劇場公開日 2024年10月11日 PROMOTION

ジョーカー フォリ・ア・ドゥ : 特集

2024年10月11日更新

【ネタバレあり解説・考察&レビュー】ラストシーンの
意味は?賛否両論の理由は? 観客の証言をもって今作は
完成する… “世界を狂わせた傑作”を超える“個人的
大傑作”の衝撃を100倍強く味わうための徹底攻略ガイド

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※10月10日追記:アメリカでの公開、賛否両論真っ二つの評判を目撃し、緊急更新しました。

※記事の最後に「ネタバレあり解説・考察」を追記しています。結末の仕掛けや各シーンの意味など、ネタバレ内容に興味のある方は、最後までスクロールしてご覧ください。



“社会現象となった「ジョーカー」をも上回ることが約束されている”作品がある。10月11日から日本公開を迎える「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」(ジョーカー2)だ。

果たしてどれほどの衝撃作か? 第80回ベネチア国際映画祭での世界初上映を経て、現地時間10月4日の全米公開を迎えたなかで、「前作の高いハードルを超えてきた」との激賞の一方、「結末には熱狂的なジョーカー信者でさえ激怒するだろう」と穏やかではない評も飛び交っている。

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絶賛一色ではない「真っ二つの賛否両論」が、むしろ観客の鑑賞意欲を煽りに煽っているが、実際に鑑賞した映画.comスタッフは“大傑作”だと確信。そして「前作からの期待通りにはならない怪作」でもあり、「期待通りでないことすらも製作陣の狙いであり、演出の意図や仕掛けを読み解ければ、衝撃が容易に“魂”まで貫通する作品」でもあると感じた――。

ショッキングなラストシーンに隠された“意外すぎる仕掛け”や、示唆される黒幕の存在……本特集は「それは気づかなかった、もう一度観に行きたい」となる事象を記述していく。

誰かのレビューや評判に左右されるのではなく、ご自身の心の声に従い、本編を確かめるか否かを決めていただければと思う。漫然と観ているだけでは、たどり着けない“境地”に達したとき、この映画は“あなたの人生の一本”になるだろう。


【予告編】取り扱い危険! その笑いはもう、誰にも止められない。

【鳥肌モノのとんでもない映画】ジョーカーの狂乱が、
世界中に感染する…何かが起こる?衝撃のラストとは?

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※この項目はネタバレなしです。



圧巻のクオリティ、前作からパワーアップしたスケール、ゾッとするほど真に迫った時代性、そしてとんでもないことが起きるラストを目撃してほしい。


◆あの傑作から、はるかにスケールアップした“大傑作”
“世界三大映画祭”などで激賞に次ぐ激賞、驚嘆に次ぐ驚嘆…世紀のショーは誰にも止められない
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前作「ジョーカー」(2019)は米アカデミー主演男優賞®を獲得したほか、日本では動員4週連続No.1を獲得し、興行収入は50億円を超える大ヒットとなり、世界興行収入は1500億円と、R指定映画史上No.1(当時)の記録を樹立、世界的な社会現象となった。

あれから約5年。「ジョーカー2」が満を持して放たれる。

ベネチア国際映画祭・ワールドプレミアでの様子
ベネチア国際映画祭・ワールドプレミアでの様子

世界三大映画祭のひとつである第81回ベネチア国際映画祭(コンペティション部門)で世界初披露され、上映後には12分間におよぶスタンディングオベーションと、上述のような賛否両論を巻き起こした。

“世界を狂わせた歴史的一作”と名高い前作をしのぐスケールへ進化した“世紀のショー”は、もう誰にも止められない――。


◆物語は、“ジョーカーになった男”のその後を描く…
悪のカリスマか?ただの弱き人間か?ジョーカーとは一体誰なのか? 衝撃のラストに備えよ。
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誰もが一夜にして祭り上げられるこの世界――理不尽な世の中への反逆者となったジョーカー(演:ホアキン・フェニックス)の前に、リー(演:レディー・ガガ)という謎めいた女性が現れる。2人の狂気は群衆へと伝播し、暴走し、世界を巻き込む新たな事件が起こる。

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「誰もが一夜にして祭り上げられるこの世界」というテーマは、SNSが発達した現代社会の映し鏡。ゆえに、物語は驚異的な同時代性と共感をもって我々に襲いかかり、息を呑む映画体験を味わわせてくれるのだ。

ジョーカーに待ち受ける運命とは? やがて訪れるラストを心して目撃せよ。


【レビュー】人生に殴り込みをかける切実さ…完璧な
前作を豪快に乗り越えた、気が遠くなる程の“大傑作”

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※この項目はネタバレなしです。



実際に目撃してきた映画.comスタッフのレビュー(ネタバレなし)を掲載。ご鑑賞の参考にしていただければと思う。

●筆者紹介
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※以下、レビュー

正直、鑑賞前の期待感は半信半疑だった。この続編、大丈夫なのか?完ぺきだった「ジョーカー」を超えることは難しいのではないか。そんなふうに考えていた。

ところが、である。鑑賞してぶっ飛んだ。「これは気が遠くなるほどの大傑作だ」と私は思った。


●ジョーカーに共感し、自身が変革していく没入感…本当にヤバい映画だからこそ、人々の関心をとらえて離さない
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もちろん異論は認めるが、個人的には“「ジョーカー」を豪快に乗り越えている”と断言する。

ホアキン・フェニックスは前作もすごかったし、本作での集中力は輪をかけてすごい。肉体は痩せさらばえまくっているのに、反対に狂気はギラギラさを増し、筆舌に尽くしがたい怪物的名演をスクリーンに刻みまくっていた。アカデミー賞待ったなしだろう、これは。

ベネチア国際映画祭・レッドカーペットでのホアキン・フェニックス
ベネチア国際映画祭・レッドカーペットでのホアキン・フェニックス

そして特筆すべきは、演出、映像、音楽、演技などが総動員されることで生まれる没入感だ。否応なしにアーサーへ共感し、自分がリアルにジョーカーに触れた感覚を得る。それはやがて世間の革命的な狂乱に取り込まれていく感覚に繋がり、観客席で私はひそかにゾッとしていた。

この映画は本当にヤバい……だからこそ、本作は人々の関心をとらえて離さず、ベネチアをはじめ世界中を騒然とさせているのだと、言葉ではなく心で理解できた。


●呼吸も忘れ、上映時間が吹き飛んでいく…その切実さは、観る者の人生に殴り込みをかける
ベネチア国際映画祭・ワールドプレミアでの様子
ベネチア国際映画祭・ワールドプレミアでの様子

ほかにも“孤独なアーサーとリー”の関係性に涙腺崩壊寸前だったり、歌唱シーンに「イカれていることはこんなにも美しい」と魂が共鳴したり、悪も正義も視点次第で変わるのだとハッとさせられたり、後半1時間は開いた口が塞がらなかったりと、感情が休む間もなくドライブし、上映時間が吹き飛んでいった。

呼吸も忘れるほどの物語だったが、観る者の人生に殴り込みをかける切実な傑作だと、ひたすらに染み入った。脳内麻薬みたいなものもドバドバ出ていたと思う。

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そして空っぽな人気を欲するのではなく、「この物語が今の時代に本当に必要だから描き切る」、製作陣のそんな信念が伝わってきたことも大満足だ。さらに言えば「熱狂的なジョーカー信者も激怒する」との賛否両論も、すべてはトッド・フィリップス監督ら製作陣の計算通りなのでは? そう考えると、さまざまな演出が腑に落ちる。

意図を探れば探るほど事件的な作品だという思いが強まっていく……。こうして執筆する間もまだ魂が震え、尊敬の念がこんこんと湧き上がり続ける「ジョーカー2」。もう一度映画館で観られる日を、今か今かと待ちわびている。


【解説・考察】ラストの意味は?現実か妄想か?これに
気づくと「ジョーカー2」の衝撃は“魂まで貫通する”

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※ここからネタバレありです。未鑑賞者は十分ご注意ください。





繰り返し語っているが、本作は非常に刺激的な“仕掛け”が幾重にも施されており、そのショックを120%味わうためには「感じ取れるか否か」が重要になってくる。

本記事最後の項目では、強烈に「本編が観たくなる」解説・考察を、映画.comスタッフの見解により記述していく(公式の発表ではなく、あくまで本編などから得られる状況証拠を積み重ね、自由に推理・考察したものです)。


◆ここが必見①:「現実か、妄想か」という大仕掛け…紐解く鍵は“アニメーション” 冒頭から見逃さないで
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本作は「現実だと思っていたら妄想」「妄想だと思っていたら現実」というシーンが多く挿入されるため、「これは現実か、妄想か」という意識を差し込むと大きく進化する。

「現実/妄想」を判断する鍵はアニメーションだ。「アニメーションが画面上に映ったら、その直後は妄想だ」と解釈できるよう、トッド・フィリップス監督が随所に散りばめているのかと察知できるほど、意味ありげにスクリーンに登場する。

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アニメーションは、確認できただけでも4箇所あった。1つは、アーサーとリーの出会いの直後。アーサーが患者たちとテレビモニターに映るアニメを観ている最中、唐突に歌い出し、患者たちもにこやかに歌うのだ。これは結局、アーサーの妄想だった。

そして2つ目は、物語終盤のアーサーとリーが電話で対話するシーン。画面端に小さくテレビモニターが置かれており、そこにアニメが映されている。その後、アーサーの法廷での最終弁論を経て、裁判所が爆破される。これだけの大惨事なのに、誰が実行したのかは、まるでどうでもいいことかのように描写されなかったので、爆破も“ディテールに現実味がない妄想”だとも解釈できる。鳥肌が立ってこないだろうか?

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さらに3つ目は、ラストシーンの直前。州立病院に逆戻りしたアーサーは、うつろな表情でテレビに流れるアニメを見つめる……そしてラストにつながる(その先の解釈は後述の「ここに必見④」を参照)。

そして4つ目は、今作は「俺と俺の影」と題したアニメで始まる。これがどんな意味を示すのか……気づくかどうかで、映画の捉え方そのものが180度変わってしまう“重要な鍵”となる注目ポイント。考察を深め、もう一度、映画館へ急ぐことをオススメする。


◆ここが必見②:楽曲の歌詞に要注目…“物語展開の暗示”をたどれば、“見えていなかったテーマ”が浮き彫りになる――
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本作では、ジョーカーの一挙手一投足をサスペンスフルに描きながら、「What the World Needs Now Is Love」など、名曲の数々をホアキン・フェニックスやレディー・ガガ自らがカバーし歌唱する「ジュークボックス・ムービー」の演出が随所に用意されている。

耳で楽しむのもいいが、映画.comユーザーには歌詞に着目してもらいたい。普通、映画で登場する楽曲や本は、その歌詞、記述内容が物語の行く末を暗示している。本作でも同様なのだが……どっこい、一筋縄ではいかない。

注意深く歌詞の意味に思いを巡らせ、物語を追うと、気づけばあなたは想像だにしない場所へと運ばれているはずだ。

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そして、エンドロールも油断することなかれ。最後に流れるダニエル・ジョンストンによる「True Love Will Find You In The End」のカバー曲、その意味にも着目してほしい。なんなら、歌詞や楽曲の背景を検索して噛み締めてほしい。

初見時には唐突に流れたかに聞こえるであろうこの曲は、「ジョーカー」と今作「ジョーカー2」の鑑賞者に向け、監督から贈られるメッセージでもある。今作は「この危うい時代にこそ、必要なものとは一体何なのか」を、観る者すべてへと訴えかけているのだ。


◆ここが必見③:“ジョーカー”とは何者なのか…アーサーか?新たな悪の誕生か?リーこそが黒幕?
ベネチア国際映画祭・レッドカーペットでのレディー・ガガ
ベネチア国際映画祭・レッドカーペットでのレディー・ガガ

前作よりも深く、アーサーとジョーカーについてスリリングに掘り下げ、やがて「“ジョーカー”って一体、何者だ?」という本質的な問いにたどり着く……これこそが本作の真髄のひとつなので、ぜひ頭の片隅に置いていただければと思う。

さらに言えば、アーサーの外側にいる“悪”に注目してみるといい。物語はアーサーが本当の意味でジョーカーへとなる過程を描出しつつ、ラストシーンは「新たな悪の誕生」とも解釈できる余地を残し、閉じられている(「ここが必見④」で後述)。

また、手がかりを作品の外からも求めてみるとなお興味深い。例えば、リー役のレディー・ガガが発表した、今作とコラボしたアルバムや楽曲がある。そのなかの一曲「The Joker」で、ガガは「The Joker is me.」と高らかに歌い上げている。

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普通に考えればその歌詞は「人間誰しも悪を抱えている」という比喩表現だが、意図された裏設定を、歌詞の形で表出させたガガの遊び心と深読みすれば、「ジョーカーは私=リー」とも読める。つまり……アーサーではなく、リーこそがジョーカーだったと解釈することも不可能ではない。

もちろん上記に異論はあるだろうが、何が言いたいかというと、かような論理的な解釈を加えれば、最初は意味がわからなかった要素も「そういうことか、むちゃくちゃ面白い」と大変貌を遂げる瞬間が、本作には星の数ほど存在する。「ジョーカーとは一体誰なのか」。考えた瞬間、あなたはもう後戻りできなくなる。



◆ここが必見④:ラストシーンの衝撃に備えよ…ジョーカーは死んでいない?
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「ここが必見①」「ここが必見③」でも触れたが、ネタバレ解説・考察である以上、ラストシーンを詳述しないわけにはいかない。

裁判所の爆破と逃走劇を経て、州立病院へ逆戻りとなったアーサー。テレビでアニメをぼんやり見つめる最中、職員に「お客だ」と呼ばれる。廊下に出ると、アーサーは患者仲間の1人に何度もナイフで刺され――ゆっくりと床に倒れ伏し絶命する。

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ここがまさに、世界中で大論争となっている大問題シーン。幅広く解釈できるわけだが、トッド・フィリップス監督の仕掛けから推理するに、おそらく正解はないはず。しかし、「アニメーションが映ったらその直後は妄想」だとすれば、この物語が単なるバッドエンドではないことに気がつくだろう。

考えられるパターンとしてはいくつかある。

1:アーサーが刺されたこと自体が妄想であり、彼は(物語上の)現実ではまだ生きている。

2:“アーサーという人格”は死に、アーサーのなかにいた“ジョーカー”がメインになったことをメタフォリカルに表現した。

3:背後にぼんやり映る患者が、アーサーを刺した後に“自身の口を裂いていた”(裂けた口は「ダークナイト」版ジョーカーのシンボル)ことから、“アーサーというジョーカー”が比喩として死に、“新たなジョーカー”が誕生したことを示唆している。


となれば、アーサー、もしくはジョーカーの物語は今作で終わりではない。3の説をとるなら、拡大して推理すれば「ジョーカー」と「ダークナイト」シリーズへの接続も可能となる(口が裂けている「ダークナイト」のジョーカーは、今作でアーサーを刺した男の“その後”と推理)ため、実は一部のファンにとっては鳥肌モノのラストとも言える。

ベネチア国際映画祭・レッドカーペットでの様子
ベネチア国際映画祭・レッドカーペットでの様子

トッド・フィリップス監督が「(目的は)まるで狂人によって作られたかのように感じさせること」とコメントしたとおり、まさに“映画史に残る伝説的ラスト”。だが、それをどう解釈するかは観客の手に委ねられている。観た人同士で語り合う時間が本当に豊かで、本作は無数の観客の証言=考察を交換し合うことで進化し完成する、驚異の構造を有している、さしずめ「ピエロのメイクをした映画」。

そして交換された感想は、さらにその先の誰かへと伝播する……これこそが、タイトルの「フォリ・ア・ドゥ」に重なっていく、驚異の構造を有しているのだ。

※フォリ・ア・ドゥ:フランス語で「2人狂い」という意味で、ひとりの妄想がもうひとりに感染し、2人ないし複数人で妄想を共有することがある感応精神病のこと。

また、海外からは前作「ジョーカー」との“作風の違い”を揶揄する声がチラホラ聞こえるが、むしろ上述の“感想の伝播”という現象は(「ジョーカー」でもみられたため)一貫していると考えられる。「ジョーカー2」は、前作で産み出された新境地としての語り口が統一された“前後編の2部作”として、同じ地平のさきに、さらなる広がりを提示しているのだ。

もう一度映画館へ駆け込み、作品から感染した“何か”を言葉にすれば、あなたは「ジョーカー2」の一部になれる。映画という枠を超えた“唯一無二の体験”が、すぐそこで待っている。


◆最後に:全米公開で「批評家スコア33%、観客スコア31%」の評価はなぜ? 作品構造と観客心理から紐解く「酷評の理由」
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「ジョーカー2」はアメリカで10月4日(現地時間)に公開され、どのような評判になるか注視していたが……筆者は背景や製作陣の狙いを読み解ければ、その衝撃が魂まで届く“人生の一本”になると考えていたので、今作への評価が「辛口批評サイトRotten Tomatoesでは批評家スコア33%、観客スコア31%」だったことにひどく驚いた。

日本国内にもこの数字が伝わり、SNSでは「酷評」と話題になったが、現地の観客レビューの内容を観察すると、単なる作品の不出来ゆえの酷評とは様子がやや違うと感じる。作品構造と観客心理のメカニズムを紐解いてみよう。

前作「ジョーカー」は社会的弱者だったアーサーが悪へ変貌する萌芽を描出していただけに、今作「ジョーカー2」はついにジョーカーが不条理な社会を豪快にひっくり返す……とはならない。アーサーは法廷で弱々しく「ジョーカーはいない」と呟き、心酔していたからこそ極度に幻滅したリーは、真顔でアーサーのもとを去っていった。物語はジョーカーを熱狂的に支持する者を喜ばせるどころか冷酷に突き放すよう、注意深く編み込まれていると読み解ける。

というのも、トッド・フィリップス監督はインタビューで、前作「ジョーカー」は悪のカリスマとして祭り上げられた男の悲劇を描いたのであって、悪を肯定した物語ではないとの発言をしている。しかし、前作は世界中で“悪の肯定”と受け取られ、意図せぬ熱狂を巻き起こしてしまった。そこで製作陣は、今作では「悪は、悪である」と描いたというのだ。まさに現代に放たれるべくして放たれた物語――。

この作品構造ゆえ、悪たるジョーカーの活躍を期待した観客こそ、ある側面、悪を糾弾する今作「ジョーカー2」に低評価をつけやすくなっていたと考えられる。事実、徹底的な怨嗟の声が打ち付けられたレビューが非常に多く、それは酷評というよりもはや炎上に近い。

(※補足:特にアメリカ=原作のDCコミックスの原産国で、炎上が広がっていることに留意したい。世界でも最強クラスのジョーカー・ファンダムが存在するアメリカだからこそ、反応が過剰になっているのではないか? 事実、前作を超える興行成績を記録した国も少なくない。答えを出すために、日本公開後の反応を観察したい)

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その一方で、「紛れもない傑作」「期待していたものと異なるからこそ素晴らしい」「身につまされる思いだったがすさまじい映画だった」などの評も多く見られる。映画は人によって感じ方が違うものだが、今作ほど観客がどういう人で、鑑賞前にどういう心理状況で、何を期待するのかで、評価が180度変わる作品は他に思いつかない。

「ジョーカー2」をめぐる論争は、賛否両論を超越した混沌、地獄と表現した方がしっくりくる。何が正しく何が間違っているか判然としないが、ただひとつ確かな事実は「こんなに世界中を騒然とさせている映画は稀」だということ。我々はまだ気がついていないが、これはもしかすると歴史的な大騒動なのかもしれない。

あなたはこの一作をどう観るか? 筆者自身も、まだすべてを拾いきれていないため、何度も映画館へ足を運ぶつもりだ。他人の意見に左右されず、ご自身の目で確かめてほしい。そして、その感想をぜひ聞かせてほしい。

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