「不登校の現役中3が感じた「本作に仕込まれた二重構造」 ※映画鑑賞後に読むと10倍面白い」小学校 それは小さな社会 かによえさんの映画レビュー(感想・評価)
不登校の現役中3が感じた「本作に仕込まれた二重構造」 ※映画鑑賞後に読むと10倍面白い
※タイトルにもあるとおり、先に一度映画を鑑賞し、ご自身の感想を持ってから読むことを強くお勧めします。鑑賞前に読むと、映画を純粋に楽しめなくなるかもしれません。
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他のレビューはおそらく大人の視点から書かれているが、私は今まさに義務教育を受けている年齢、それも不登校の立場からのレビューだ。
結論から言えば、この映画は立場によって全く異なる感想を抱かせる"二重構造"を持つ作品である。
ホームページでは小学校のことがすごくポジティブに書かれていた。
「世界各国で大反響!」「日本の教育も悪くない」とか。
映画を見た外国人が小学校の教育を賞賛しているコメントをアピールしていた。
だから、さぞかし「日本の小学校っていいな」って思える映画なのだろう、と思い、鑑賞を楽しみにしていた。
だが、実際は全く違った。
むしろ、鑑賞後に真っ先に浮かんできた感想は「教育って難しいな」ってこと。
予想通り、鑑賞中は何度も泣いた。泣いた場面と理由は様々で「先生が苦労し試行錯誤している」「1年生なのに責められて可哀想」「この子、成長してるなあ」とか。
泣いたけれども、小学校に対して肯定的な意見は持てなかったし、単なる「感動的な映画」で片づけられるものでもなかった。
私は中学生の初めから不登校になったが、小学校は通いきった。
その上で「1年生ってこんなに厳しかったかな?」って思った。
少なくとも、これが「平均的な現代の小学校」とは思わない方がいいかもしれない。
特に印象に残ったのは、1年生が新1年生を歓迎するために楽器を演奏することになった場面。
楽器が全然できなかった女子児童1人を先生が責め、他の児童に
「なんでみんなはできるの?」→他の児童「きちんと練習してるからです」
「オーディションに受かったらそれで終わり?」
的なことを言ってとにかく泣かされていた。胸が痛くなった。
その後無事に楽器を演奏できて、先生に褒められる、って流れなんだけど、さすがにこれは気持ち悪くなった...。
いじめの原因を作っているような。というか、他の児童を引き合いに出して「きちんと練習してるからです」って言わせるのって、"先生公認のいじめそのもの"な気がする。
繰り返しになるが、この部分はかなり心に残った。
「この子、可哀想だな」と感じ、まるで自分が責められているかのように、ここでめちゃくちゃ泣いた。
ただ、ここまでではなくても、私の小学校でも公開処刑が何度もあったことは事実。
小中学校の悪いところってまさにそれで、なんでも「集団責任」「公開処刑」の傾向が強すぎる。
集団のミスならまだしも、個人のミスなら、あとで呼び出して1対1で叱ればいいだけなのに。
あの女子児童や私たち日本人の多くが経験した"洗脳"はこうだ。
①公の場で自分1人だけ叱られた児童は、精神的ダメージを受ける
②自己肯定感がすっごく下がる
③その後、小さな成功や褒められることで精神的な報酬を得る
④それにより、叱られたこと自体を「自分が悪かったから」と納得するようになる
⑤結果的に、教育システム(または権威者)への従属意識が強まる
これは日本の教育現場で多用されているが、学校に限らず社会でも日常的に行われている手法だと思う。
そう、この場面も、"社会の縮図の一部"として機能していたのだ。
実は私も、小学5・6年でこの手法を多用する先生に当たった。
自己肯定感は下がり続けたが、小さなことで褒められたのでその先生を好きになった。最初は「こんなことで怒るの?」と思っていたが、次第に納得し、自分の心の中でさえ反抗しないようになっていった。ーーそう、これが「洗脳」だ。
なんとか小学校は乗り越えたが、中学校に入りさらに自己肯定感が下がり、耐えられず不登校になった。そのとき、小学校の日々が"洗脳"だったことに気づいた。
もし中学で不登校になっていなければ、洗脳には気づかないままだっただろう。
ただ、今の教師に1対1で向き合って叱る時間なんてないのかもしれない。見せしめ的な意味合いもあるのだろう。その根底には、教師不足もあるのではないだろうか?
だから、各々の教師のやり方だけが悪い、とも言い切れないのがまた複雑である。
もちろん、「叱られるようなことをする自分が悪い」と言えばそうかもしれない。叱られることを最初からしなければいいのかもしれない。環境のせいにしてはいけないのかもしれないし、実際私は自分も悪かったとも思っている。
でも、この女子児童が叱られているところを、当事者ではなく第三者の視点から見て、確信した。
「それでも、こんな叱り方は間違っているのではないか」と。
むしろ、私はこの映画を観て改めて「中学生で不登校になってよかった」とも思ってしまった。小中学校のつらい日々を思い出してしまったからだ。
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映画の意図について考察
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この映画では細かいところで児童が先生に注意される様子が度々見られる。
監督は、あえて"窮屈に感じる日本教育らしい場面"を多く選んだのかもしれない。
他にも印象に残ったシーンはある。
「ふざける1年生の児童に児童同士で注意しあうシーン」
「運動会の縄跳びがうまく跳べない6年生の児童に、ペアの子が指摘するシーン」
これらのシーンも、児童が日本式教育を施され、日本人として仕上がっていることの象徴だ。
このような「児童同士の指導」をするように仕向ける教育は、言い換えれば「同年代の子供同士が集団内の規律を守る役割を担わせる」ということ。
700時間の撮影の中であえてこれらのシーンをカットせず入れたのは、「日本的な集団の在り方」を描こうとしたのだろう。もちろんそこには賛否両論あって当然だ。
この映画は、日本社会や保護者にとっても日本の教育を再考できるいい機会になると思う。
最初に"二重構造"と言ったのはまさにこれだ。
外国人から見れば、自分の国の教育の悪いところを埋めているように見えて「日本の教育は素晴らしいな」と思うのかもしれない。
だが、日本人から見れば、日本の教育について再考し、賛否両論を巻き起こす"起爆剤"となるのだ。私や他のレビューにあるように。
もしかすると、この映画は最初からそのような狙いがあったのかもしれない。
山崎エマ監督は中高ではインターナショナルスクールも経験している立場だ。
ホームページにもこう書かれている。
「いま、小学校を知ることは、未来の日本を考えること」
つまり、日本人の鑑賞者に対する、監督の本当の狙いは「未来の日本社会のために、日本人に教育の在り方を考えさせること」だったのではないだろうか。
もしそうなら、このレビューサイトで私を含めた多くの日本人の間で賛否両論を巻き起こしている時点で、その狙いは一部成功したと言えるだろう。
かくいう私も、「教育は何が正解なのか?」は分からない。
教師不足もあり、教育のリソースには限りがある。また、日本社会で生きていくためには、こうした価値観を均等に植え付けることが必要なのではないか、という考え方もある。
総じて「教育って難しいな」という結論に至ったのだ。
「学校教育の在り方」「日本人とはなにか」について改めて考えさせられる、ある意味での傑作であった。