「radicalとは。子ども扱いせずに大事な問いを考えること」型破りな教室 KaMiさんの映画レビュー(感想・評価)
radicalとは。子ども扱いせずに大事な問いを考えること
少しタイミングがずれて地元のミニシアターで見ることができた。
やる気のない子どもたちのところへ異色の教師がやってきて開花させる、という物語はたくさんあるだろう。この映画の場合は教師が特に個性派でなく、ネットの動画を参考にしていることを打ち明けるなど、わりと普通の人が試行錯誤するところが面白い。
最初の授業で、先生はフルーツバスケットみたいに「均等な人数のグループを作って着席しよう。そうしないと海に沈んでしまう」という課題を出す。小学校6年生の子どもは「幼稚園みたい」といってとりあわないが、ふと「船はどうして沈まないか」という疑問が共有され、担任の先生と太った校長の「密度」を比較する活動などへ発展していく。
こうした探究が周到な準備のもとで行われているわけではなく、子どもが考えている間に先生が校内で教材となる風船を探すなど、ジタバタする姿に共感した。
机の上の勉強になじめない子どもに対し、身近な現象を素材に教えるということは日本の教育でもよく行われているはずだ。この映画の場合はそれだけでなく、radical(=根本的)という原題のように、子どもだからといって見くびらず、大事な問いを考えることがテーマになっているように思えた。
実際、「海に沈みそうなときに誰を助けるべきか」という問いから一人の女の子は哲学に進んでいき、教室でも中絶をテーマに討論が行われる。
それに対し教育委員会から来た役人が「小6で学ぶべきことが身についていない」と水を差すのは象徴的。学習指導要領では年齢相応のことしか教えられないが、子どもの心に火をつけるには、時に、大人にとっても難しい問題を考える必要があるのだ。
最初に触れたように先生の授業はそれほど画期的なわけでもない。最後に統一学力テストのようなもので学力を証明することになるのはちょっと皮肉だけれど、要は子どもに合わせた思考のきっかけが必要ということではないか。学び方の目新しさに本質があるわけではないと思う。
その意味で最後にアインシュタインの「私の学習を妨げたのは、教育だった」という言葉を掲げたのはやや疑問。「型破りな教室」という邦題もそうなのだが、教育の型を崩すことが大事だと誤解されてしまわないだろうか。