異人たちのレビュー・感想・評価
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切ない物語、映像美
ネタバレあります
話はとても切なく、アダムの切ない笑顔に胸が締め付けられました。寂しかった、怖かったという気持ちが私にも伝わってきました。
ゲイであることで感じる寂しさと孤独なことの寂しさは違うと言うセリフが刺さりました。寂しいことには違いないと思いますが。
性的マイノリティの話によくある、生きやすい世の中をといったことは全くなく人間的な寂しさの話で共感できました。
抱きしめてやれなくてすまないのシーン、アメリカンダイナーのシーンで号泣。自分の中に寂しい記憶がある人は特にしっかり伝わると思います。アダムの虚しさ。
そして、映像が美しい
色味が美しく、色彩ははっきり鮮やかめでいい映像体験でした。なんといってもピントの浅さ。この要素だけで映画が構成されて没入感につながるという不思議な体験でした。普通ならカットを割るところをピントを移すという方法は新鮮でした。背景がボケていることで見える世界は演出的に最高でした。
とても好きな映画です。あくまで『異人たち』を見ました。
思ったより上品
ゲイ作品ですが激しい性描写はなく、1人の人間のストーリーなので、女性1人でも安心して見れます
進行はゆったりですが、静かさがあり、内なる悲しさが秘めているのが伝わります。
実家に行くたびに自分がもらいたかった言葉をもらいに行く。子供に帰る。
会えた嬉しさとカミングアウトした後の絶望感の差
窓に映る顔やエレベーターなど所々にフランシス・ベーコンやクイーンのミュージックビデオっぽい映像
最後は絶望のような安心のような。
しかし相手がどうであれ、自分が愛され、自分が愛する人がいるので良かったのではと思います
「異人たち」のお話
あの世の人たちも、ゲイの人達も、私には「異人たち」でした。
ゲイの人達を許すとか許さないとか、認めるとか認めないとか、その昔同性愛は犯罪だったり、元々はキリスト教で禁じられていた名残ですかね。
たとえ親であっても他人が言うことじゃないと思う。人としての性質なんだから、神でもない同じ立場のヒトが許すも許さないもないでしょうに。
他人が言えるなら、自分が受容できるできない、共感持てるか持てないか好きか嫌いか、あくまでも自分の個人的な感覚としてどうなんだということだけだと思う。
どうしてもだめなら個人的にそっと距離を保てば良いでしょう。
積極的に危害を加える言動はもっての外ですが、個人として感覚的に受け付けない人に、受容や積極的に共感を持つこと、好きになることを強制するのも違うと思うので。
アダム自身がもしかするとすでにあちらの世界に片足突っ込んでいるのかもしれません。
あの世とこの世の間の踊り場にいる状況。
アダムが生きている人と会話など交流しているシーンがない。
あのマンション・ビルにハリーと二人しか住んでいないのも、現し世だと不自然だし。
自分の家庭の話を書いていて行き詰まったにしても、唐突に実家に行こうと思い立つ大きなきっかけがあっても良さそうだし(死にかけている状況に陥った)、亡くなった両親が実際に出てきてもさほど驚かないのも、なにか自分で悟るところがあるからじゃないでしょうか。
両親に会うたびにHPが削られるというのをもっとはっきり示したほうが良かったと思う。
息子を思うがゆえにもうこれきりにしよう、という両親の気持ちが伝わりにくいです。
アンドリュー・スコットは、私には「モリアーティ」なんですよ、シャーロック!の怪演で演技派なのは良く知っており、本作も好演でした。彼自身ゲイをカミングアウトしてますね。
ハリーが実は… というのは日本版とちがってるけど、こちらのほうが断然良いと思います。誰かに見つけて欲しかったんだよね、とうるっときました。
アダムの父のジェイミー・ベル、なんかもったいない使い方だと思いました。
おじさんふたりの赤裸々な行為は、あまり見たくなかった
「エゴイスト」が大丈夫だったのはふたりが若くて美しかったからでしょう
日本版と違って親子の情愛割とドライ、郷愁要素なし、で、ホラー映画としてそこそこおもしろかったです。
追記)
種々の現象の元をたどると、アダムの孤独がある気がします
私の勝手な解釈ですが、死にかけている状況になって、リアルではできなかった願望を叶える「幻想」を見たのかもしれないと思いました。
自分を理解してくれて心身ともに寄り添ってくれるパートナーができ、すでに亡くなっている両親にゲイをカミングアウトし、自身のわだかまりも話し合って解いて理解し合う、孤独な男の切なる願望だったのかも。
映画「異人たち」のネタバレ考察・映画感想文
・物語
とある男がいる。名前はアダム。
彼に対してある日、別の男が部屋まで来て誘いをかける。名前はハリー。
ハリーは「一緒に君の部屋で過ごさないか」とアダムを誘うがアダムはそれを断る。
だがまた再会の機会があり、アダムとハリーはだんだんと近づき恋人同士になるのだった。
これはまた別の話だが、アダムはとある夫妻を訪ねる。アダムと同年齢ぐらいの夫婦だ。
アダムを見て夫妻は「あの子だ!」と言う。一体どういうことだろうか。
アダムとハリーの件があった後だけに、もしかしてこの夫妻の夫もしくは妻の方がアダムとロマンス的な関係を持つのではないかと思わせるのだが、そうなりそうな雰囲気だけを漂わせて、実際にはそうはならない。
話を聞くうちに段々とアダムはこの夫妻の子供であるということが明らかになる。見かけ的には夫妻はアダムと同じ年齢ぐらきに見えたのですぐには分からなかった。最初は昔近くに住んでいた近所の人かと思った。だが親と子だった。
アダムは自分が芸であることを母と父に打ち明ける。母はそれに戸惑いを隠せずに偏見の言葉を投げつける。父は最後にはアダムを受け入れて、子に対しての過去のおこないも懺悔する。
アダムは自分がゲイであることによってか、子供の頃から周りにいじめを受け、まだその激しい痛みがトラウマとして残っているのだった。それに対してアダムの父は見てみぬふりを決め込んでしまった。その昔からのわだかまりについて父子で話し合い、ある部分、融解する。
こうしてアダムと父母は久しぶりに再会した。なぜ離れ離れになってしまったかの真相は明らかでない。何らかの事情があったようだ。
そしてアダムはその日、父と母と同じベットで眠る。だが同時に悲しい夢を見る。いつの間にか隣には恋人のハリーがおり、だが逆側を振り向くと隣にいたはずの母はいない。そしてまた振り向くとハリーがいない。
唐突に大事なものが失われ、この世界でひとりぼっちになるような悪夢から目覚める。一体何が現実で何が夢なのだろう。アダムが訪ねた父母の記憶はどこまでが現実だったのだろうか。
アダムは現実の世界でハリーと一緒に父母の家を訪ねる。だがそこには誰もいない。ドアを激しく打ち付ける。だがそれもまたアダムの見た夢であり、アダムは何度も現実に目覚めて行く。
そしてアダムは気づく。彼の父母は彼が幼い頃に既に交通事故で亡くなっていることを。アダムは自分の幻覚の中で父母と再会し、打ち解けあったのだった。彼と彼の両親が同じぐらいの年齢に見えたのも納得が行く。彼は彼が幼い頃の、若い頃の両親と幻覚の中で再会していたのだ。
さらにだ。彼が恋人であるハリーの部屋を訪ねると、彼はおそらく薬物の過剰摂取で死んでいた。いたたまれない。打撃の後に打撃。なんて救われない物語だろうか。
実は彼はハリーと恋人にさえなっていない。ハリーが孤独感に耐えきれずアダムの部屋の前を訪れた後、ハリーは自ら命を絶ったのだった。それもアダムが彼の誘いを断ったがために。
唯一の救いの綱であるはずのハリーとの関係でさえ壊れた。というよりも本当は始まってさえいなかった。
彼ら二人はまた夢の中で抱き合い、そのまま光の中に吸い込まれ、夜空の星と同化するのだった。
・感想
このように非常に悲しい物語だった。
誰でもいちどは夜に目が覚めて、本当に愛すべきものを失ってしまったような、そんな孤独でたまらない気持ちを味わったことがあるんじゃないだろうか。これはそんな感覚を描いた映画だと思う。
「ボーはおそれている」のようにせん妄が起き続け、どこまでが夢で現実が分からない。
エンドクレジットを観ると原作が日本の小説で驚いた。しかも調べたところかなり古そうな小説だ。これはぜひ読んでみたい。
・久しぶりの映画館
しばらく毎日のように映画館に通っていたが、ここ1週間ほどは行けていなかった。1週間ぶりでも自分にとっては久しぶりだ。
こうして久々に映画館に来るとやっぱり良い。毎日通い詰めだと良さが見えなくなりがちだけれど、映画館というものの良さを再確認した。
映画そのものの内容も大事だけれど、それ以上に「映画館で過ごす」という体験自体が好きだ。仕事が終わってただ家に帰るのではなく、映画館に寄れば、もうひとつ人生を生きることができる。
アマプラとか配信で映画を観るのも決して悪くはないのだが、あの映画館の大きなスクリーンが恋しくなる。あとは部屋で完全に一人でいるのは孤独だ。それよりも公共の場所であるシアターの方が良い。「文化的な営みをしている」という感じがする。
たぶん映画鑑賞によって情緒だって育まれる気がする。映画鑑賞をしないと情緒が育まれない。つまり僕から映画館を取り去ったらもう非人間である。
人間性よ。
失われたものに耽溺することは罪?それとも救い?
人は本質的に孤独なのだけど、ただ子ども時代だけはその事実と向き合わずに済んでいたということを思い出してしまう。微笑みかけ、はげまし、心配してくれる両親との時間、その時間と大事に守られただ無邪気でいられた時の記憶は人のベースになるものだろうし、その失われ方が苛烈であればあるほど、引きずってしまうことになるのだろう。だからアダムはどこか呆然として生きているように見える。愛することが怖いのは失うことが怖いのと同義。アダムの選択は、途方もなく孤独に見えるけれど、優しくて思いやりのある大人に育っているからこそなのかもしれない。
アダムと両親との時間は愛に満ちていて、切なすぎた。
そして、これからのアダムも。
アンドリュー・スコットは素晴らしかったと思う。彼の孤独と、それを癒やす奇跡に飲み込まれそうになる作品だった。
よく分かりませんでした
本作は奇抜な設定にしたことが活かせていないと言うか、むしろ裏目に出てしまっていると思います。
本来なら家族や恋人との愛を伝える感動的な作品にしたかったのだと思いますが、奇抜な設定にしたことにより私的には何かオチや意図を期待してしまいました。ところが、そのようなものは何もないので、観終わった時に感じたのは感動ではなく「奇抜な設定は何だったの?」でした。なので、何をしたいのかよく分からなかったというのが正直な感想です。奇抜な設定にするならするで、終盤まで死んでいることが分からないようなストーリーにして最後に観客の意表をつくなどのオチがあった方が良かったと思います。
それと、主人公の設定をゲイに変更した意図も分かりませんでした。もし、ポリコレを意識したものだとしたら、もういい加減やり過ぎだと思います。私は映画を観ながら作品とは関係ないことに気を取られたくありません。
限られた時間の疎外
All of Us Strangers
単なるクィアの映画ではない。事故が無ければもっと時間も取れて、家族同志分かり合い、その後で(理想的には)周囲にも理解を拡げていけたはずだ。アダムがマイノリティと辛さは別と言うように、本来は互いに分かち合いたいものが他にもたくさんあったはずだが、一つ目のハードルが高いので、それを解くことに大半の人生を費やしてしまう。それだけで終わってしまう。ロンドンから電車で向かう場所はいつも生家で、登場人物は両親を含めて概ね4名と少ない。それなのに和解を遂げた後で、彼らは直ぐに去らなければならなくなる。
解り合える人は遠くに存在する。時間は足りず、時間軸もずれていたようだが。ハリーとは実際のところ実体として出逢えていたのか。わからないが、星の視点からすればそれさえも小さなことで、少しだけ閃光を照らし、消えていく
You are always on my mind
「異人たちの夏」の外国映画化。R15+
原作と監督の自信の経験を合わせたまったく新しい「異人たち」。
シナリオライターの主人公アダム。
ある日同じマンションに住むハリーの誘いを断ってしまう。
仕事の着想に実家の家を訪ねたアダムは両親と再会する。
12歳のクリスマスに交通事故で2人は亡くなったのに。
そこから亡くなった両親過ごす日々とハリーとの恋仲の日々をアダムは過ごしていく。
アダムは幸せな日々が続いていくと思っていたが、、、。
原作は山田太一の「異人たちの夏」
1988年には日本で映画化された。
今作は監督の自信の経験を織り交ぜて
日本版とは別のストーリーを展開していく。
大きく変更されたのはアダムのセクシュアリティをゲイとしたこと。
また幼少期から内向的でゲイとカミングアウト出来ずに暮らしてきたこと。
その要素がこの映画の質と完成度をグッと上げている。
ハリーの誘いを一度は断ってしまったアダムは
再度アダムからハリーを誘います。
おそらく今まで恋愛経験が少なかったアダムの決意でしょう。
そこからアダムは硬い殻を破っていきます。
性描写もゆっくり。でもそこに優しさがあり見入ってしまう。
後半からアダムの苦悩と過去のフラッシュバックの映像描写が
とても辛く、不穏でもある。
映像トリックもドキッとさせられて観客飽きさせない。
クライマックスは
1度目はただだた受け入れるので涙は出なかった。
観終わってアダムやハリーのことを思い出すと涙が出てきた。
ハリーを一瞬でも話すと彼きっと消えてしまう。
だから離さないようにずっと抱きしめていた。
心から愛した人、両親に紹介したいくらいに愛している人。
両親も認めてくれたし。幸せを願っていた。
それなのに。
ハリーが消えてしまうとアダムはまた
厚くて硬い殻に閉じこもってしまうかもしれない。
「吸血鬼から守ってあげる」アダムの愛の力で。
あまりに切ないラストシーンは映画史に残ってもおかしくない。
旅の重さ
ロンドンからどれだけ離れているのか分からなかったが、列車で向かう実家に現れた両親の変わらぬ姿、それとロンドンで出会った男との逢瀬。確かに同じようなストーリーなのだが、大林版とは大きく異なる印象。個人的に大林版が好きだったので本作への印象は余計に渋く見てしまう面はある。そこを引き算しても、心が動かされる程ではなかった。映像は美しい。ゲイの要素がかなり強め。
ゲイの話にする必要はあったのか?
死別した両親との再会の物語だと思っていたら、完全にゲイの話になっていて、困惑させられる。
久しぶりの再会なのに、失われた時間を取り戻そうとする親子の「再生」の物語が描かれることはほとんどなく、両親が、自分達と同じくらいの年齢の息子に世話を焼くといった面白さも感じられないのは、物足りないとしか言いようがない。
その一方で、自分がゲイであることを打ち明ける息子と、そのことを理解し、受け入れる両親を描くことに力点が置かれていることには、違和感を覚えざるを得なかった。
そもそも、同じマンションに住む男性との「ラブ・ストーリー」や、比較的ハードな「ラブ・シーン」は必要だったのかという根本的な疑問が残る。
仮に、それが必要だったとしても、彼が「異人」である必要性はなかったと思うし、むしろ、「その後、2人は幸せに暮らしました」というハッピーエンドにした方が良かったのではないかとも思う。
序盤の、死別した両親との再会の場面や、終盤に訪れる衝撃的な展開も、何が起こっているのかを、すぐには理解することが難しく、少なからず戸惑ってしまった。
過剰な演出を避けるのは良いとしても、もう少し上手い見せ方はできなかったものだろうか?
それから、主演のアンドリュー・スコットは、まるでゾンビ・ウィルスに感染したかのような大きな「黒目」が印象的で、常人とは異なる独特な雰囲気を醸し出しているので、こちらを「異人」に配役した方が良かったのではないかとも思ってしまった。
台無し
山田太一原作のオリジナル「異人たちとの夏」の大ファンですので、迷う事なく鑑賞しました。
結果、とても残念な作品で悲しみを感じました。欧米向けの改変はある程度覚悟の上でしたが、これほど変えられてしまうとは。。。
オリジナルの魅力を見事に削ぎ落としたような仕上がりに、リメイクの目的は果たして何だったのか意味不明でした。
オリジナルのノスタルジックかつスリリングな秀逸な脚本は跡形も無くぶっ飛び、同性愛者の生きづらさがストーリーの根幹を成しており、真逆のラストにも唖然としてしまいました。
絶対にリメイクと名乗ってほしくない作品です。
孤独ゆえの幻
大林宣彦監督の《異人たちとの夏》は鑑賞済み。《異人たちとの夏》の主人公(風間杜夫)はアダムほど孤独ではなかったと思います。彼は中年になり、それなりに歩んできた人生に迷いが生じてきて《生》を渇望し生まれ変わりたいという思いがある故のあの話だったのかな?と思いました。
しかし、本作の主人公アダムは両親を亡くしてからずっと孤独で親しい関係になった人間がいないかのようでした。アダムが両親と再会するきっかけになった出来事は、はっきりと描かれていませんが、ハリーとの出会いだったことには間違いないと思います。アダムはゲイを悪として封印してきましたが、誰かに自分のアイデンティティを認めて貰いたかった。誰かを愛したかった。
アダムはハリーと恋愛をしていたのか、一夜限りの関係だったのか、それともただの同じアパートに住む住人だけだったのか。ハリーとの楽しいひとときも全てがアダムが孤独ゆえに見た幻だったとも取れます。
いずれにしてもアダムの人生に関わる人間が両親以外存在していなかったというそんな人生が切なかったです。大林作品は異人と主人公の関係性を強調してましたが、本作はアダムの孤独を異人が強調しているようで、なんだか悲しい余韻が残りました。ハリーもきっとアダムと同じで孤独だったのだと思います。
山田太一さんも異人になってしまいましたが、こうやって作品が愛され次世代に受け継がれていくこと、異人の思いや気配を感じるとることができるのが素晴らしいですし喜ばしかったです。
この映画は、心を癒すものではなく、心の闇に引き込まれた、病者の内的世界を描いている
日本版は知らないが、この映画は、郷愁的な色彩と性愛物語を、あの世との交錯で彩った物語と解釈したい人も多いだろう。
しかし、これは孤独ゆえに現実との接点を失い、精神病の世界に逃避し引き込まれた、精神病者の内的世界を描いた作品である。最後に、両親との別れで深い闇から脱しても、それは現実の他者との交流につながらず、依然として現実に存在しない相手とつながり、自己完結した病的世界が続いている。
本来は、他者と交わることで、現実世界の扉が開かれるはずだが、主人公は内的マスターベーションの世界にとどまり続け、精神病の闇から脱することを拒んでいる。
この映画は、一見、ノスタルジックで、男同士の性愛物語のように見えるが、そこには、現実に絶望し、内面世界の闇に溺れた、病的で孤独な精神病の世界が広がっている。
何かに"苛まれてきた"異人たちの奇妙な物語
今年観た映画の中で一番涙してしまった映画。
脚本家でゲイである主人公が自分の生まれ育った家に行くと、そこには何故か幼い頃に死んだはずの両親がいて、何十年か越しの会話を交わし、伝えることのできなかった思いを互いに伝えるという話。
また、主人公と同じマンションに住む謎の青年とも恋愛関係になり、そちらも同時並行で親睦を深めていくという寸法。
設定や疑問のすべてが回収されることはなかったが、家族で過ごすファミリーレストランのシーンは脳裏に焼きついて離れない。
何かに"苛まれてきた"この異人たちの奇妙な物語を映画館で鑑賞することができて、本当に良かった。
また鑑賞したいと思う名作。
表現方法が違えば良かったのだが
原作:山田太一「異人たちとの夏(1987)」。同名日本映画1988年製作、英語題"The Discarnates"。今作の邦題「異人たち」、原題"All of Us Strangers"。
原作名では異人とは何か想像できない。でも映画の the discarnates だと霊的なもの示唆している。だから今作もR15+であるからホラー要素が多いと想像して鑑賞に行った。
しかし全く違った。
恐ろしく違った。
只々嫌悪感を強く感じるしかない違和感を感じた。
ネタバレあり
マンションに住む男性といわゆる LGBTQ+ のQとG のその単語が発せられ、そういった関係になる。しかも直接的な描写が、しかもとても長く何度も描写される。本来の映画の本質は別の所にあるのだが、メインの表現方法はこれである。「"R15+"ですからそれ以上の人は見てもいいです」、と言われても、私はこれに対する耐性はない。LGBTQ+の人たちを理解する事と、その行為を見せられる事はまるで違う。始めから知っていたらこの映画は決して見ない、見たくない。
前半では特に両親が他界しているとの描写も無く、実家に行き両親と再会した。設定が全く違うのか、あまり詳しく説明しないで話を進める手法なのか。
もっとネタバレ
主人公は幼い頃から自身がGであると認識していたが、その事でイジメにあっても父親に打ち明けられず両親は他界し、本人も中年になってしまった。過去に出来なかった事を今父親に理解してもらい、両親の愛を感じたかったのだと思う。マンションの男性との出会いで自身の心に蘇り、今回の話になったのだろうと思う。All of us 私たち皆が Strangers 異人たち。しかし両親だけで無く、マンションの男性もStranger。
トータルのストーリーは決して悪いとは思わないが、いかんせん強すぎるGの描写は受け入れ難い。
思い出の回収。
12歳になる前に両親を交通事故で亡くした脚本家でゲイな40歳アダムの話。
子供の頃の思い出の物を自宅部屋の奥から取り出し…、両親と過ごした家を思い出す、その地へ足を運び当時住んでた家に行くと12歳前の頃の記憶のままの両親が家に…、同時期に同じマンションに住む同じく同性が好きなハリーと出会い幸せな日々だと思ったが…。
不慮の事故で大事な家族を亡くすって悲しいけど現実でもありで、そんな時残された方の思い、気持ちって悪い夢であってほしい、寝て起きたら本人は生きているんではないかと都合よく考えてしまったりと…、本作はそんな11歳の頃に両親を亡くしたアダムが両親と再会できる素敵な話。
11歳で止まってしまった両親との思い出、空白29年分の思い出は作れないけれど、過去にあった話から最近の近況話で過ごす時間は何か素敵で、観てて自然と涙が込み上げてきた。
ハリーを両親に会わせようと連れてった真っ暗な家のシーンはちょっと怖かったかな(笑)
短い期間だったけど家族で過ごすシーンはとても素敵でした。
【大都会の中で孤独で深い喪失感を抱え生きる男。だが、男を深く愛した”モノ”達は時を超え男に生きる目的を与えるのである。今作は、人が心の片隅に抱える孤独感、喪失感を静的トーンで描いた映画でもある。】
ー アダム(アンドリュー・スコット)は12歳の時に両親を路面凍結による交通事故で亡くして以来、深い喪失感と孤独を抱えながらロンドンのマンションで映画脚本家として暮らしている。
ある日、アダムは幼少期に過ごした且つての実家で、30年前に他界した両親(父:ジェイミー・ベル、母:クレアフォイ)と再会する。
それ以降、足しげく実家に通うようになったアダムは、平行して同じマンションで出会った男、ハリー(ポール・メスカル)と親密な関係を深めて行く。ー
◆感想
・オリジナルから改編した幾つかの部分で、上手いな、と思ったのはアダムを同性愛者に設定した点であると思う。
ー 母から、””良い人は居ないの?”と尋ねられ、”僕は女性を愛せないんだ。”と答えると驚く母。
年代的なモノであろうが、母は心配の余り色々と聞いてくるが、アダムは”大丈夫だよ。そんな時代じゃない”と答えるのである。HIVによる性感染を心配する母。両親が生きた時代と現在との対比を上手く描いている。-
・両親と会ううちにアダムの幼少期が明らかになる過程の描き方。
学校で苛められていても両親に言えなかった事が、大人になったアダムは父親に言えるのである。
そして、父親は”それはひどいな。”と呟き困った顔をするのである。
ー アダムと両親の30年間の空白が、会話を通じて徐々に埋められて行くのである。ー
■アダムと両親の最後のレストランでの食事シーンは可なり沁みる。アダムはレストランでファミリーセットを頼むが、両親は徐々に彼の事が見えなくなって来る。
手を差し出した母の手を握るアダムの表情が切ない。
・ハリーの存在も重要である。
”このマンションに住んでいるのは僕達二人だけみたいだよ。”と言いながらアダムとハリーは親密になって行く。
ー だが、ある日、アダムはハリーは既に死んでいる事を知る。それを察したハリーは”あんな姿は見せたくなかったな・・。”と呟く。
つまりは、アダムはマンションにたった一人で暮らしていたのだ。だが、ハリーはそんなアダムと、親密になり、自身を大切にしてくれたアダムを大切にするのである。-
<今作の原題は「オール・オブ・アス・ストレンジャーズ」である。
アダムを含め、自分の生きる世界にどこか違和感を覚えている全ての人間が異人と言う意味であろうか。
今作は、男が心の片隅に抱える孤独感、喪失感を、男を深く愛した”モノ”達が静的トーンで癒し、生きる目的を与える様を描いた映画なのである。>
タイトルなし(ネタバレ)
英国ロンドンのタワーマンションでひとり暮らすアダム(アンドリュー・スコット)。
40代の彼は脚本家だが、最近はあまり書けていない。
現在、取り組んでいるのは彼が12歳の時に亡くなった両親の物語。
ある日、彼はかつて両親と暮らしていた郊外の家を訪ねることにした。
するとそこには、死んだはずの父(ジェイミー・ベル)と母(クレア・フォイ)が暮らしていた。
ふたりは、自分たちが死んだことを自覚していた・・・
といったところからはじまる物語で、幽霊の両親と交流する生きている中年男性のファンタジックなハナシ。
そこへ同じタワーマンションに暮らす若い男性ハリー(ポール・メスカル)が絡んで来、ひとけのないタワーマンションでの孤独ゆえ、アダムとハリーは恋人関係になる・・・
このふたりの恋愛関係は、アンドリュー・ヘイ監督デビュー作『WEEKEND/ウィークエンド』でも描かれた同性の恋愛で、濃密な描写で描かれます。
さて、異界の両親との関係も続けながら、現実世界でハリーとの関係も続ける。
あの世とこの世は地続き・・・
それを行き来する装置が「列車」という演出なのだが、どことなく落ち着かない。
というのも、先に山田太一の同じ小説を映画化した『異人たちとの夏』(大林宣彦監督)を観ているものだから、最後はああなってこうなってと観る側としては先走っちゃってしまう。
(ああなってこうなって、は名取裕子の大暴れね)
これがゆえに、観ていて、何だかまどろっこしいなぁ、と思ってしまう。
が、ああなってこうなって・・・が・・・!
うーむ、これって、もしかしてアダムも・・・という解釈なのかしらん。
映画の原題は「ALL OF US STRANGERS」。
「わたしたちみな、異人たち」と言っている。
という、もやもやとした感慨が残ったわけです。
肝心なところが残念
オリジナルは数十年前に一度テレビで視聴しただけなので細かいところは全く覚えていないが、なぜあのタイミングで両親が主人公の前に現れたのか?というこの物語の大きな骨格になる部分が説明されていないというか、そこが全く関係ないストーリーにしてしまったため、ただ寂しかった男が亡霊に慰められるという「だから?」っていうお話になってしまったように思う。
イギリスのノスタルジックな部分が日本人には伝わりにくかったのも残念だった。
レコードから流れる音楽や子供の頃に持っていたノートかチラシみたいなのとか、我々が知っているものだったらもう少し違ったのかもなどと思いながら観ていた。
試写会だったからか話に抑揚が無かったからか、途中で飽きた?真後ろの人はカバンの中を何度もガサゴソし始め、両サイドのサラリーマン風の人達は爆睡。
右隣のお兄ちゃんの頭が自分の肩の上に乗っかってしまったが、お話がお話なので少し気持ち悪くなってしまった。
タイトルなし(ネタバレ)
原作未読未鑑賞。 主人公はゲイであり12歳の頃に両親を事故で亡くす。
これまで殻に篭り続けてきた反動か、死んだ両親と再会し12歳まで互いに抱え続けたしこりを取り合ったり(ゲイの告白等)本当はしたかった家族ならごく当たり前の関係を築く。
同時に同じマンションに住み孤独死(結果的に)したゲイの住人にと出会い愛し合う。
三者とも全て霊であり一夏の一種の臨死体験の様な話だが主人公の孤独で生きる切なさがすごく伝わるいい作品だった。
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