火だるま槐多よのレビュー・感想・評価
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物語と観客をつなぐ道
夭折した表現者・村上槐太の名前だけは知っていましたが、その作品に触れた事は殆どありませんでした。しかし、本作は槐太の伝記映画ではなく、彼の声が聞こえるという男性から繋がる様々な異能者のお話です。
う~む、制作者が村上槐太に強い思いを抱いている事はよく分かったのですが、槐太と観客を結ぶ道をどこにも見出す事ができませんでした。これじゃあ槐太でなくゴッホでも宮沢賢治でも成立したお話ではないでしょうか?
頭でっかちの学生劇団の思い入れタップリの前衛劇を見せられているみたいで、ひたすら恥ずかしく苦痛でした。お芸術映画は僕にはやっぱり理解できないな。
これは前衛芸術!?
大正時代の画家であり、詩人の村山槐多の自伝的作品とでも言うべきか!?
実際には槐多にとりつかれた女、槐多を名乗る男、槐多を具現化するパフォーマンス集団の前衛芸術とも言うべき作品ではあるが、あまりにも浮世離れした感覚が強く、個人的には全くもって理解不能な作品であった。
本来、村山槐多はかの”高村光太郎”も絶賛する天才画家であり、詩人であるようだが、劇中にも描かれる彼の作品はノーマルとアバンギャルドの両極に位置するような捉え処の無いもので、凡人の自分には映画同様、摩訶不思議としか言いようのない世界観であった。
夭逝(ようせい)天才画家村山槐多 毒刃社、悪魔の舌、アニマリズム
大阪十三にある映画館「第七芸術劇場」にて鑑賞 2024年1月6日
パンフレット入手
村山槐多(かいた)(1896~1919)愛知県岡崎市うまれの夭逝(ようせい)天才画家、詩人 22歳没
アニマリズム
タイトルは槐多の友人、高村光太郎(1883~1956)の詩からによる
1935年
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槐多は下駄でがたがた上つて来た。
又がたがた下駄をぬぐと、今度はまつ赤な裸足で上つて来た。
風袋のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。
いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。
「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
「居るよ。」
「僕は眼がつぶれたら自殺します。」
眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。
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作品「尿する裸僧」まっかっか(がランス)で強く激しい作風に魅せられた法月薊(佐藤里穂)が街頭で道行く人々に「村山槐多を知っていますか?」とインタビューしていると、「私がカイタだ」と答える謎の男に出会う。槌宮朔(遊屋慎太郎)は特殊な音域を聴き取る力があり、過去から村山槐多が語り掛ける声を聴き、度重なる槐多の声に神経を侵食された彼は、自らが槐多だと思いこむようになっていた。
「予知能力」「透視能力」「念写能力」「念動力」を有する(パフォーマンス集団)毒刃社の4人の若者が独自の解釈で再生
その能力ゆえに家族や世間から異分子扱いされ、ある研究施設で”普通”に近づくよう実験台にされていた。
脱走し、街頭でパフォーマンスを繰り広げていた。
小説「悪魔の舌」の影響か、まっかっかのガランス色の舌を使った奇妙なダンスであった。
「ホラー映画」といっていいのではと恐怖を感じた。
佐野史郎がどうなったのか気になって仕方がない
優れたアートが鑑賞者の思考を促して多様な解釈を生む、というのが主題なのだろう。確かに本作で「主役」になっている絵は表現主義っぽくてかっこいい、色々想像したくなる一品だ。では、その絵に触発された(ことになってる)登場人物達が見せる創造活動はというと、正直、拍子抜けとしか言いようが無い。
何箇所か鮮烈で印象的な場面があり、わかろうとせずそのまま感じたら良い、というような意味の台詞が出た辺りはなかなかの見せ場だったが、そのままだ「どこかで別の誰かが言ってた主張」で終わってしまうので、もう一歩踏み込んで独自性を出して欲しかった…けどあれが限界かな。
ツッコミどころはあるが、いいシーンも多数。それだけに…
今から30年近く前、信濃デッサン館で「尿する裸僧」を観た時の衝撃は忘れられない。
その村山槐多がどのように描かれるのか、とても楽しみに映画館に足を運んだ。
印象に残ったのは、洞窟内での血のりに塗れた抱擁シーン、人々の舌のみにクローズアップした画像、棘と共に蠢めく悪魔の舌、ハンバーガーにかぶりつく薊の口元のアップ等々。これら監督の美意識が強く感じられた場面では、槐多の「尿する裸僧」や裸婦像などの情動的な表現との繋がりを感じとって、こちらの官能をぎゅっと鷲掴みにされた。
だが、自分がこの作品で最も好きだったのは、槐多の名の由来になったエンジュの木に、登場人物たちがそっと耳を寄せるシーンだ。
薊は、微笑みながら、エンジュの声に耳を傾ける。その表情からは、自分なりの理解と共感が感じとれる。けれども、他の者は、耳を寄せる行為は一緒だが、その時間の長短もそれぞれ、表情から読み取れる思いもそれぞれだった。
つまり、これは、エンジュの木(槐多の残した作品たち)と対峙した時の鑑賞者の姿のメタファーそのものに他ならないだろう。作品は作者の手を離れた瞬間から独立し、それをどう見るかは、鑑賞者に委ねられる。
世に言う「名作」と呼ばれるのは、語りたいと思う人が多く、様々な語られ方をしてきた作品だと自分は思っているが、その際に大切なのは、共に語りあう人の存在だ。このシーンでは、朔が耳を寄せているところに、薊がそっと寄り添って手を重ねる。そして、他の者達も、黙って次第に手を繋いでいく。
「わからないものはわからない」でいいし、知ったかぶってマウントを取りあう必要もない。感じたことを分かち合う中で、自分の中で何か新たな発見が生まれてくるところが、作品鑑賞の楽しさであり、醍醐味。このシーンでは、そのことが余計な説明なく、見事に描かれていたと思う。
それだけに、この映画の前提として、説明的なセリフや説明的な映像を差し込む必要が生まれてしまっていた様々な超能力設定が、自分には雑音に感じてしまったので、申し訳ないがこの点数。
薊役の佐藤里穂さんが素敵だっただけに、余計な設定なくシンプルに、槐多の「尿する裸僧」に惹かれて、ひいては性的対象としてまで思いを抱くようになった薊と、槐多の精神に共鳴し、自我を重ねようとするが、次第にズレを感じていく朔という2人の邂逅と相反といった物語も観てみたいと思った。
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