劇場公開日 2024年6月21日

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「ヴェンダース映画としては「らしい」仕上がりだが、キーファーの紹介動画としてはイマイチ。」アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0ヴェンダース映画としては「らしい」仕上がりだが、キーファーの紹介動画としてはイマイチ。

2024年7月16日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

僕にとって、アンゼルム・キーファーは特別な芸術家だ。

こういったことを書くと年齢がバレるが、自分がまだ文学部美術史学科の大学生だったころに、アンゼルム・キーファーの日本で最初の回顧展が開催された。
「メランコリア―知の翼」と銘打たれたその展覧会は、真の意味で衝撃的だった。
僕はいっぺんでこのドイツの芸術家の虜となった。

当時池袋にあったセゾン美術館、京都国立近代美術館、広島現代美術館と巡回したというが、僕は京都で観た記憶があるから、きっと夏休みの帰省中だったのだろう。「あしか作戦」や「リリト」「メランコリア」といった代表作も展示されていた。

キーファーの何がそこまで衝撃的だったかというと、彼は間違いなく美術を通じてなんらかの「意味」と「思想」を、われわれに問いかけようとしていた。
それは80~90年代の現代芸術においては、きわめて稀なスタンスだった。

20世紀の美術史とは、拡張の歴史である。
扱える画題が拡張され、美の範疇と定義付けが拡張され、様式と方法論が拡張された。
印象派の活動は、絵画芸術を画題の制約やヒエラルキーから解き放ち、「視覚的認知の二次元平面への転写」の実験として再定義した。
フォーヴィストが色彩の実験を、キュビストが形態の実験を推し進め、ダダイストは美の既成観念を破壊し、シュルレアリストは絵画の意味世界に深層心理と偶然性の領域を持ち込んだ。前衛の時代を経て、絵画芸術はやがて、額縁が四角くある必要もなく、キャンバスが布である必要もなく、何をどのように描いても別段構わない、自由な存在へと変容した。

だが、それらの「色彩」や「形態」「基底材&画材」「モチーフ選択」にまつわる大いなる実験のなかで、いつしか希薄になっていったのが、元来絵画が担っていた「意味」のフェイズの価値づけだった。
ポストペインタリーアブストラクトは、絵画からむしろ意味性を奪い取り、具象を捨てて抽象を志向する道を選択し、もしくは純粋に美学的な実験であろうとした。
ポップアートはコミックや消費財を美術館に展示するアートの画題として導入したが、それらは意味性を深めるというよりは、大衆社会を批評し、ある種「奇をてらう」こと自体が目的とされた動きだった。

そんななか、アンゼルム・キーファーは、絵画芸術にもう一度「意味」を取り戻そうとしたという点で、きわめて斬新であり、同時にきわめて復古的な芸術家でもあった。
彼は、「何が」「どのように」描かれているかを鑑賞者に考えさせることで、作品の背景に複雑な「意味」と「思想」の領域が存在することを深く印象づけようとした。
彼の作品の「解釈」には、大前提となる「歴史」「宗教」「神話」についての知識と共通理解が必要とされた。あるいは、そこに「錬金術」や「神秘学」といった補助線が援用されることもあった。
キーファーは、「あらゆるマテリアルを用いて自由に表現する」現代的手法を用いながら、その手法を美学的に探求するのではなく、その手法によって表しうる意味性の世界を追求し、深掘りしようとしたのだ。
それはまさに、16~19世紀においては一般的だった絵画鑑賞のオーソドックスな文脈に、現代芸術を回帰させようとする試みだった。

彼は、つねに宗教的/歴史的な含意のある作品を制作してきた。
彼は、鉛や藁や釘や衣類や砂や骨や枯草など、ありとあらゆる物体を、そのままキャンバスの上へと導入する。画面に塗り込められた衣類は、いつしかワルキューレを模したトルソーへと変化し、ナチス・ドイツの歴史を想起させる戦場の女神として、鑑賞者に自省と再考を促すだろう。
彼の作品には、常に廃墟のイメージ、朽ち果てるイメージがつきまとうが、これは戦後ゼロ年の瓦礫と化したドイツに生まれた彼の原風景でもある。同時に、彼はそれらの「廃墟」「瓦礫」「腐敗」「劣化」のイメージを、銅や鉄によって固着させることで永遠化しようとする。長い年月を経て荒れ果てた物質の外観を、彼は金属で模して、その一瞬をアートとしてとどめようとするのだ。

アンゼルム・キーファーの作品は、常にモニュメンタル(記念碑的)である。
巨大で、風格があって、重みがあって、年輪を感じさせる。
藁や日常品を貼り付けられた画面は、荒れていて、偶発的な形状の美に満ちているが、それはちょうど年経た巨樹や巨岩を鑑賞するのにも似て、観客を永劫の歴史と神話の世界に導く。キーファー作品に対峙するということは、人類の歴史と対峙することであり、誰もが胎内に抱えているユング的な神話世界を活性化させることでもある。

キーファーは、ありとあらゆるマテリアルを駆使し、その痕跡を画面上に残す。
この手法自体は、いかにも20世紀的だ。
だがキーファーは、この現代的な手法を用いて、あえてオーソドックスに「歴史と宗教と神話」の世界を語り、鑑賞者に「畏怖」と「崇高」の感情を抱かせようとする。
これはまさにゴチック~ルネサンスの宗教芸術の志向性と軌を一にするものであり、16世紀フランドルを卒論のテーマに選んだ僕にとっては、非常に受け入れやすい感性だった。

そんなこんなで、僕はキーファーが大好きになった。
だが、彼がフランスに移住してからの創作活動に関しては、まったく状況がわからないままだった。その後、回顧展も来ないし、情報も伝わってこない。たまに現代美術の展覧会のうちの1点として見かけたり、欧州旅行中に美術館の常設展示で目にする程度。

その意味で、今回の『アンゼルム』にはたいへんに期待していたのだった。

― ― ―

で、どうだったか。
結論からいうと、ヴィム・ヴェンダースの映画としては、それらしいルックを備えているし、絵画鑑賞にも似たゆったりしたテンポの撮影は、キーファー作品を擬似体験するにはうってつけだ。
だが、アンゼルム・キーファーという偉大な芸術家を、まだあまり知らない人達に「紹介」する「プロモーションフィルム」としては、いささか物足りない出来だったというのが、僕の偽らざる感想だ。

個人的には、もっと正攻法でやってほしかった。
アトリエ内をくまなく撮って回って、
出来る限りたくさんの作品を映して、
なるべくキーファーにしゃべらせて、
彼の制作風景を映像として記録する。
なるべく長尺で、演出もなく淡々と。
それで、十分だった。

まず、作品を捉える画角に、ヒキが多すぎるのが気にくわない。
キーファー作品の真骨頂は「モニュメンタリティ」だ。
そっと風景にまぎれて佇んでいるような公共芸術ではない。
周辺を圧するオーラで観る者を釘付けにする、猛烈に「圧の強い」芸術だ。
ヴェンダースの引いた視点では、その圧倒感がどうもうまく伝わらないのだ。
もっと近くに立って、360度煽って撮ってほしかった。
作品の巨大さ、風格、孤高の精神性を身近に感じさせてほしかった。

一方で、キーファーの真骨頂は「マチエール」にこそある、という言い方も出来る。
マチエールとは、絵の具の材質と使用状況からなる絵肌の調子のことを指す美術用語だ。
あらゆる文物を貼り付けた、独特の荒れた表面の感覚。あれこそが、キーファー作品をキーファー作品たらしめていると言って良い。
それなのに、ヴェンダースの撮り方には、近接写が足りないのだ。
もっと、寄せて、寄せて、寄せまくって、撮ってほしかった。
画面上で素材と偶発性の織り成す機微を、肉眼で顔を寄せて追い続けるように追ってほしかった。

3D撮影という選択自体は、わからないでもない。
むしろ、正しい選択であるように思う。
キーファー作品には立体造形も多いし、空間内の彫刻作品の雰囲気を知るには、3Dはメディアとして適任だからだ。画面のマチエールのニュアンスを捉えるという意味でも、3Dは2Dより情報の劣化が少ない。
なのに。なぜ、そのうまみを生かして、画面の微細な質感をじっくり捉えようとしない?

ヴェンダースの撮り方は、総じて冷徹で落ち着いた、ぐっと押し殺したものに終始している。それはたしかにスタティックで、スタイリッシュだけれど、僕のキーファー愛には残念ながらこたえてくれていない。
キーファー作品の本質は、「ミクロ」と「マクロ」の振幅の大きさだ。
そこを、うまく捉え切れていない。

こういう撮り方をするのなら、3Dでなくてもよかったくらいだ。
3D映像は、たしかに三次元空間を的確に認識できるが、妙にクリアすぎて人工的な感じがするし、メガネのせいで光量が落ちて画面が暗くなる。映画の佇まいがシックで地味に落ち着いてしまう。要するにメリットもあるぶん、デメリットもある。
なにより、ふだんメガネのうえにメガネなんかかけないから、どうしても気が散ってしまう。そして、暗くて、地味で、気が散ると……つい眠たくなってしまうではないか(笑)。

― ― ―

映画としては、少年期と青年期のイメージ映像を随所に導入して、それらしい仕上がりになっている。なっているとは思うが、せっかくキーファーの存命中のドキュメンタリーなのだから、もっと彼の人となりを知りたかったし、ふつうにしゃべらせてほしかった。

むしろ、映画の本編よりも、映画の宣伝で映画館サイドが外に掲示してあった田中泯のインタビュー(まさにこの映画.comの6月8日の記事)のほうが情報量が豊富で楽しかったくらいなのだが、彼いわく、アンゼルム・キーファーは哲学者みたいな風貌だけど、ダジャレばっかりいってる結構楽しいオヤジらしい。そういう一面はちゃんと見せてほしかったなあ。
(ヴェンダースとキーファーと田中泯は、同じ第二次世界大戦終戦の年に生まれ、キーファーはドイツ大空襲のさなかの3月8日、田中泯は東京大空襲のさなかの3月10日、ヴェンダースは原爆投下直後の8月14日に生まれている。三人とも現役バリバリ。おそるべき79歳ズだ。)

もちろん、面白かった部分もたくさんある。
何より、ドイツ・ヘッヒンゲンの旧アトリエと、フランス・バルジャックの新アトリエの内部に入り込んで、その芸術家のアトリエと呼ぶには破格の規模(バルジャックのアトリエの敷地は35ヘクタール、東京ドーム数十個分!)の様子をフィルムにおさめてくれただけでも素晴らしい。
てか、ほぼこれ、キーファーの個人美術館だよね。
明らかに、もう売らなくても生活できるのか、自作を一か所にきちんと確保して、インスタレーションとして並べている気配がぷんぷんするんだけど。
今でも館内ツアーとかないのかな? 死んだらちゃんと保存・公開してくれるんだよね?
超・超・見たいんだけど。
田中泯いわく、50以上のガラスルームがマテリアルの保管庫になっていて、すべてが地下道でつながっているらしい。なんだよ、そのお手製ダンジョン……。

巨大なアトリエのなかを、自転車で口笛を吹きながらうろつきまわるキーファー。
コロのついた背丈の3倍くらいある作品を押し出して自走させるキーファー。
キャンバスに貼り付けた藁をバーナーで焼き尽くして痕跡を残すキーファー。
背の届かない作品に、重機に乗って木べらでペンキを塗りたくるキーファー。

うーん、クールすぎる!!

あと、キーファーが斜めに張ったワイアーの上を、バランス棒をもって綱渡りしてる映像が突然挿入されるんだけど、なにあれ?? 趣味? 健康法? なにかの宗教儀式?
なんでイメージ映像みたいに流すんだよ。ちゃんと説明してくれよ。70代後半の老人で、綱渡りのできるアーティストってどんなスーパーマンなんだよ(笑)。
(全体にこの映画は、今どこで何を撮っているかの説明がほとんどなく、ところどころにフッテージ映像や若いころのインタビュー、新撮の再現映像などが散りばめられていて、映画らしいといえば映画らしいが、とにかく状況が追いづらい。ドキュメンタリーフィルムとしてはかなり「不親切」な部類に属すると思う……)

映画の出来自体には得心がいかなかったが、あらためてキーファーへの自分の愛情は確認できた。そして大きな目標がひとつできた。
必ず、バルジャックにあるキーファーのアトリエが公開されたら、行ってやる!!

じゃい