「個人史であり事件史」風よ あらしよ 劇場版 ぺがもんさんの映画レビュー(感想・評価)
個人史であり事件史
男尊女卑の風潮が色濃い明治大正の世を、女として、アナキストとして駆け抜けた伊藤野枝。その短くも激しい生涯を描いた作品である。
原作は村山由佳による同名の評伝小説。伊藤野枝と言えば、甘粕事件で大杉栄とともに殺された愛人という認識しかなかったのだが、福岡県今宿の出身であること、平塚らいてうから青鞜を引き継いだことなどは、この小説で初めて知った。原作には大杉栄や平塚明(らいてう)の視点から描かれた章もあるが、映画では一貫して野枝の一人称で語られる。
主演が吉高由里子であること、最初は単なる田舎娘だったのが徐々に才能を発揮してゆくこと、福岡での結婚生活を捨てて上京、己の愛に生きること(これは蓮様だが)などから、「花子とアン」を連想せずにはいられない(石橋蓮司や山田真歩まで出てくるし)。と思ったら、演出の柳川強は「花子とアン」のディレクターも務めていたということで納得。
元々はテレビで3回にわたって放映されたドラマ(こちらは未見)の劇場版らしいが、どうしても朝ドラの総集編めいた感じは否めない。特に辻潤(稲垣吾郎)、大杉栄(永山瑛太)など、最初魅力的に見えた野枝のパートナーたちが、直ぐにダメ男になり下がる展開の速さには違和感を覚えた。その反面、自由奔放で純粋な野枝の強さが際立っており、なぜ男に従わなければならないのか、なぜ女だけ自由がないのかと、自分自身を貫く生き様は丁寧に描かれている。
タイトルの「風よあらしよ」にしてもそうだ。これは「吹けよ あれよ 風よ あらしよ」(「吹けよ風 呼べよ嵐」ではない)という野枝の言葉に由来する。風やあらしが世間の荒波だとすると、それを避けるのではなく敢えて立ち向かうという、彼女の信念が伝わる良いタイトルだ。しかし、この作品は伊藤野枝という女性の一代記であると同時に、当時の事件史でもある。
甘粕事件は関東大震災から2週間後に起こっている。「福田村事件」(こちらにも永山瑛太が出ていた)と同じく流言飛語に過剰反応した結果の悲劇だ。そして、大杉栄が自分の原点と語った足尾鉱毒事件。「なぜ同じ人間なのに、この人たちだけが辛い思いをするのか」という野枝の声を「単なるセンチメンタル」と切って捨てる辻。そして半ば強制的に村民を追い出し遊水地を作った政府と、言論統制に屈したマスメディア。それらに異を唱えた野枝は、もういない。
歴史は繰り返す。令和の今も状況はさして変わらない。濃密な恋愛模様を描き、ジェンダー問題を取り上げただけでなく、「声を上げなくても良いのか?」と問いかけるような社会批判も内に含んだ、油断できない作品だった。