「すくいあげた手のひらからこぼれ落ちるしずくのように」あんのこと レントさんの映画レビュー(感想・評価)
すくいあげた手のひらからこぼれ落ちるしずくのように
この社会での女性の生きづらさをミステリータッチで描いた「市子」、そして本作は同じく女性の生きづらさをドキュメンタリータッチで描いたドラマ。
コロナ禍では若年層の女性の自死が目立ったという。虐待などで実家にも頼れず教育もまともに受けていないため不安定な非正規の飲食業などの職についていた人が多かった。
コロナの自粛で最も被害を受けた業種である。経営者は補助金をもらえるが彼らはそうはいかない。ただでさえぎりぎりの生活だった彼女たちはたちまち食べることもままならなくなり、そして人との接触も制限され孤独な環境下に置かれ精神的に追い詰められていった。
災害や戦争が起きれば真っ先に犠牲になるのが高齢者や障碍者などの社会的弱者だ。では彼女らは弱者だったのだろうか、彼女らを弱者にしたのは誰なのだろうか。
生まれたばかりの子供は一人では生きていけない弱者である。普通は親が愛情を持って育てる。そうすれば自分を愛せる弱者ではない人間になる。しかし、そのように育てられなかった人間は自分を愛せず弱者のまま育ってしまう。
あんのように恵まれない家庭環境に生まれる子供は一定数いる。この世に生まれた人間が初めて頼るのが自分の親であり、そして子供は親を選べない。子供は一人では育つことはできないからその親がどんな親であろうが頼らざるを得ない。
あんのように親から暴力を受けたり売春を強要されたりしてもたいていの子は逆らわないという。親に愛されたいからだ。こんな親でも言うことを聞いていればいつかは自分を愛してくれると信じているからだ。
虐待親から逃れられない子供は他の家庭がどんなだかを知らず、自分が特別虐待を受けているとの自覚も持てないらしい。まずは自分の生きてる環境が異常であることを知り、そこから抜け出させることが重要だ。すなわち第三者の力が必ず必要になる。
本作では刑事の多々羅がその役目を果たすはずだったし、現にそうしていた。あのまま行けばあんは立ち直ることができたはずだった。
もし多々羅が初心を忘れず道を踏み外さなければ更生施設は存続し、あんにとってよりどころとなっていたであろう。もしコロナが起きなければ学校も続けられただろう。あんが非正規職員でなければ介護の仕事も続けられただろう。
それらすべては失われたが彼女には最後のよりどころとするものがあった。それは突然舞い込んできた育児放棄された子供だった。
彼女は戸惑いながらも子供の世話をするうちに初めて愛情を注ぐことの喜びを覚える。この子が彼女にとって最後のよりどころとなるはずだった。しかし結局はそれさえも奪われてしまい、すべてを失った彼女は絶望のはてに命を絶ってしまう。
すべては不幸なめぐりあわせだったのだろうか。多々羅の裏切りもコロナも子供を奪われたことも。それさえなければ彼女の命は失われずに済んだのだろうか。彼女がこのような結果になったのはただ不運が重なったからだろうか。救われるはずだった命がなぜ失われねばならなかったのか。
彼女のような不幸な人間は大勢いる。彼女はたまたま不運だった。中には救われる人間もいる。それでいいのだろうか。もし社会システムによって彼女一人が救われるなら他の同じ境遇の人たちも同じ様に救われるのではないか。彼女一人も救えない今の社会が他の大勢を救えるといえるのだろうか。
毎日のように報道される親による虐待事件。最悪死に至るケースも。しかし報道されるのは氷山の一角。運よくあんのように育つことができても心は荒み切り、犯罪を犯し警察に逮捕されるまで虐待の実態はわからない。虐待が表面化するのは警察からの発表が多くを占めるという。つまり事件化するまでは虐待はなかなか公にならない。
社会との接点がない家庭ほど虐待は密室で行われエスカレートしてゆき、表面化した時はすでに手遅れということもある。
親による虐待事件は年々増加しており、もはやこれは毒親のせいとかいう個人の問題ではない。個人の努力では解決できない社会問題と化している。すなわち虐待による被害が減らないのは社会システムの不備が原因ということになる。
悲惨な事件が報道されるたびに児童相談所の職員の拡充だの警察と児相との連携強化だのとその時だけは言われるが事件は一向に減る気配がない。
明らかに社会システムに問題がある。まず、あんの育った環境、二世代にわたる母子家庭。公団に祖母と母との三人暮らし。祖母はすでに認知症の症状、母親は水商売で生計を立てているがアルコール依存症である。そして自身だけでなく、娘にも売春を強要していた。ここで疑問がわく。母子家庭でこのような状況で生活保護をなぜ受けていなかったのか、何らかの公的支援をなぜ受けていなかったのか。
多くの虐待家庭を見てきた専門家によると、彼らのような支援を必要とする人間ほど公的機関を嫌う場合が多いという。最初こそ支援を求めて役所などに相談に行くも、門前払いやたらい回しにされた挙句、上から目線で侮辱的な言葉を投げつけられて心を傷つけられ、二度と役所には出向かないのだという。水際作戦で役所が意図的にそのように応対してるケースも多くみられる。
劇中、自己責任などとほざく担当者に対して多々羅が怒鳴りつけるシーンがあるが、実際制度に精通した民間の支援団体などが付き添わないと個人では生活保護申請もままならない。
ちなみに生活保護は憲法25条で定められた国民の基本的な権利であり、水際作戦などで申請を妨害することは明らかな憲法違反である。
担当者は原資が税金ですからと理由にならない理由をほざいてるが税金が国民のために使われるのは至極当然のことである。
かつて政治家のネガキャンで生活保護は怠け者が楽をしようと税金から金をせびってるなどと言われたが、生保は身寄りもなくけがや病気で働けなくなったり、あんのような不遇な人間が最後に頼るセーフティネットであり、当然の権利なのだ。
生保を受けることで自立が可能になり、社会復帰を果たせばその人間は再び納税が可能となる。例えが悪いが怪我を治療すれば再び戦場に出れる兵士を怪我をしたのは自己責任だからと治療もせずに放置するだろうか。水際作戦はそれぐらい愚かなことだ。
生保は当然の権利として大いに利用すべきだがこの国では先のネガキャンのせいもあってか受給要件を満たしていても申請しない潜在的受給者が多い。
この様に先述の専門家によればまだまだ行政の支援が足りてないのだという。しかし、あんの家庭が経済的支援を受けられていればあそこまで酷いことにはなっていなかったのではないか。経済的支援だけではなくあの母親にも多々羅のように手を差し伸べてくれる人間がいればあのような人間にはならなかったのではないか。多々羅に限らずあんのような境遇にいる人のために活動しているNPO団体もある。
あんの不幸は彼女に限ったことではない。多くのあんがこの社会には存在する。NPO団体の支援を受けて自立できる者もいれば、悲しい結末を迎える者も。中にはこんなサポートの存在さえ知らずそのまま大人になり、あんの母親のようになってしまう不幸な人間もいる。そうした人間からあんのような不幸な人間が生まれる。負の連鎖が延々と続いてしまう。このような不幸の芽を摘んでいけたら。一人でも多くのあんのような不幸がこの社会からなくなればいいと切に願う。
NPO団体の方々は日々努力されている。しかしすべての人間を救うことはできない。いくら救おうと努力しても手のひらから零れ落ちるしずくのように失われてしまう命もある。
今の社会は非正規雇用の拡大、福祉予算の規模縮小、母子家庭の貧困問題等々、このような社会のゆがみが弱者を生み出しているのではないのだろうか。
このような弱者を生まない社会にしていくことが大切なんだと思う。周りが互いに支え合うことによって自立が促される社会になることこそがあんのような不幸な少女を生まないことにつながるのだと思う。
あんは数々の不幸が重なって結果的に命を落とした。でも彼女はけして特別な例ではなかった。今も彼女のようにこの世で一人誰からも救いの手が差し伸べられずかろうじて生きている女性たちが多く存在する。一人でも多くのあんが救われる世の中になってほしい。
追記
このサイトではないのですが、他の人の感想を聞いてはっとさせられました。本作の終盤、まさにあんが自ら命を絶つ際に窓から飛行機の編隊が見えます。あれは2020年防衛省の発案で行われたブルーインパルスによる航空ショーでした。医療従事者への感謝の意を表するというのを建前で行われました。当時は税金の無駄遣いだとか政治利用だとか物議をかもしました。
あそこであのシーンを入れてくること自体、やはり作り手はこの社会のゆがみというものを描こうとしていたんだなあと確信しました。
あんのような人間が救われないこの社会でなぜあんな航空ショーをやる必要があるのか。まさに今の社会を痛烈に批判するシーンでした。
コメントありがとうございます。
考えさせられました。
あんは多くのあんの一人でしかないですね。
セーフティネットからこぼれ落ちる多くの若い女性。
生まれ落ちた時から、不公平は始まっていますね。
レントさんの気持ちのこもったレビューでした。改めていろいろ考えさせられました。ありがとうございました。
「遠いところ」という映画は見られましたか?
もしも見られてないなら、ぜひ、見てみてください。