来し方 行く末のレビュー・感想・評価
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透明感と柔らかさに満ちた映像で紡がれる再出発への道
透明感あふれる映像の中で、人の生き様や遺したものを真摯に見つめる物語である。主人公は弔辞の代筆業を担っている。遺族に代わって故人の人となりをまとめる仕事だ。依頼者は北京で日々忙しく暮らす人ばかり。もしかすると10年先にはAIでたやすく代用される職かもしれないが、しかし今依頼が絶えないのは、彼のとても誠実なリサーチ力と、完成原稿のクオリティに定評があるから。案件によっては、遺族から話を色々と聞く中で、故人の知られざる思いを発見することもある。ではなぜ彼はこうして見ず知らずの人について掘り起こすことに長けているのか。ここに本作のもう一つの焦点と、なるほどと腑に落ちる展開がある。終始ゆったりとした語り口で、感情を荒げたり、感動を押し付ける真似はしない。悪人も出てこない。だからこそ、この再出発の物語に安心して身を委ねられる。決して派手さはないが、気がつけば不思議と心にエナジーが溜まっている一作だ。
読み手は物語が完結していないと次のページをめくれないように、遺族も故人の人生が完結しないと次に進めない
主人公のウェン・シャンは大学院まで進学しながら、脚本家として商業デビューが叶わず、不思議な同居人シャオインと暮らしながら、今は葬儀場での〈弔辞の代筆業〉のアルバイトで生計を立てている。丁寧な取材による弔辞は好評だが、本人はミドルエイジへと差し掛かる年齢で、このままで良いのか、時間を見つけては動物園へ行き、自問自答する。同居していた父親との交流が少なかった男性、仲間の突然死に戸惑う経営者、余命宣告を受けて自身の弔辞を依頼する婦人、ネットで知り合った顔も知らない声優仲間を探す女性など、様々な境遇の依頼主たちとの交流を通して、ウェンの中で止まっていた時間がゆっくりと進みだす(公式サイトより)。
主人公のウェンは脚本家を志しながらも、「多くの仕事を受けたが、全部未完成」である。他方で生業としている弔辞は、故人の人生を完成させる営為である。読み手は物語が完結していないと次のページをめくれないように、遺族も故人の人生が完結しないと次に進めない。弔辞をはじめ、火葬や葬儀といった一連の儀式は、徐々に大切な人の死を形象化し、これからも生きていかなければならないわたしたちを前に進めるためにある、人類が蓄積してきた叡智、あるいは切実な処世術である。
生活のためにだけにやっている弔辞執筆が、常に「テンションの低い」ウェンの完結できない創作に、とても静かに穏やかに反響していく様が、美しい映像で表現されている。内省的で、聡明で、温和なウェンをフー・ゴーが好演。この作品で唯一動的な登場人物であるシャオ・ジンスイ役のチー・シーがよかった。突然、立ち去り、いきなりアイスを買って戻ってくるシーンは素敵。経済発展を続ける中国に現在進行形で起きているであろう、仕事と人間性の狭間の葛藤や、要所に織り込まれるコロナのマスクなどの描写も良かった。あと猫も。エンドロールまでご覧ください。
ゆったりしっとりやわらかい
新宿武蔵野館で観た時は、ゆったりした雰囲気は好きなのに、エピソード量の割に主人公のウェンシャンが物静かすぎてイマイチ入ってこず。
でも好きな映画のはずだから、ちゃんと観たくて2回目。
故人との関係の長さ深さは人それぞれで、想いもそれぞれ。
接した人の視点で良くも見えるし悪くも見えるから、内容に納得いかないのも分からないではない。
一度観ているから、今回はそれぞれのエピソードがすんなり入ってきた。
感情があまり出ないウェンシャンがファンさんのお葬式で想いが溢れてしまうシーンは良かった。
そしてファンさんへの弔辞が沁みた。
原題のとおり、彼のまわり道は決して無駄ではないし、パソコンに向かう表情は晴れやかだった。
だけどやっぱりシャオインとの関係は分からなかった。そもそも生きてる人なのか?はたまたウェンシャンの心が具現化したものなのか?
おそらく彼女には見えてなかったような。
回り道の人生でも
文章で食べる事
「パソコンは逝去者の名前を3回入れるとその名前を学習してくれる」。 「そして時を経ても、なにかのきっかけでふとその名前がモニターに現れるんだ」。
弔辞を読んだ事がある。
親しい、早世した友人のために。
いつも一緒にいた人だから、その彼女の人となりは熟知していたし、ご家族の皆さんのこともよく知っている。
だから、旧知の人間の野辺送りのために言葉を贈ること=弔辞は、(辛いけれど) ある意味で出来ない事ではない。
うちの両親も齢九十を超え、食が細り、元気が失われてきている。先週から僕ら子供たちで「死亡広告」の数行の文案をいろいろと練り始めたところだ。僕が「叩き台」を出したので弟たちもそこに乗って「弔辞の添削作業」で盛り上がっている。
⇒本人を良く表す言葉は何か。
⇒その家族の眼差しを尊ぶ言葉はどこか。
準備するに遅すぎることはない。
けれど本作、
一度も会った事のない誰かの、その葬儀のために送り言葉をしたためるという「弔辞屋」についての話だ。
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日本では、少子高齢化の波は街角の姿の変わりように如実に現れている。逆台形の「人口年齢分布グラフ」は今にもひっくり返ってコケそうである。
指圧・整骨・マッサージ店の隆盛、
林立する高齢者デイサービスの出張所、
家族葬のための小規模斎場がここにもあそこにも軒並みあるし、
散骨や樹木葬の看板も頻繁に見かける。
・・これら高齢者向け、あるいはお葬式のためのエンディング産業が、潰れたコンビニの建物の居抜きとして、また大きな新築のビルとして、石を投げればどれかに当たるほどの社会な現象として、一大産業となっているのだ。
これはお隣の中国でも同じように、否もっと大変な規模と事態で、今まさに社会を揺るがしているはずだ。
今回のこの映画は、「何十年にも渡って一人っ子政策をやっちまった中国」の
引く手あまたの葬式産業について、
そしてその下請けであるひとりのアルバイト男=「弔辞屋」の物語なのだ。
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人生は 一章、二章、そして最終章の第三章から成ると主人公は呟く。しかし
【人生の第二章】で頓挫するのが我々の人生。そして死なのだと。
主人公は自分に失望している。
脚本家を目指して文学部の大学院まで行ったものの、躓き、そして頓挫した四十男のウェン・シャン。
満足などなし得なかった人の人生について
たくさんの死と別れに出会うことで彼も手探りの答えを見つけていく
その展開が、斬新で素晴らしかった。
― 生きて惑う人生こそ、つまり、「私の人生 今からだ!」と意気込んでいるさなかでの《第二章で潰えてしまう人生》こそ、嘘がない (そして恥じることのない) 我々の本当の生き方だったのだと、彼が気付いていくからだ。
死ぬことと、生きることの輝き。そこに彼は、己も自分自身として立ち会っている事を知るのだ。
⇒ いつも遺族にインタビューしてきたウェン・シャン。その彼のアパートに転がり込んできた変わり者の女から、今度は逆に根掘り葉掘り彼がインタビューを受け、初めて《取材される立場》を経験する事で、ウェン・シャンは自身の「来し方 行く末」の《自分の座標》を発見する。
これは新時代の、迷える現代人のためのシナリオと言えよう。
同居人(=実は主人公が作り出した幻影)や、バイト先の先輩、そして脚本学校の教師の言葉が光る。
パソコン、フリーター、同人アニメサイト、親や同級生たちへの卑屈感情、モラトリアム・・と、劇中の「キーワード」は今の僕たちに実感をもって寄り添ってくれる。
まったくこれは我々ためのシナリオと言えるのだ。
(死者はやさしく、すでに物言わぬ存在になっている所が、弱いナイーブな現代人への寄り添いと癒しになるのかも・・)。
そして登場人物は多いのだけれど、綿密な脚本の組み立てのお陰で、お見事、混乱は無い。
若い女性監督さんがこれを書き、撮ったらしい。信じがたい才能!
驚くべき重厚な人間ドラマだ。
かの国に蓄積し、数千年積み重ねられてきた文明と文学の、この土台の《厚み》。若き監督に開いたその開花を見せてもらって、まったく圧倒されてしまった。
そして物書きの映画らしく、たくさんの心に残る言葉のフレーズが僕の胸にも刻まれる。そうなのだ、
僕たち人の人生は、小さなエピソードと何気ない言葉の集積なのだ。
九十年生きれば九十年の、後から後から思い出す声とエピソードの、それは積み重ねだったのだ。
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今夜の塩尻 東座 ―
スリムで長身の社長=合木こずえさんは黒の革ジャンの上下に目も覚めるような深紅の丸いイヤリング。
レイトショーだったので他のお客さんが はけるのを待ってから、ロビーで見つめ合って語り合う。
この小さな映画館の主宰者にも、そして今夜の客の僕にも、映画に負けないムービーが、そして
「来し方〜行く末」が息づいているのかと思うと
全てが愛おしかった。
ありがとう、いい映画に出会えました。
やや技巧的に過ぎるという印象
脚本、演出はリュウ・ジャイン。漢字では劉伽茵となる。我々にはちょっと性別が分かりにくいが44歳の女性。2000年代初頭にはインディペンデントの映画製作者としていくつかの海外映画祭で賞を得た。現在は北京電影学院(公立大学です)で脚本を指導する先生らしい。
さてこの映画ではフー・ゴーが演ずる聞善(ウェン・シャン)は大学院まで卒業している脚本家志望の青年?という設定。明らかに北京電影学院出身者を意識していますね。彼は脚本が書けないため弔辞を書いて生計を立てている。日本でもそうだけどこれは葬儀、告別式ではなく、後日催される「偲ぶ会」とか「お別れの会」で読まれるもの。亡くなってからしばらく時間があくのでその間、取材もできるし推敲の時間も取れる。でも一方、発注側(遺族や会社関係など)にすれば当初の悲しみからはやや立ち直っているだけに弔辞の出来には厳しくなるわけだ。
よく言われるように死後の一連の儀式や手続きは故人のためではなく残された人たちのためにある。だから弔辞は、故人の業績、故人との交流を懐かしく、有り難く、思い起こすだけではなく、自分たちがまた前に進むよすがになるような内容が望ましいのである。
この作品では弔辞ライターである聞善自身が、弔辞を依頼した人々(なかには自分で自分の弔辞を依頼する人もいる)と触れ合う中で、自分自身も前に進む力を取り戻していく姿が描かれている。脚本家である聞善にとっては、それは、納得がいくまで再び、脚本を書いてみることに他ならない。
だから、彼の脚本の登場人物である少尹(シャオイン、イン兄ちゃんっていうところか)は明確な実像を持たないまま、ぼんやりと聞善と同居しているが、きちんとした名前や設定を身にまとい、原稿用紙(パソコンですが)に姿を移すこととなる。
ここまで書いてきて、整理してみて、よく分かるのです。確かによく書けた脚本だと思います。演出も抑制が利いている。
でも、なにか、いかにも脚本の先生が書いた優等生らしさがちらついてしまう。そこが、正直、この作品があまり面白くないところにつながっている気がします。
静か 薄味 分かりずらい 眠い…
“聞”
ふんわりと心地良い
大学院卒のウェン・シャン、
脚本家を目指すがデビュー叶わず、
葬儀場での弔辞の代筆業で生計を立てているミドルエイジ。
シャオインという不思議な同居人と暮らしている。
丁寧な取材や弔辞の内容へのこだわりは、彼の真面目な性格が判るところ。
そして、時間のある時は、動物園に出かけ、このままで良いのか自問自答。
自身が位置づけるのは普通のつまらない男らしいが、
中盤以降で、その存在の意味が判明するシェイオンとの同居や、
弔辞へのこだわりは、なかなか個性的な男に思うけど。
そんな彼に仕事を依頼する人々、
例えば、
同居していた父親との交流が少なかった男性、
仲間の突然死に戸惑う経営者、
余命宣告を受けて自身の弔辞を依頼する婦人、
ネットで知り合った顔も知らない声優仲間を探す女性などなど、
様々な境遇の依頼主たちとの交流し、いろいろな考え方に触れることにより、
自分を肯定していく様がやんわりと描かれていて、
ふんわりと心に染みて心地よく感じました。
優しい作品でした。
地味ながらじんわりと感動する秀作
ひとそれぞれの「来し方 行く末」 逝きし者とともに過ごした「来し方」は残されし者たちの「行く末」へと受け継がれる
もし日本のどこかの映画賞に海外映画ベスト邦題賞というのがあったら、この『来し方 行く末』 はノミネート間違いなしだと思います。それどころか、私の乏しい記憶力頼りで恐縮ですが、この十年来の海外作品の邦題でこれ以上のものはなかなか思い出せませんでした。
物語の主人公ウェン•シャンは高学歴のアラフォー独身男で脚本家になる夢破れ、北京の葬儀場で故人の関係者の依頼を受け、弔辞を書くことで生計を立てています。彼は様々な依頼者とその関係者たちを丁寧に聞き取り取材して故人の生前の姿を浮かび上がらせ、誠意を持って弔辞を作成してゆきます。その過程で故人とその関係者たちの来し方(過去)に触れた彼は、自分自身の不本意ながら過ごした感のある来し方を思い、自分が自分であることの大切さを噛みしめながら、前向きに行く末(未来)を生きてゆく決意を固めてゆく…… そんなアラフォー男の成長物語が静かな語り口で語られます。
原題は『不虚此行』。漢字の母国の四文字熟語のひとつで直訳すれば「この行ないは虚しくなかった」、すなわち、「無駄足ではなかった」の意味で達成感や満足感を表わす言葉として中国では日常生活でもよく使われるそうです。これはウェン•シャンに弔辞を依頼した人々がその弔辞のデキに満足し、彼の取材に足を運んだのが無駄足ではなかったと感じていることと同時に、彼自身の人生の来し方において脚本を書く勉強をしたこと、今の職業において丁寧な取材をして誠意を持って弔辞を書いていること、それらすべてが無駄ではなかったことも意味しているのでしょう。
そして英題は “All Ears”。耳を傾けて熱心に聞くといった感じの言葉で、 “I’m all ears. “ だと、「ぜひ、お聞かせください」といった訳になるでしょうか。聞き取り取材での彼の丁寧な仕事ぶりを表しています。彼の場合、ただ聞くだけでなく、相手が本当に伝えたいことが何なのかを掴み取ろうとしています。また、ある故人に対して複数の人が異なる内容を述べた場合にはそうなった背景を探し、背後にある真実に迫ろうとします。
こうして、日、中、英、それぞれのタイトルが少しずつ意味をずらしながらもちゃんとタイトルとしてうまく機能しているのはこの作品の企画がうまく練られている証左になっていると思います。
あと、気づいたこととしては、弔辞は形としては亡くなった人に捧げられるものですが、実は残された者たちのためにあるということです。去って行った者とともに過ごした来し方は残された者たちの行く末に受け継がれてゆくのですね。
この作品は規模感、熱量ともにそれほど大きくなく、割と私の好みに合っていました。また、静かな語り口も心地よかったです。あと、北京の風景も質実剛健といった感じでよかったかな。ちょっと甘いかなとも思いましたが、邦題が秀逸なのも追い風にしての星五つです。もうひとつ、この作品の監督、脚本を担ったリュウ•ジャインですが、1981年生まれの女性でチェン•カイコーやチャン•イーモウを輩出した北京電影学院の出身だそうです。43歳とこのテーマをやるにはちょっと若かった感じもするし、キャリアとしては20代前半に短篇一本、長篇一本あるだけの久しぶりの長篇劇映画で、人前で歌うことに慣れてない歌手のような含羞、照れみたいなものが出てたような気もします(それでも評価は下げませんが)。ただ、この才能はタダモノではないと感じたので、彼女の「行く末」に期待してチェックを入れておきました。
静かで柔らかで優しい
故人の人生を言語化すること
脚本家としての夢に破れ、弔辞の代筆業で生計を立てるウェン・シャン。さまざまな依頼人との交流を通じ、自身の夢に再び向き合うまでを描いた中国ヒューマンドラマ。
主人公ウェン・シャン演じるフー・ゴーの心の灯火が鎮火したお疲れ演技は魅力的。男前なのでずっと観ていられる。また不思議同居人演じるウー・レイも出演。昨今の中国映画の人気俳優二人だ。
さて、私なりの考察を。テーマの深堀は難しい。故人の人生を言語化することに加え、他省から来た主人公ですら北京語慣用句に戸惑う描写があり、普通話が出来たとて微妙に伝えたい事が違う。これで彼が真意を汲み取るのは困難だ。また葬儀慣習における弔辞(悼词)の重要性が分からない。弔辞は第三者に執筆してもらうのが慣習なのか。更に中国社会に生きる人しか理解しえない複雑な空気感のサインが時折あり、それを読み取る事は極めて難しい。
よって、映画としては、表層の会話・映像、漂う透明感ある雰囲気を楽しむ程度となってしまった。原題「不虚此行」(無駄足ではない)が割と的を得ていたというのが私の感想。挫折したウェン・シャンが再び情熱を燃やす様をご鑑賞ください。
つかみは抜群!
テーマは、素晴らしかった。最近、台湾でも、似たような題材を出発点として作られたテレビドラマのシリーズがあったのでは。
遺族に取材して弔辞を代筆するのが、主人公のウエン・シャンの仕事。追悼会と告別式が行われるとか、儒教の伝統が強く、何事にも積極的な中国社会は、我が国とは隔たりがありそうだった。
彼には、脚本家を目指して、大学院まで出ている経歴もあり、代筆の評判は上々だった。思ってもいないところから反響があって、彼のところを訪ねてくる人がいたり、弔辞を予約したりする人まででてくる。これが第一幕!
ただ、同居していた(人気俳優ウー・レイが扮する)シャオ・インの役割が、前半から予想される通りであることが、明らかになる。劇中でも危惧されたように、この第二幕に入る辺りから、迷走が始まった気がした。弔辞の代筆の過程に集中するのか(それはそれで面白かった)、シナリオを書くことに行き詰っていたウエン・シャンの生き方に戻るのか(さまざまなオファーも受けていたのに)、それぞれの人生を生きていた故人たちにこだわるのか(何人かの人生は、大変興味深いものだった)、特に、ネットで知り合った女性が乱入して以降、いずれの方向性ともはっきしないまま、何事も起きることなく、時間が過ぎてゆく。
その気配は、映画の冒頭からあった。タイトルの後、もう映像に入っているのに、役者やスタッフの名前が紹介される。映画に集中したいのに、何ということだと思った。ただ、経済的に発展の著しい中国社会では、それぞれの登場人物の不安は、強くないようだった。
題材は素晴らしいのに、大変、残念。おそらく、リウ・ジアイン監督には、映画の作製と関わることに迷いがあるのだろう。見守ってゆきたい。
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