「最後に自分の中の「可能性」に向き合ったのはいつですか?」型破りな教室 livest!さんの映画レビュー(感想・評価)
最後に自分の中の「可能性」に向き合ったのはいつですか?
「夢が小さいな」と先生は優しい声で笑った。
小学校の時、同級生の世界に馴染めていなかった私は、休み時間や掃除の時間になると、学校内の人が来ない「私だけの秘密の場所」でいつも時間を潰していた。
ある時、そこに一人の先生が現れた。
理科を受け持つそのおじさん先生は、おじさん特有のファッションでいつも髭が薄く伸びていた。
喋るとほのかにタバコの匂いがして、女子生徒たちの間で「おじさんくさい」「気持ち悪い」と毛嫌いされていた。
厳しい指導が校風の小学校は、多くの男性先生が生徒たちに高圧的に接してくる中、その先生はいつも笑顔で弱々しい態度だった。
そのソフトな立ち振る舞いが対比的に頼り甲斐がない印象を与え、女子生徒に文句をつけやすい口実を与えていたのかもしれない。
けれど、私は思慮深く授業を進める先生に、密かに信頼を置いていた。
そんな先生が時間潰しのための「私だけ秘密の場所」に時々顔を出すようになった。
生徒たちが騒がしい声がこだまする校舎の陰で、先生と私はただ黙って座って時間を潰した。
そして、休み時間や掃除の時間の終わりを知らせるベルがなると、どちらともなく黙って立ち上がり、それぞれの「戻らなければならない場所」に向かった。
その先生に自分だけの場所を見つけられたことも、自分だけの時間を邪魔されたことも、私は不思議と嫌にはならなかった。
先生はただ黙って座っているだけだったし、私も黙って座っているだけだった。
その間、目も合わなかったし、こちらを気にする気配も感じなかった。
まるでお互い別の時空に過ごしているようで、それでも何となく包まれているような安心感があった。
卒業が近づいたある日、同じように黙って時間を潰していると、その先生はやって来た。
そして、いつもの通り、黙って座って、黙って佇んでいた。
休み時間の終了を知らせるベルが鳴り、いつものように重い足を引きずって「戻らなければならない場所」に仕方なく戻ろうとした時、先生は私の背中に静かに声をかけた。
「将来、なりたいものはあるのか?」
私は立ち止まり、少し考えたあと「先生みたいな先生になろうかな」とそっと呟いた。
「夢が小さいな」
先生は優しい声で笑った。
振り返ると、先生は小さく頷いて、もう一度優しく笑った。
Dreamin' アスファルト泥だらけのクツあふれ
Dreamin' 灰色の風から俺たちは生まれ
ボルト&ナットのしくみで組みこまれる街で
爆弾にはなれない OH NO!
Dreamin' よくできたおちこぼれはすぐはずれ
Dreamin' いつからか番号だけで呼ばれ
汗のにおい信じない言葉に刺もない
悪びれないスペアマン WOW
そんな奴らは好きじゃない俺はそんなにバカじゃない
ハートは今ここにある WOW
(BOØWY「DREAMIN'」)
コレア先生の教育は成功したと言えるのか
おじさん風のファッションで無精髭を生やしているコレア先生は、麻薬と殺人が日常化した街の子どもたちに「自分の可能性」と向き合うことを教えようとした。
けれど、そのやり方はそれまでの学校教育とは異なるやり方で、その規格外の授業スタイルに先輩教師や市の上層部は眉を顰めた。
しかし、そんなコレア先生の情熱に生徒たちは心を動かされた。
のちに雑誌「WIRED」で「次のスティーブ・ジョブズ」と紹介されることになる女生徒は、コレア先生チルドレンたちの中でも、この映画の核を成す存在だ。
学校や教育委員会が求めるテストでの成績という点で、コレア先生が教えるクラスは抜群の結果を残し、生徒の中の10名は全国上位09.1%のトップクラスの成績を残すほどになった。
コレア先生の情熱が身を結んだ瞬間だった。
物語を俯瞰で見ればハッピーエンドだが、観る者は心から安堵できることはない。
それは映画というものが、あくまである期間を切り取った「人生の途中経過」でしかないという特性を持つからだろう。
映画には優れた能力を秘めた魅力的な小学生が何人も登場する。
そして、そんな子どもたちが通うこの小学校は、全国テストでトップクラスの成績を収めるという喜ばしい結果を手に入れる。
しかし、観るものが求めるような「多くの小学生たちが今後も幸せな人生を突き進んでくれるはずだ」という確信は、最後まで決して与えてくれない。
手にしたのはあくまで「教育システム」の勝利であり、現状の社会システムが変わらない限り、その中で学び、現行の「教育システム」が課す試験で優れた結果を残した子どもたち自身が、その後も幸せな人生を歩めるという約束は果たされない。
どれほど優れた才能を持つギフテッドな子どもでも、新たな興味の扉を開いた好奇心に溢れる子どもでも、生まれた環境次第でその「可能性」は小学校で強制終了させられてしまうメキシコという国の現実。
その残酷な現実を突きつけられるぶん、むしろこの映画の鑑賞後は重い気持ちを抱えることになる。
日本で生まれ、今の環境を与えられている自分の境遇に改めて感謝の念を抱かずにはいられない。
「可能性」とはなんだろう?
あくまでも「可能性」とは伸びしろであり、その無限の力を自分自身が信じない限り、どこにも連れて行ってくれないし、何も生み出さない。
そして、可能性を信じ、自分を信じて行動しても必ず「夢」が叶う訳ではない。
だったら、大人たちが敷くレールの上で、事例に沿って生きる道を選ぶことは、「社会から脱落しない」という可能性において決して間違った選択とは言い切れない。
コレア先生の存在は、ある人にとって「可能性」を高める最高の出会いとなる一方で、自分の「可能性」に賭けた結果、数年後、数十年後に路頭に迷う者を生む危険な存在にもなりうる。
先代が築き上げてきた「教育システム」は、そんな落伍者を生みにくい手堅い人生の道標という点で、頭から非難されるべきものではないのではないか……。
大人になった今、思ってしまう自分がいる。
限られた年齢に許された「夢」や「可能性」を無条件に信じる気持ち
「夢が小さいな」
先生はどんな気持ちで私にそう言ったのだろう。
私のどんな「可能性」を見たのだろう?
コレア先生を信じて、非合法な悪事に手を染める兄たちと決別しようとしたニコは、最後の瞬間どんな思いだったのだろう?
「夢」や「可能性」という言葉を大人が子どもに発する時、そこには前向きな祈りが込められている。
けれど、それが重い十字架になることもあるということを、子どもだった私が学んだのはずっと後になってからだった。
OH Yeh I'm only Dreamin' I'm only Dreamin'for me
OH Yeh I'm only Dreamin' I'm only Dreamin'for me
右へならえでおちつき一日を選べない
人形ともちがわない OH NO!
そんな奴らは好きじゃない俺はそんなにバカじゃない
ハートは今ここにある WOW
OH Yeh I'm only Dreamin' I'm only Dreamin'for me
OH Yeh I'm only Dreamin' I'm only Dreamin'for me
OH Yeh I'm only Dreamin' I'm only Dreamin'for me
OH Yeh I'm only Dreamin' I'm only Dreamin'for me
(BOØWY「DREAMIN'」)

 
  
