「優先順位が古い」クラユカバ 映画読みさんの映画レビュー(感想・評価)
優先順位が古い
クラメルカガリと連続鑑賞。
2つあわせて、うーん…という具合。
人と見に行ったが、皆そういう具合で絶賛も褒めもなくネガティブ。
「何がいけないのか」が解体できるということは、エンタメの基礎的な所で至っていないということだ。もしくは、現代の商業創作に向かう姿勢として根本的な勘違いがある。
・この監督のこだわり
絵、音、演出、語り(ケレン)
・成功している点
絵、音、演出
・監督が軽視していること
キャラクターデザイン、脚本
・失敗している点
キャラクターデザイン、脚本、語り(ケレン)
脚本はこだわっているつもりなのかもしれないが、「独自の世界を全部描ききれば、ストーリーは出来上がっているはずだ」の段階に感じる。その「はずだ」は誤りである。
謎めいて残る言葉、実は何かありそうな裏設定……「そういうものをちりばめ続ければ、話になっている」わけがない。それは、自分がまとめきれなかったものを観客に「深読みしてほしい」とお願いしている段階だ。
アニメよりもゲームの企画職にありがちな、物語の流れや人々の思考言動の筋を通さずに、人々や世界の「設定」を盛ってドヤっている状態を感じた。
結果、本作はここまで精力的に作られているにもかかわらず、「なんか、雰囲気アニメだったね」という感想でまとめられてしまう。
商品としても作品としても視聴者の満足度に最も直結するのは、
優先順位として①キャラの内外のデザイン、②脚本、③演出である。
一方、青春が90年代や80年代にあるベテランの認識は①演出、②語りのケレン……が非常に多い。しかし「脚本をおざなりにしても語りのケレンがあれば大丈夫」(または、脚本とは流れでなくぶった切りのケレンであると勘違いしている)は、古い。
10年代以降のヒット作のほとんどは、ケレンがなくとも脚本で好評を勝ち得ている。そして逆はないのだ。娯楽があふれ、インフルエンサーによる解説やツッコミが一般化した今、ユーザー達は目が肥えた。「話はむちゃくちゃだったり不親切だったが、なんか要所のたびにカッコイイことを喋っていたからすごい作品!」という評は、もはや「褒めたら自分がダサくなる作品」であり、よってそういう評を期待する創作は、今では同世代のわずかにしか通用しない内輪向けの創作だ。
俺は雰囲気アニメを作りたかったんだ、と開き直る法はある。ただ、現代では雰囲気たっぷりに作りながらキャラも話もテーマもすべてズドンと通す傑作アニメ映画は多いのである。近年の作で言えば、私が観た範囲内でも『ゲゲゲの謎』『映画すみっこぐらし3』『シン・エヴァンゲリオン』、少しキャラは落ちても『映画大好きポンポさん』、オリジナルIPでと言えば10年代にはたった3キャラでやりきる『楽園追放』。
監督・原作・脚本と単一名でクレジットに入れてしまっているのならば、上述の作品群との脚本造詣の差は何度も見て解析し、一人でわからないなら助言を求め、受け止めなければならないだろう。
本作に欲しかったもの
・キャラクターの特徴的な外観
・一本軸が通った全体のテーマ性
・物語を追ってみたくなる魅力的な味方と敵のキャラクター、動機
・味方や敵のキャラが何を考えて何を頑張っているかがわかるという、理解のしやすさと安心感が生む物語体験の没入感
・異界のキャラなのに現代社会の我々が応援したくなる、人間としての共感性
・魅力的な悪役
・かっこよく見せたいキャラの一貫した強さ
・広げたものの回収(主人公の父、タンネの過去、誘拐団の目的)
・全体の納得感
・バチっと決まるタイトル
※これらをすべて実現しても「通り一遍のよくある作品」には『ならない』。むしろ、本作の映像や演出が何十倍も引き立つ「独特」の領域に届いたであろう
いらなかったもの
・ケレン信仰のしつこい語り
・多すぎる世界観説明語り
・よくわからないままに終わった(作者だけがよくわかるままに終わった)多くの設定
・強そうに見えてただイキっていただけに思えてくるタンネの頼りなさ
・物語を動かさず、ただ流されていくだけの主人公の役回り
・ここ一番での「実は記憶喪失」×2
・ふわっとしたタイトル
※「実は記憶喪失だった(片方は催眠らしいが)」を用いている段階にあっては、脚本業を名乗ってはいけない
持ち味はしっかりあるのだが、
持ち味が欠点に目を瞑らせるのではなく、欠点が持ち味を超えすぎている状態。
鑑賞後、このタイトルに何か感じ入った観客はまずいないだろう。
監督はちゃんとした脚本家を雇うべきだ。
それと、自分の殻にこもらず(これが作風なのだと開き直らず)、他作をたくさん観てほしい。純文学を除いて、一般文芸もオールジャンルたくさん読んでほしい。
創作の上で、力点・支店・作用点の整理がなされれば、大きな伸びしろはあると感じる。