来し方 行く末のレビュー・感想・評価
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透明感と柔らかさに満ちた映像で紡がれる再出発への道
透明感あふれる映像の中で、人の生き様や遺したものを真摯に見つめる物語である。主人公は弔辞の代筆業を担っている。遺族に代わって故人の人となりをまとめる仕事だ。依頼者は北京で日々忙しく暮らす人ばかり。もしかすると10年先にはAIでたやすく代用される職かもしれないが、しかし今依頼が絶えないのは、彼のとても誠実なリサーチ力と、完成原稿のクオリティに定評があるから。案件によっては、遺族から話を色々と聞く中で、故人の知られざる思いを発見することもある。ではなぜ彼はこうして見ず知らずの人について掘り起こすことに長けているのか。ここに本作のもう一つの焦点と、なるほどと腑に落ちる展開がある。終始ゆったりとした語り口で、感情を荒げたり、感動を押し付ける真似はしない。悪人も出てこない。だからこそ、この再出発の物語に安心して身を委ねられる。決して派手さはないが、気がつけば不思議と心にエナジーが溜まっている一作だ。
やや技巧的に過ぎるという印象
脚本、演出はリュウ・ジャイン。漢字では劉伽茵となる。我々にはちょっと性別が分かりにくいが44歳の女性。2000年代初頭にはインディペンデントの映画製作者としていくつかの海外映画祭で賞を得た。現在は北京電影学院(公立大学です)で脚本を指導する先生らしい。
さてこの映画ではフー・ゴーが演ずる聞善(ウェン・シャン)は大学院まで卒業している脚本家志望の青年?という設定。明らかに北京電影学院出身者を意識していますね。彼は脚本が書けないため弔辞を書いて生計を立てている。日本でもそうだけどこれは葬儀、告別式ではなく、後日催される「偲ぶ会」とか「お別れの会」で読まれるもの。亡くなってからしばらく時間があくのでその間、取材もできるし推敲の時間も取れる。でも一方、発注側(遺族や会社関係など)にすれば当初の悲しみからはやや立ち直っているだけに弔辞の出来には厳しくなるわけだ。
よく言われるように死後の一連の儀式や手続きは故人のためではなく残された人たちのためにある。だから弔辞は、故人の業績、故人との交流を懐かしく、有り難く、思い起こすだけではなく、自分たちがまた前に進むよすがになるような内容が望ましいのである。
この作品では弔辞ライターである聞善自身が、弔辞を依頼した人々(なかには自分で自分の弔辞を依頼する人もいる)と触れ合う中で、自分自身も前に進む力を取り戻していく姿が描かれている。脚本家である聞善にとっては、それは、納得がいくまで再び、脚本を書いてみることに他ならない。
だから、彼の脚本の登場人物である少尹(シャオイン、イン兄ちゃんっていうところか)は明確な実像を持たないまま、ぼんやりと聞善と同居しているが、きちんとした名前や設定を身にまとい、原稿用紙(パソコンですが)に姿を移すこととなる。
ここまで書いてきて、整理してみて、よく分かるのです。確かによく書けた脚本だと思います。演出も抑制が利いている。
でも、なにか、いかにも脚本の先生が書いた優等生らしさがちらついてしまう。そこが、正直、この作品があまり面白くないところにつながっている気がします。
静か 薄味 分かりずらい 眠い…
おみおくりの文法
脚本家への夢破れ、40歳を間近に停滞した人生を送る聞善(ウェン・シャン)。
葬儀業者から弔辞の代筆を請け負い糊口をしのいでいることを故郷の家族には内緒にしているが、同居人の青年から「本当のことを言え」と諭されても、「同じ物書きだから」と自分をごまかす。そんな彼の部屋には今も映画関係の書籍が幾つも並んでいる。
弔辞を仕上げるために近親者から聞き取りを続けると、物故者のあらたな一面が次々と明らかになるのは『市民ケーン』(1941)や『羅生門』(1950)のよう。
一見社交的ではないが、聞善の誠実な態度に依頼者も次第に信頼を寄せ、場合によっては故人との関わりを見つめ直す切っ掛けにもなっていく。
人間観察のために葬儀場に出入りするうち、弔辞の代筆をこなすことになった聞善は文章が評価されて依頼も次々舞い込み、周囲からも信頼を得ている。
故郷の人間から鼠眉(意気地なし)と呼ばれることを気にしているが、依頼主からは軸(頑固者)と言われることも。
聞善がいちばん理解出来ていないのは、自分自身なのかも知れない。
BGMもほとんどなく、セリフもまばらでゆったりと時間が流れる作品。観念的で中だるみする部分もあるのに最後まで弛緩せずに見られた理由は、大ヒット時代劇『榔琊榜』で競演した胡歌(フー・ゴー)と呉磊(ウー・レイ)が本作ではどのように絡み合うかに注目していたから。
本作で聞善を演じる胡歌は天才策士に扮した『榔琊榜』の時と異なり、風雲どころか波風も起こさない。
人生の最終章に辿り着けない社会の落伍者(と自分で決め付けている人間)を淡々と演じている。
悪くない映画なのに物足りなく感じてしまうのは、出演したTVドラマの多くで固定していたみずからの体育会系キャラを破って呉磊が新境地を示した『西湖畔に生きる』(2023)と較べてしまうから。そもそも、彼を本作にキャスティングした必然性をあまり感じない。
あくまで自己流の解釈だが、小尹(シャオイン)は聞善が考案した過去最高のキャラクターなのではという気がする。
溢れ出るアイデアを小尹を中心とした相関図にしてホワイトボード一杯に書き留めたものの、いつものごとく物語を結末まで導けず持て余す聞善の前に現れた小尹は、いつまでもフルネームがないことやセーター姿のままであることに文句をつけ創造主に進歩を促す。
いる筈のない小尹の名を呼びながら、悲しげな表情で聞善が家の中を徘徊する謎めいたなラストシーンが不思議な余韻を残す。
“聞”
ふんわりと心地良い
大学院卒のウェン・シャン、
脚本家を目指すがデビュー叶わず、
葬儀場での弔辞の代筆業で生計を立てているミドルエイジ。
シャオインという不思議な同居人と暮らしている。
丁寧な取材や弔辞の内容へのこだわりは、彼の真面目な性格が判るところ。
そして、時間のある時は、動物園に出かけ、このままで良いのか自問自答。
自身が位置づけるのは普通のつまらない男らしいが、
中盤以降で、その存在の意味が判明するシェイオンとの同居や、
弔辞へのこだわりは、なかなか個性的な男に思うけど。
そんな彼に仕事を依頼する人々、
例えば、
同居していた父親との交流が少なかった男性、
仲間の突然死に戸惑う経営者、
余命宣告を受けて自身の弔辞を依頼する婦人、
ネットで知り合った顔も知らない声優仲間を探す女性などなど、
様々な境遇の依頼主たちとの交流し、いろいろな考え方に触れることにより、
自分を肯定していく様がやんわりと描かれていて、
ふんわりと心に染みて心地よく感じました。
優しい作品でした。
ひとそれぞれの「来し方 行く末」 逝きし者とともに過ごした「来し方」は残されし者たちの「行く末」へと受け継がれる
もし日本のどこかの映画賞に海外映画ベスト邦題賞というのがあったら、この『来し方 行く末』 はノミネート間違いなしだと思います。それどころか、私の乏しい記憶力頼りで恐縮ですが、この十年来の海外作品の邦題でこれ以上のものはなかなか思い出せませんでした。
物語の主人公ウェン•シャンは高学歴のアラフォー独身男で脚本家になる夢破れ、北京の葬儀場で故人の関係者の依頼を受け、弔辞を書くことで生計を立てています。彼は様々な依頼者とその関係者たちを丁寧に聞き取り取材して故人の生前の姿を浮かび上がらせ、誠意を持って弔辞を作成してゆきます。その過程で故人とその関係者たちの来し方(過去)に触れた彼は、自分自身の不本意ながら過ごした感のある来し方を思い、自分が自分であることの大切さを噛みしめながら、前向きに行く末(未来)を生きてゆく決意を固めてゆく…… そんなアラフォー男の成長物語が静かな語り口で語られます。
原題は『不虚此行』。漢字の母国の四文字熟語のひとつで直訳すれば「この行ないは虚しくなかった」、すなわち、「無駄足ではなかった」の意味で達成感や満足感を表わす言葉として中国では日常生活でもよく使われるそうです。これはウェン•シャンに弔辞を依頼した人々がその弔辞のデキに満足し、彼の取材に足を運んだのが無駄足ではなかったと感じていることと同時に、彼自身の人生の来し方において脚本を書く勉強をしたこと、今の職業において丁寧な取材をして誠意を持って弔辞を書いていること、それらすべてが無駄ではなかったことも意味しているのでしょう。
そして英題は “All Ears”。耳を傾けて熱心に聞くといった感じの言葉で、 “I’m all ears. “ だと、「ぜひ、お聞かせください」といった訳になるでしょうか。聞き取り取材での彼の丁寧な仕事ぶりを表しています。彼の場合、ただ聞くだけでなく、相手が本当に伝えたいことが何なのかを掴み取ろうとしています。また、ある故人に対して複数の人が異なる内容を述べた場合にはそうなった背景を探し、背後にある真実に迫ろうとします。
こうして、日、中、英、それぞれのタイトルが少しずつ意味をずらしながらもちゃんとタイトルとしてうまく機能しているのはこの作品の企画がうまく練られている証左になっていると思います。
あと、気づいたこととしては、弔辞は形としては亡くなった人に捧げられるものですが、実は残された者たちのためにあるということです。去って行った者とともに過ごした来し方は残された者たちの行く末に受け継がれてゆくのですね。
この作品は規模感、熱量ともにそれほど大きくなく、割と私の好みに合っていました。また、静かな語り口も心地よかったです。あと、北京の風景も質実剛健といった感じでよかったかな。ちょっと甘いかなとも思いましたが、邦題が秀逸なのも追い風にしての星五つです。もうひとつ、この作品の監督、脚本を担ったリュウ•ジャインですが、1981年生まれの女性でチェン•カイコーやチャン•イーモウを輩出した北京電影学院の出身だそうです。43歳とこのテーマをやるにはちょっと若かった感じもするし、キャリアとしては20代前半に短篇一本、長篇一本あるだけの久しぶりの長篇劇映画で、人前で歌うことに慣れてない歌手のような含羞、照れみたいなものが出てたような気もします(それでも評価は下げませんが)。ただ、この才能はタダモノではないと感じたので、彼女の「行く末」に期待してチェックを入れておきました。
静かで柔らかで優しい
故人の人生を言語化すること
脚本家としての夢に破れ、弔辞の代筆業で生計を立てるウェン・シャン。さまざまな依頼人との交流を通じ、自身の夢に再び向き合うまでを描いた中国ヒューマンドラマ。
主人公ウェン・シャン演じるフー・ゴーの心の灯火が鎮火したお疲れ演技は魅力的。男前なのでずっと観ていられる。また不思議同居人演じるウー・レイも出演。昨今の中国映画の人気俳優二人だ。
さて、私なりの考察を。テーマの深堀は難しい。故人の人生を言語化することに加え、他省から来た主人公ですら北京語慣用句に戸惑う描写があり、普通話が出来たとて微妙に伝えたい事が違う。これで彼が真意を汲み取るのは困難だ。また葬儀慣習における弔辞(悼词)の重要性が分からない。弔辞は第三者に執筆してもらうのが慣習なのか。更に中国社会に生きる人しか理解しえない複雑な空気感のサインが時折あり、それを読み取る事は極めて難しい。
よって、映画としては、表層の会話・映像、漂う透明感ある雰囲気を楽しむ程度となってしまった。原題「不虚此行」(無駄足ではない)が割と的を得ていたというのが私の感想。挫折したウェン・シャンが再び情熱を燃やす様をご鑑賞ください。
【”誰もが人生の主人公”今作は現代中国の家族、競争化社会、人生観、死生観の観点も取り入れ、知らない人の人生を丁寧に調べ弔辞を代筆する、脚本家になる夢を諦めた男が徐々に再生していく物語である。】
■大学院まで進学しながら、脚本家の夢を諦め、精気のない表情で過ごすウェン・シャン。(フー・ゴー「鵞鳥湖の夜」以来である。)
彼は、弔辞の代筆(って、そんな商売あるんかい?)で生きている。
丁寧な遺族、知人への取材に基づく弔辞は好評だが、同居人シャオイン(ウー・レイ)から、色々と突っ込まれている日々である。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
ー ウェン・シャンが弔辞の代筆を請け負った人達 ー
1.亡き長兄の人物像が異なる弔辞を依頼した弟と、海外にいる妹。
2.仕事に忙殺されて、同居していたのに亡き父と会話が無かった息子。で、ウェン・シャンが所在中も矢鱈とメールが来て仕事の指示を出している。
3.余命宣告を受けた老婦人は、自身の弔辞を依頼する。
4.一緒に起業した親友の急死に戸惑い、会社が傾きかけている中頑張る、誠実な青年。
ウェン・シャンは、彼らから、故人の人柄を丁寧に取材し、故人の人生に向き合い弔辞を書いて行くのである。
・ウェン・シャンの、故人の人生を取材により時系列にまとめ、弔辞に入れて良い事、入れない方が良い事をキチンと整理していく姿。彼の誠実な人柄が見えるし、それをフー・ゴーが繊細に丁寧に演じているのである。
・そして、ウェン・シャンはその作業の過程で、知らなかった人間の弔辞を丁寧に取材し書くことで、社会から取り残されているのではないかという焦燥感や、諦観を徐々に取り払って行くのである。
・アクセントとなっている、同居人シャオインの存在自体が、ウェン・シャンの創造物だったという設定も、この作品に不思議な余韻を与えていると、思ったな。
<今作は、現代中国の家族の在り方、競争化社会、人生観、死生観の観点も取り入れた、知らない人の人生を丁寧に調べ弔辞を代筆する脚本家になる夢を諦めた男の、徐々に再生して行く物語なのである。>
つかみは抜群!
テーマは、素晴らしかった。最近、台湾でも、似たような題材を出発点として作られたテレビドラマのシリーズがあったのでは。
遺族に取材して弔辞を代筆するのが、主人公のウエン・シャンの仕事。追悼会と告別式が行われるとか、儒教の伝統が強く、何事にも積極的な中国社会は、我が国とは隔たりがありそうだった。
彼には、脚本家を目指して、大学院まで出ている経歴もあり、代筆の評判は上々だった。思ってもいないところから反響があって、彼のところを訪ねてくる人がいたり、弔辞を予約したりする人まででてくる。これが第一幕!
ただ、同居していた(人気俳優ウー・レイが扮する)シャオ・インの役割が、前半から予想される通りであることが、明らかになる。劇中でも危惧されたように、この第二幕に入る辺りから、迷走が始まった気がした。弔辞の代筆の過程に集中するのか(それはそれで面白かった)、シナリオを書くことに行き詰っていたウエン・シャンの生き方に戻るのか(さまざまなオファーも受けていたのに)、それぞれの人生を生きていた故人たちにこだわるのか(何人かの人生は、大変興味深いものだった)、特に、ネットで知り合った女性が乱入して以降、いずれの方向性ともはっきしないまま、何事も起きることなく、時間が過ぎてゆく。
その気配は、映画の冒頭からあった。タイトルの後、もう映像に入っているのに、役者やスタッフの名前が紹介される。映画に集中したいのに、何ということだと思った。ただ、経済的に発展の著しい中国社会では、それぞれの登場人物の不安は、強くないようだった。
題材は素晴らしいのに、大変、残念。おそらく、リウ・ジアイン監督には、映画の作製と関わることに迷いがあるのだろう。見守ってゆきたい。
中国の男性の物語。 脚本家になる夢が叶わず、ひとさまの弔辞を代筆す...
口数が
同居人はもしかすると主人公の分身かも。
フランソワ・トリフォーの作品に、有名人が亡くなった際、追悼文を専門に書く新聞記者の物語があったような記憶がある。随分昔の話なので、映画を観たかどうかの記憶も曖昧だ。
この映画を観ていて、そんな事を思い出した。
大きな事件も起こらず、たんたんと物語は進んで行く。退屈する人もいるだろう。自分が納得する弔辞を書くために、亡くなった人の生きざまを家族や関係者に調査する。浮かび上がってくるのは、故人がどのように生きたかである。着眼点が良いなぁと感じた。
終わりに近づいて、もしかして同居人は主人公のもう一人の分身ではないかと思えてきた。名前から主人公が書き上げようとしている脚本の主人公かもしれない。
日本では弔辞は葬儀で読まれるが、中国では追悼会で読まれることを知った。
観に行った甲斐があった
原題「不虚此行」は「むだ足を踏まなかった、行ったかいがあった、やったかいがあった」という意味。
主人公のウェン・シャンは「弔辞ライター」
(この職業、監督の創作)
ほんとうは脚本家になりたかったんだが、
今は弔辞の原稿作成を代行する仕事で食べている。
依頼者それぞれの物語を、ウェン・シャンは深掘りしていく(時には依頼者が迷惑そうでも)
深掘りしていく中で、
さまざまな人生が見えてくるとともに、
不思議な同居人の謎も、
ウェン・シャン自身の人生も、
徐々に浮かび上がってくる。
リュウ・ジャイン監督みずからインタビューで「大事にした」と語っているように、
「間(ま)」が絶妙。
台詞以外での表現が絶妙。
クスッと笑える場面も一再ならず。
派手な展開とは無縁だが、
ストーリーのメリハリもあって飽きずに観られた。
鼠眉
普通の人生を肯定してくれる
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