「異なる言語文化と表現の不確かなキャッチボール」めくらやなぎと眠る女 高森 郁哉さんの映画レビュー(感想・評価)
異なる言語文化と表現の不確かなキャッチボール
村上春樹作品の一愛読者として、近年映画化のペースが上がっていることは単純に喜ばしい。作家自身が映画「風の歌を聴け」の出来に失望して以来映像化のオファーのほとんどを断っていると何かで読んだ記憶があるが、年齢とともに映像化に寛容になってきたのだろうか。2018年の「ハナレイ・ベイ」と「バーニング」、2021年の「ドライブ・マイ・カー」、そして村上作品初のアニメ映画化が本作「めくらやなぎと眠る女」だ。
監督・脚本のピエール・フォルデスは、1990年代に映画音楽やCM曲の作曲家としてキャリアをスタートさせ、その後ドローイングやアニメ・実写の短編をいくつか発表してきた(自身のサイトpierrefoldes.comで過去の作品群や、「めくらやなぎと眠る女」のスケッチなども公開しているので、興味がある方はぜひ)。
フォルデス監督は米国出身だがパリで育ち音楽もフランスで学んだので、仏語・英語のバイリンガルと察せられる。本作の制作過程もなかなかユニークで、まずカナダで英語話者のカナダ人俳優たちを用いて実写撮影・録音し、その映像をベースにアニメーションを制作。このアニメ映像に合わせてフランス語の台詞を収録したものが公式のフランス映画になり、さらに深田晃司監督が演出した日本語版(翻訳協力は柴田元幸)が作られた、という流れだ。
言語と表現形式の変遷に注目すると、日本語の小説の翻訳から英語の脚本が書かれ、英語話者が演じた実写映像からアニメーションが制作され、さらに台詞をフランス語で収録した公式版、日本語で収録したバージョンがそれぞれ作られた。文化的背景の異なる日本語圏、英語圏、仏語圏の表現者たちがいわば作品をキャッチボールしたわけで、翻訳の過程で生じるわずかな表現のズレが映画そのものの奇妙な不確かさにつながっているように感じられ、それが個人的には楽しめるポイントの1つでもあった。
フォルデス監督のキャラクター造形からは、欧米の白人の目には東アジアの黄色人種がこんな風に見えているんだなというのが伝わってくる。これも文化を行き来した作品の妙味だろう。小村の風貌は、原作(「UFOが釧路に降りる」)ではハンサムでほっそりとした長身の設定だが、アニメの作画では村上春樹本人に寄せた気がする。
> t0moriさん
ご指摘ありがとうございます。「何かで読んだ記憶がある」としたように、うろ覚えで書いたことなので、気になって検索したところ、京都府立大学研究員・内田康氏の論文中に「(村上春樹の)自作品映画化自体への消極性は 、その原因として(中略)大森自身が『それはどうも巷では僕のせいにされてるようです(笑)』と自虐的に語ったこともある。」という文章がありました。これを読むと、「村上春樹が自作品(特に長編小説)の映画化に消極的」という世間からの認識がまずあり、その原因が「大森のせいだ」という巷の声が大森監督本人にも届いていたことがわかります。よって、昔読んだ風評として書かれた話を、村上春樹本人談のように覚え違えていたのかもしれません。
村上春樹が『風の歌を聴け』に失望して映像化のオファーを断った、という話を知りませんが、本当ですか? 私の知る限り、寧ろ一貫して「大森一樹の仕事」として評価していて、良くも悪くもその様にコメントしているのを見かけましたが。大森一樹自身も「公開当時に評価してくれた」という様なことを自著でコメントしていますし、彼が亡くなった時の追悼コメントでも、村上春樹はその様な言葉を残しています。
だいたい、その後も1990年代がぽっかり空いてはいますが、短編も含めるとそれなりに映画化されているように思いますけど。