感動のドラマを期待して、公開2日目に鑑賞して来ました。
ストーリーは、アメリカとの国境付近にあり、貧困と犯罪に苦しむメキシコのマタモロスで、教育底辺校と言われる小学校に赴任してきた教師・フアレスが、やる気のない同僚と設備の整わない学校という逆境にもめげず、型破りな授業で子どもたちの探究心をかき立て、全国トップクラスの成績に押し上げていくというもの。
貧困家庭、ヤングケアラー、治安の乱れなど、混沌とした社会情勢の中で満足のいく教育どころか、まともな生活さえままならない子どもたち。本来なら、そんな子どもたちを家庭や学校や地域や国が全力で支えるべきなのですが、家庭にそんな力はなく、教師たちも完全に意欲を失い、地方行政にも何ひとつ期待できません。かろうじて国は危機意識をもち、学力検査による競争原理を持ち込み、教師のモチベーションを報酬で上げようとします。しかし、教育を数値化された結果でしか見ようとしないのは、いかにも現場を知らない役人の考えそうな短絡的発想で完全な悪手です。これがかえって現場の教師を腐敗させていきます。
そんな中、担任のフアレスが行う授業が、子どもたちに学ぶ楽しさに気づかせます。つまらない暗記や点数から解放され、知的好奇心を満たそうとする子どもたちのいきいきと輝く目がとても印象的です。一見遠回りのようで、実はここにこそ教育の本質があるように思います。本作は2011年にメキシコであった実話がベースのようですが、それから10年余、彼の教育理念がどこまで広がったのか気になります。
では、日本はどうかと考えると、決して他人事ではないように思います。疲弊して心身の健康を損なう教師、欠員補充がなく担任不在の学級、保護者の訴えに怯える学校、事なかれ主義が蔓延る職員室…こんな沈みかけの泥舟に乗りたい若者がいないのは当然で、日本の教育も今や崖っぷちにあるように思います。しかし、日本にだって、この泥舟の穴を塞ぎながら必死で漕ぎ続けている、フアレスのような教師がいるはずです。ファレスの思いが校長を揺り動かしたように、教師の熱い思いが子どもだけでなく、同僚や保護者にまで広がり、この国の教育が少しでも改善されるといいと思います。
劇中、パロマの父がフアレスに対して、「無責任な夢を見させないでほしい」と口にします。夢を諦めて悲しむ我が子を見たくないのでしょう。その思いも十分に理解します。しかし、夢を与えない教育こそ、よほど無責任ではないでしょうか。教育は、夢の実現を保証するものではなく、夢を与え、それに向かってがんばる子どもたちに寄り添うものだと思います。
教育に関する有名な言葉にこのようなものがあります。
「平凡な教師は言って聞かせる。 よい教師は説明する。優秀な教師はやってみせる。 しかし最高の教師は子どもの心に火をつける。」
フアレスは間違いなく最高の教師です。
キャストは、エウヘニオ・デルベス、ダニエル・ハダッド、ジャニファー・トレホ、ミア・フェルナンダ・ソリス、ダニーロ・グアルディオラら。
子供達から「学ぶ」機会を奪ってはいけない
生きるていくだけでも精一杯な地域での学校教育について
日本の熱血教師が活躍する学校ドラマは数多観てきたつもりだが、国が違うと自分の経験で予測できる展開とはかなり違い、全く先が読めなかったところが面白かった。
まさに「事実は小説より奇なり」。
小学生ですでに人生を諦めている子達にまず興味を持たせ、学ぶことの楽しさを教えることが大切なのは誰でも理解しているとは思うが、実際には本人だけでなく親や家族、学校の協力がないと潰されるだけで、相当強い意志や根回し、周囲の協力がないと難しい。
特に貧困と腐敗が蔓延しているマタモロスのような地域では志を持った教師が孤立することは目に見えており、本作の場合は唯一の救いは校長が味方になったことくらいで(日本のドラマだと反対派に教頭がいて、校長は温かく見守るだけだけど)、物語はどういう結末に向かって行くのかと言うより「こうなってくれ」とか「こうならないでくれ」とか祈りながら観ていた。
生徒にはあきらめないように根気と工夫で指導するが、教師も挫折しながらもう一度奮い立たち上がって行く姿が心を打たれる。
そしてテストの成績が出てると子供達は本当に学びたかったんだという事がわかり、文字情報だけなのに涙を誘う。
「型破りな教室」ってなんか「GTO」や「ドラゴン桜」みたいなのを連想させることが目的のタイトルだとしたら、配給会社はそんな小細工をせず、もっと内容に自信を持ってオリジナルのタイトル「Radical」のままでいいと思った。
いまだにPCが来てないってほんとに国や行政自体が腐ってる。
哲学者になりたかった子はなんとかしてあげたかった。
子供達の演技が本当に上手かった。
ゴミと死体が身近なメキシコ。
スラムのダメ学校に居る天才と、自主性を優先するルール無視の先生がそれを開花させる所が実話らしいです。
メキシコのギャングの話は掘れば思わず目をそむける写真がぽんぽん出てきます。朝起きると街に死体が転がってるのは日常だそうです。そういう状況が日常なら慣れるもんなんでしょうか?
なんか寧ろちゃんと学校行って勉強したいと思うかもしれない。ただ貧しい現実がそれを許さないんだろうなぁ。映画のなかでもそんな現実に引き裂かれる子供達が切ない。
メキシコも日本も、今の教育は基本優秀な兵隊を作るためのプログラムです。指示に従う事、規律、均一化が絶対で個性を伸ばす事は二の次ですわ。しかしあまりに自由にし過ぎても常識平均値は下がりまくるわけでアメリカで日本は芸者富士山、中国の一部とか思ってる人が普通に居るらしい。
まあ、興味無ければしょうがないが常識のレベルをある程度で一定にする事も重要だとも思う。
そうなった時、教師の子供を見極め興味を持たせる手腕目重要になるなぁ。
こんな先生に会いたかった
貧乏で可哀そう、なんて思ったら貴方の負け、日本の問題と捉えるべし
圧巻の感動作です。実話に基づく映画の場合、その実話が感動的だからいい映画としたら実に片手落ち。いい話をベストな映画化で仕上げたからいい映画となるべきで、無論本作は後者です。メキシコはマタモロスが舞台、調べたらメキシコの東側でメキシコ湾に面した最北部、要するにアメリカ合衆国と国境を接した人口50万人超の都市のみならず、アメリカ側テキサス州のブラウンズヴィルを含めた一つの経済圏だそう。ですが、この貧困の苛烈な現実が2011年の時点だそうで驚くばかり。本作での問題の根底はすべてこの貧困に由来するもの。中南米諸国の混迷は多少でも知ってても、メキシコですらこの現状とは凄まじい。とは言え7人に1人は貧困と言われる日本ともども、貧しい政治の帰結であって到底他人ごとではない。
元気いっぱいの、タイトル通りの型破りな教師の奮闘によって、子供達
(小学6年生・12歳)の生き生きとした成長を描く。よくあるタイプと言えばそれまでですが、主役の教師を変人として描かず、押し付けがましくなく、説教臭くもない描き方が奏功し、嫌味なく感動の域に連れていってくれます。人物配置はこの教師・フアレスと体制側と思わせて実は協力を惜しまない校長チュチョ。クラスの約30名程からメインとして描かれるのが3人に絞られ、ゴミ拾いで辛うじての生計を立てる父親の娘パロマ、彼女に思慕を抱くもギャング集団に属する少年ニコ、そして母子家庭で4人目を妊娠した母を助ける少女ルぺとなり、本作でのヒール役は市の教育委員長?となる布陣。
シリアスな現場ですが、作品の優しさの象徴として校長・チュチョの激しく太った体型と憎めない禿げ頭が計算された上で描かれます。ドーナッツを見つめる目の優しさを上手く捉え、その体型も子供達の成長に大いに役立つ仕掛けが巧妙です。パロマは美形ですが、その激しい貧困ぶりを一切恥じる事もなく、堂々としている所が圧巻で、病弱な父親をほとんど乞食同然でも愛してやまない描き方が凄い。ロバにクズ載せて学校まで父親と来るなんて、これがフツーなの? ここまで人間出来ていれば凄いですよ。彼女の賢さは天才レベルですが、あっさり身を引く有り様には手も足も出ないのが悔しい。とは言え、ラストにはその実力を発揮出来たからいいけれど。
対して、幼い兄弟の世話をしながらも、哲学への興味が湧きあがるルぺはその意欲を自ら閉ざしてしまうのが辛い。赤ちゃんを連れてまで試験会場に来るのを願ってましたが、叶いませんでした。自分のしたい事を見つけた幸運には感謝ですが、それを貫く事を環境が許さない切なさには胸が苦しくなります。そして兄が既にギャング集団ゆえ、多分麻薬でしょう、その運び屋を担わされているニコに対しフアレスは「自分で決めろ」と本人に委ねるも、最悪の結果を迎えてしまう。日常の生活圏に死体がある精神的タフさって、私には理解が及びません。パロマと一緒に海の向うのヒューストン宇宙センターを望遠鏡で臨む一時が至福の時でしたでしょう。
知識より自ら考える力を先に備える教育で、実際に国内でもトップクラスの成績に上がったのですから文句は言わせません。フアレス先生の口にするキーワードは珠玉の名言がぞろぞろで、ポテンシャルは誰でも持っているが使うか否かは本人次第ってところは感動的です。受動的な知識ばかりを詰め込んだ日本の教育の弱点は、今年の数多の選挙での行動にストレートに現れてしまいました。自らジャッジしないで、ネットでの潮流に乗っかる軽薄さです。他人のより自分自身の可能性をもっと信じましょう。
映画は当然にエンドロールで実際のご本人達の写真を映し出します。ルぺやニコは実はどこにでも居るハズで、それを見つけ引き出すってのはそんなに難しいのでしょうか? 無論、難しくしているのは貧困に比例しているからで、それを企む政治ってのは要するに国民を従順なままにしておきたいのです。世の先生方に本作を是非観て頂きたいって、先生方はクソ忙しい状況に漬け込まれてますからね、そう言う悪巧みを見破らなくてはなりません。
本作が作られた意義
IMDb、RottenTomatoesで評価がとても高い本作。やはりサンダンス映画祭における観客賞受賞は伊達じゃないのでしょう。これは必見だと言うことでヒューマントラストシネマ有楽町へ。会員割引を使って鑑賞です。公開初日の11時20分からの回はまぁまぁな客入り。
本作、「学校を舞台にした生徒と教師の物語」という古典中の古典であり、昨今においてこのジャンルにおける「実話ベース」というのも特に珍しいわけではありません。と言うことで、それなりに感動も期待できるだろうとは思っていましたが、観終わった感想は「低く見積もり過ぎていた」と思うほど心を動かされました。
なお、『型破りな教室(原題:Radical)』というタイトルも決して大袈裟には感じません。エウヘニオ・デルベスが演じるセルヒオ先生は「型破り」どころか「型を一切無視した」ユニークな教育方法を採用しつつ、常に生徒目線で考えて「大人の事情」を理由にすることが一切ありません。むしろ出来ることなら何でも実践しようとする熱意でいっぱい。とは言え、教師にとって学校は勤め先であり組織。当然、孤軍奮闘では限界があるのですが、就任早々、巧みな話術と強引すぎるくらいの行動力でチュチョ校長(ダニエル・ハダッド)を巻き込みます。勿論、チュチョ校長も始めは戸惑い、そして修正させようともするのですが、次第にセルヒオの本気と生徒たちの反応を目の当たりにし、遂には一番の理解者となっていっていきます。そんな二人のバディ感は最高で、見た目のデコボコ感も微笑ましい。
そして何と言っても、すべての子供たちの反応が本当に素晴らしい。セルヒオの突拍子もない授業に半信半疑で付き合い始めますが、間違えることに恐れず、自分で考えることで興味が広がり、どんどんと目が輝いていく感じが尊くて神々しい。特にメインキャラクターであるパロマ(ジェニファー・トレホ)、ルペ(ミア・フェルナンダ・ソリス)、ニコ(ダニーロ・グアルディオラ)が三者三様に「学業に集中できない事情」を抱え、そしてそれぞれの人生が待っています。そんな彼らが学ぶことに目覚めていく姿を観ていると、彼らの可能性を奪う環境に本気で強いもどかしさを感じますし、だからこそ、本作が作られた意義を深く理解することが出来ます。監督・脚本を務めるクリストファー・ザラ、素晴らしい仕事だと思います。
と言うことで、観る前の予想を大幅に上回った本作。今年は現時点で92作品目の劇場鑑賞となりましたが、その中でも上位の評価となりそう。傑作です。
子どもたちに夢を見させないで。
映画「型破りな教室」(原題『RADICAL』)は、
メキシコの小学校を舞台に、
教育と現実とのギャップに苦しむ教師と生徒たちの姿を描いた作品だ。
一見、優しさと希望に溢れた教育映画のように見えるかもしれないが、
その実、非常に厳しく、生々しい現実を描き出している。
メキシコの貧困層にある小学校が舞台、
実話をベースにした物語。
型破りな教師が生徒たちに新しい学びの方法を,
提供しようと奮闘する姿を描く。
先生が提案するのは、単に教科書に載っていることを学ぶのではなく、
現実世界に目を向け、実際に使える知識を身につけること。
しかし、その方法が学校内で通用するのか、
また、家庭や地域社会の現実にどれほど影響を与えるのかが大きなテーマとなっている。
劇中で繰り返されるセリフ、
「本で学ぶか、現実で学ぶか」という問いかけが象徴するように、
本作は単なる教育論に留まらず、
現実の厳しさと向き合う必要性を強調している。
生徒たちが置かれた状況はマフィアの影がちらつき、
ゴミの山が街の風景となっている。
その中で、教育がいかにして意味を持つのかが問われる。
理想と現実の狭間で揺れる教師の姿を描きつつ、
観客に問いかける。
理想に基づいた教育が果たして生徒たちの未来にどれほどの影響を与えられるのか、
そしてその理想を貫くことが可能なのか。
また、親たちの反応もこの物語の中で重要な位置を占める。
「先生がいくら理想を語っても、卒業したら現実に戻るだけだ」
「子どもたちに夢を見させないで」
というセリフが示すように、
親たちは冷徹に現実を見つめている。
この親たちの言葉も、教師にとっては大きな壁となり、
物語の進行とともにその重さがじわじわと感じられる。
この映画の最大の強みは、
表情と挙動を捉えた細やかな演出にもある。
子どもたちのセリフが少なく、
登場人物たちの微細な表情や動きに注目が集まる中で、
登場人物たちの内面が自然と伝わってくる。
教師が生徒一人一人に対して向けるまなざしや、
生徒たちが感じる希望や不安、
それらがカメラを通して静かに、確実に観客に伝わってくる。
さらに、カメラの使い方、美術装飾が非常に効果的で、
現実の厳しさを浮き彫りにしている。
例えば、生徒たちの家庭の状況や周囲の環境を描写するシーンでは、
カメラは一切の装飾を排した環境を捉える、
ただただその現実を淡々と見つめ続ける。
このリアルなアプローチが、
映画全体に重厚感と説得力を与えており、
観客はその現実と向き合わせられ、
自分事になるまで気持ちを近づけさせられる効果にもなっている。
「型破りな教室」は、理想と現実、
教育と社会の対立を描きながら、教育における挑戦と困難、
そして希望の可能性を問いかける映画だ。
メキシコという社会背景の中で、
1人の教師がどれほどの力を発揮できるのか、
またどこまで現実に立ち向かえるのか、
映画はその問いを観客に投げかける。
それは、単に教育の方法論にとどまらず、
社会全体に対する問題提起でもある。
今年最後の感動作
観る我々が大切なことを学ぶことに
凄く良かったです!今年のマイベストワン!
何故、神奈川で上映しないのかいな?(~_~;)
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