「シリーズ最新作だが、1st繋がりの続編という位置付けは”パズズの奥さん”登場により!?」エクソシスト 信じる者 アンディ・ロビンソンさんの映画レビュー(感想・評価)
シリーズ最新作だが、1st繋がりの続編という位置付けは”パズズの奥さん”登場により!?
『エクソシスト』の第一作を初公開ロードショーの初日に鑑賞してから、キッチリ半世紀が経過。
個人的には、どう転んだってフリードキン監督作『1』を凌駕することなど“不可能”な事は分かりきっており、その『1』にですら自らは満足を得ることが出来なかった原作者のウィリアム・ピーター・ブラッティ氏の、原作・制作・脚本・監督の4役までやり遂げた『3』をもって、既に自らの手で完結させている作品(シリーズ)なのである。
今回は、第一作から繋がりの続編という位置付けではあるものの、既に過去作で、
『2』ではリーガンのその後と、メリン神父とパズズとの過去の因縁が描かれており、
『3』では、そもそもの『1』の原作者であるウィリアム・ピーター・ブラッティ氏自ら原作・制作・脚本・監督の全てをこなし、キンダーマン警部とその親友となっていたかつてのカラス神父の親友であったダイアー神父のその後と、そのカラス神父の”体”を巡って悪魔とカラス神父の魂との壮絶な最後の攻防が描かれ、作者自らの手によりここに完了済みであるのを無視してムシ返すという暴挙か?
だとすると、むしろ潔く「これまでのことは無視して(あえて観たりしないまま)鑑賞する。」というのが一番賢い選択であると提言したいと思う。
順番逆にして、「古い方をあとから観る」なら、娯楽作品としては”死霊館シリーズ”のように単純に楽しむことは出来るのではないかと。
特に、シリーズに威厳や重厚さをもたらしていたと言える、マックス・フォン・シドー氏、或いはジェイソン・ミラー氏のような存在のキャスティングが見当たらない今作が、「それなりに楽しめる、良く出来たホラー作品」の域から脱することが叶わない大きな要因である事は否定できない。
要するに、観ているものに「信仰への揺るぎない姿を見せつけ」信じたい心境に駆られかねない、その気迫ある演技による説得力は凄まじいものだった。
その時点で、自ずと今作がそもそも「どのような立ち位置を目指し(考え)て制作された作品なのか?」は既に見えていることでもある。
第一作については、”悪魔との戦いを通して”、カラス、メリンの両神父の姿から”信仰とはなにか?”を考えさせられるドラマにもなっていたと思う。
それが今回はそのタイトルに自ら「信じる者」と関してしまうところに、その意味する所が逆に軽薄に感じられてしまう気がした。
ところがこれが今回、「多面的な信じ方(色々な宗教等によるアプローチ)」という意味においてという事であると、あながち外れでも無いことに。
これも、宗教とか、ジェンダーとか身分とかによる”差別の無い(互いを尊重)”的な、今風の作風なんだろうか?
”キリスト教に限らず”的な解釈であり、「その力(だけ)では解決は出来ない」と。
結局、「最も重要な要素とは、それ(宗教や儀式)を通した“人間同士の結びつき”の方なのだ」とされている。
要するに、「キリスト教とその教会や神父が絶対的な”対悪魔”の権威として描かれてはいない」(あまり役に立たない)点がこれまでのシリーズとは大きく異なる点だと言えよう。
今回は第一作繋がりに、殆ど”女優”引退状態だったエレン・バーンスタインを権威付けに、アクターズ・スタジオへの協力をエサに(笑)、"キー・パーソン"として引っ張り出してきた感じ。
他にも、かつての”娘”の登場も海外より既に伝わっている。(当初は”アドバイザー”と言っていたが....?)
”半世紀ぶりの母娘共演の実現”も話題作りなんだろうけど、ふたりとも本当に過去の続編と比較して今作へ出演することの方に意義を感じたり、価値を見出したんだろうか??
今作、初めから3部作を想定しているとのことだが、公開済みの米国、カナダなどの興収や評価は高いとは言えず、決定済みの次作以降はどうなるんだか?
取り敢えずは、正統続編を自称するのにはちょっとイカガワシさ満載の、パチもん臭漂ってる作品らしくタイトルも『新・エクソシスト / ご家族ご近所大混戦』程度がふさわしい気がしてくる(笑)。
『1』以降には、前述の『2』、『3』もリアルタイムで鑑賞、その後も前談の『ビギニング』&『ドミニオン』といった劇場版は何らかの形で全て観ている。
これらのシリーズは、作品ごとに監督が変わり、それぞれ作品のアプローチの仕方や解釈が異なっていることや、その作家性が発揮されていることが大変興味深く、また面白い点でもある。
それ故、それぞれ完成に至るまでが紆余曲折があり、難産の末にこれらだけで事実上合計“8作品”が存在する結果となってしまっている。
これは、極めて珍しいケースと言えた。
その中でも、最も”娯楽作品に割り切ったアプローチ”と感じられるのが『ビギニング』だが、今回の作品も路線的にはそちらと思え、近年のものでは既にユニバース化がなされている『死霊館シリーズ』のような扱い方による、シリーズ〜スピンオフと言ったユニバース化を目指すように思える。
まさか次は、「母親」の“意思”を「娘」が引き継ぐという展開なんでは…..、との考えがアタマをよぎったが?
因みに、ウィリアム・ピーター・ブラッティ氏も、ウィリアム・フリードキン氏も先日亡くなり両者とも故人であり、ある意味”死人に口無し状態”を見越しての再始動とも取ることができ、今更弄って、あとはどこまで「汚点を残さない程度」の仕上がりとなっているか、「遠く及びようもな無い」ことは分かり切っている事ととして、シリーズ鑑賞者にとってはそれが唯一の興味深い点であろう。
取りあえずは、例によって第一作の”リメイク&アレンジ的アプローチの続編”感はありありといった作られ方かな?
既に、海外では公開済みに付き『エクソシスト: ディセイバー』という続編のタイトルと、2025年4月の公開予定もアナウンスされている(キャンセルされずに済めば、だが)。
追記
SCREEN誌のWEB版の記述に、
「1973年版では主にカトリックの観点で悪魔憑きを描いているが、今回監督は複数の信仰の観点と無宗教の観点を取り入れたという。」
この部分は上記にも述べた通りなのだけど、気になったのは、
「本作で少女たちに取り憑く悪魔は、1973年版の”パズズではなく”、古代メソポタミアの人々に恐れられたラマシュトゥと言われている。」
という部分。
悪魔は”パズズ”じゃない別人(別悪魔?)だったのかい!?
”ラマシュトゥ”ってだれ!?
しかし、劇中で「旧知の仲」のように、悪魔とリーガンママは”リーガンネタ”でやり取りしてたし、「あなた前にも会ってるわね?」って言ってたじゃないか??
この記述の通りなら”破綻”してないですか??
もはや、何だかワケが分からん映画になってるというか、これでは”悪魔憑きの元被害者母娘”の再登場以外に、カトリックの観点も限定的で”役に立たなかった”状態に貶められているし、いったい「続編たる理由(意味)」も希薄でどこにあるんだか?
追記2
あんまり気になったんで調べてみたら、「"ラマシュトゥ(Lamaštu)"とは、アッカド神話パズズ(Pazuzu)の配偶者とされる魔の女神。」とのことでした!
な〜んだ、”パズズの奥さん”登場だったんですね、今度は.....!?
続編というのは、「旦那の”件”での仕返しだった」ということだからなの???
リーガンママは”パズズの夫人”とも面識(?)があった、「旧知の仲」だったんだという事になりますね。
そういうことだったんだ、なるほど奥が深い.....(?)