井上修 : ウィキペディア(Wikipedia)

井上 修(いのうえ おさむ、1946年7月20日 - )は、福岡県糟屋郡古賀町出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ。

来歴・人物

福岡電波高校では2年次の、エース若林淳至を擁し秋季福岡大会南部準決勝に進むが、大牟田南高に敗退。1年下のチームメイトに小金丸満がいた。

卒業後のに広島カープへ入団しプロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、59ページ、3年目のには開幕戦から遊撃手として起用され、二塁手・三塁手も兼ねて47試合に先発出場。その後は出場機会に恵まれず、に阪急ブレーブスへ移籍。阪急でもレギュラー確保まではいかなかったが、内野のユーティリティプレイヤーとして重宝され、には105試合に出場して打率.285の好記録を残す。同年の巨人との日本シリーズでは4試合に代打、守備固めとして出場。その後も脇役ながら活躍を続け、5度のリーグ優勝と3度の日本ーに貢献するなど黄金期を支えた。には遊撃手として大橋穣と併用され、自己最多の57試合に先発出場。引退。

引退後は阪急・オリックスで二軍コーチ補佐( - )→一軍守備・走塁コーチ( - )→二軍守備・走塁コーチ( - )を務め、のリーグ優勝に貢献。退団後は台湾に渡り、統一( - コーチ, ヘッドコーチ)・和信→中信( - ヘッドコーチ)でコーチを務めた。統一コーチ時代には大石弥太郎監督の下で2年連続リーグ年間優勝( - )、アジア・パシフィックベースボール(1995年11月)でも台湾のプロ野球チームとして初の国際大会優勝に貢献し、1998年には10試合で代理監督を務めた。

詳細情報

年度別打撃成績

広島6540000000010010000.000.200.000.200
15331000000000000020.000.000.000.000
7516214472320025742501003251.160.229.174.403
181090000000120010030.000.100.000.100
6220000000000000020.000.000.000.000
阪急52312464000405010501101.167.333.167.500
892421166100721030030021.286.375.333.708
105211186305312137626176321713295.285.351.409.760
981401172524412369162501810240.205.311.308.619
10960492492111652073160190.184.281.327.607
107635417920011023220700160.167.262.204.466
80635519133101831042050181.236.311.327.639
71121106182871243710221814161.264.336.406.742
761161013129805521165301101203.287.363.515.878
962312024643609761993811802454.213.283.376.659
3225209410050101040060.200.333.250.583
通算:16年10351267109724924548522369891323935511431621717.223.304.336.641

記録

節目の記録
  • 1000試合出場:1979年10月4日 ※史上212人目

背番号

  • 37 (1965年 - 1969年)
  • 44 (1970年 - 1972年)
  • 5 (1973年 - 1980年)
  • 75 (1981年 - 1990年、1993年 - 1998年、2001年 - 2007年)
  • 71 (1991年 - 1992年)

関連項目

  • 福岡市出身の人物一覧
  • 広島東洋カープの選手一覧
  • オリックス・バファローズの選手一覧

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2021/09/15 03:09 UTC (変更履歴
Text is available under Creative Commons Attribution-ShareAlike and/or GNU Free Documentation License.

「井上修」の人物情報へ