月のレビュー・感想・評価
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描き方に疑問
元重度最重度知的障がい者施設の職員でしたので、この映画は観ないといけないと思い、観てきました。
まずは、施設の環境の描き方がマイナスの面だけを誇張して描かれていることが、とても残念です。映画のテーマに合わせてプラスの面はあえて捨てたのだとは想像しますが、現実もこうであろうと観た方が誤解されないか、悲しくなります。
パンフレットには、石井監督のインタビューの中に、「この映画で描いた、障害者施設で起こっていることに関しては、全部事実です。障害者施設の中のことに関しては、絶対に嘘はつくまいと思って、事実としてあったことしか描かないと決めていました。」「もちろん、僕が実際に見たのはそういう劣悪な環境の施設ばかりではありませんし、いままで問題があった施設でも、日々改善の努力がなされていることはきちんと協調しておきたいです。」と書かれていました。
監督が言われているように、プラスもマイナスも両面あるんです。それなのに、いろんな施設のマイナスのことだけ集めて、さも津久井やまゆり園の状況のように描くのはひどいです。
私も津久井やまゆり園の現状は、正直分かりません。でも、一度見学した際は、あんなに暗くないし、利用者さんはもっと部屋から出て過ごされていたり、日中活動をされていたりします。笑顔で快適な時間も当然あると思います。スタッフが支援する必要があるので、スタッフ同士であんなにゆっくり話している時間がないと思います。あと、同性介護も徹底されていると思います。施設の場所は自然豊かなところですが、あんな暗い森を超えないといけない場所ではありません。普通に県道沿いです。
一方で、一般的に知的障がい者の施設が、交通の便の悪いところにあり、たくさんの知的障がい者が大規模施設に入所し、地域で暮らすことができず、施設の中で心ない虐待にあってしまうこともまた事実であろうと思います。
なので、この映画が難しいテーマについて問題提起してくれたことについては、敬意を表したいと心から思いますが、あの事件を題材しているのならば、関係者を再度傷つけかねない表現は絶対に避けてほしかったと思うのです。
あとは、この映画を観て、自分自身の内面で起きたことを書かせてもらいます。
以前、施設で働いていた時のことを思い出しました。映画の中で描かれていたように、利用者さんは自傷が止まらなかったり、声を出し続けていたり、私自身が嚙まれたり、排泄物を投げられたりもありました。私の心の中で、怒りや憎しみが湧いたことがあったのも覚えています。自分の中の嫌な面をすごく体験させられました。キャパシティの狭い、優しくない、結局自分が大事で、楽をしたい、ズルい自分を痛感させられました。だから、この映画をみてそんな自分を思い出してきつかったです。それでも、チームで支援を考えて実践する中で、利用者さんの笑顔が増えたり、不快な声が減ったりしていくことも経験しました。心がないと映画の中で言われていましたが、私が出会った方達はみなさん本当に感受性が豊かでとても個性的でした。何年経っても忘れないです。元気に生きていて欲しいです。
自分自身の中に、悪意も好意も両方あり、その自分を見つめ、できることを見極めてやっていくことが大事なのかなと今は納めています。悪意はあってもいいと許すようにしています。いけないのは行為に出てしまうことなのです。
いろんな意味で心が動かされたので、ほとんど書いたことのない映画レビューを書かせてもらいました。
一生整理はつかないだろう
自分の中にもある闇を見せつけられた。
観終わって半日が経つが、整理ができない。
観終わった後に、実際に起きた事件をインターネットで調べる。磯村さんは劇中「さとくん」という名前だったが、本当の加害者も「さとし」だった。
「さとし」は刺青を入れ、大麻を吸っていたようだ。割と勉強もできて、友達もいて、家庭環境は一般的だったそう。教師になろうとしていたし、資格も取ったが、教職にはつかず、仕事は続かなかったそうだ。現在は死刑が確定。
優生思想、生前診断、東日本大地震、ワーキングプア、ものづくりの才能、他人からの評価、虐待、卵焼き、刺青、障碍者、キリスト教、大麻、ワイン
月とは、、
7年前に実際に起きた事件を元に作られた作品だが、フィクションとして成り立っているも
のの、やはり実際に起こった事件とは切りはなせない。
人間は自分以外のものを攻撃する生き物、特に弱者へと向きやすいもの。
障がい者施設での職員と入所者においても悲しいことにその構図が成り立っている。
かつては優生思想が幅を利かせていた時代、それに異議を唱える声はかきけされていた。
今はそうではない、と誰が言えるか、今でもその思想が私たちの心の奥底に潜んでいる、そして何かをきっかけにむくむくとあらわになる。例えば貧困、不幸、思い通りに行かない人生などをきっかけとして。
しかし、自分が嫌なものを排除する資格はない、目を背け見ないようにする、存在を否定する、それできるかもしれない。でもそれは事実ではないし、事実そこに人は存在する。
事実とどう向き合うべきか。
自分がもし障がい者だったら、と考えるのが一番単純で分かりやすいのかもしれない。
自分の身内が、とかでもいい。
月は太陽によって光る。太陽なければ月は暗い物体でしかない。
人もまた月のように 他者との関わりで光り輝く。自ら輝いているように見える人でも同じだ、人を輝かせることができる人こそ幸いなのだろう。
考えさせられるけど答えは出ない
石井裕也監督作品はわりと好きで見ています。たまたま同じ日に『愛にイナズマ』を見てから『月』を見ました。
全く別物のかなり重い作品。
施設の職員として、入所している障害者として、障害者の親として…感じ方は全く違うでしょうし誰が正しいとかもない。施設内での虐待やイジメはあってはならないし、どんな理由があろうと殺人は許されない。
しかしそういう世界に目を向けていなかった自分は何も言えないな。
どなたかのレビューにもあったけど、宮沢りえじゃなかったら見なかったしオダギリジョーがいなかったらもっともっと重い作品になっていたと思う。
闇を照らす 【追記済み11月7日】
フィクションとしても耐え難い描写が並ぶ本作は、モチーフになった事件が永遠に忘れ去られることのないように道を探すため、相当の覚悟で照らす〝月〟になったのだろう。
主人公夫妻の物語に絡めてひとの気持ちのちいさな単位が集まり成り立つ社会の闇の部分をはっきりと突きつけられ、立ち止まらずにいられる人がどのくらいいるのだろうか。
【追記】
哀しみの過去、思うように進まない現在を労わりあうように暮らす夫妻にとって、洋子があの対峙で深く自分に向き合ったことがどう作用したか。
事件に沿わせてひとつの夫妻の人生のシーンを描くことの意義は少なからずその流れを感じとるところにあるようにおもうのだ。
もちろん誰もが同じ境遇や状況ではないが、何かをきっかけに自分の心に向き合うことの大切さがニュースを知ったふたりの行動がそれまでと違うところから見えてくる。
そして、答えをみせずに終わるラストは、それに至る誠実な向き合い方に意味があると言っているような気がしてならない。
照らされるべき闇はまだまだ深く無数だ。
社会の1ピースである私たちのこのあとの人生も続く。
並んでいく時間にいる。
何を捉えてどうすごすか。
強く厳しく問う作品だ。
……………
【洋子と昌平】
冒頭から感じる夫妻は、お互いに相手を思い自分の気持ちは奥へやる。
妻・洋子は、あえて光があたりにくい場所に佇むことで過去をそっと包みこんで何かを守っているかにみえた。
夫・昌平には耐え難いだろうと考え、新たな妊娠を告げることを躊躇するのだが、それは彼女が持つトラウマの深さでもあろう。
はじめて介護の仕事につき疲弊をためながらも家計を支え、昌平に夢を叶えさせたいという気持ちと現実的な生活の切実さ。
後半、彼の作品の入賞を知ったときの体の奥から込み上げてくるようなほっとした泣き笑いに、それまでのすべての感情の解放がある。
ひとり呑み込んできたものの深さが堤防を決壊した川の水のごとく頬の皺を越えて流れ落ちる姿を宮沢さんが鳥肌が立つほどの演技でみせる。
一方、昌平がどこか気楽そうにみえるのは、そうみせているからだ。
洋子に深刻さを見せないようにする彼なりの愛情と優しい人柄なのだと思う。
それでなければ、妻が辛い思いを蒸し返さないように捨てられた三輪車の前で必ず覆い立ち隠す姿はない。
妻に小説を書く意思がでてくると察知し環境を整え協力できるのは、状況をきちんと把握しているからだし、
自分一人でいるときにだけ息子の写真を眺めるのも妻に負担をかけずにいたい妻子への気持ち。
嫌味な職場の先輩にいらついても未来を考えぐっと我慢し、妻をおびやかす危険を感じればすぐに自分が盾になって守る。
そして、妻から妊娠を打ち明けられ歓喜する姿や賞を獲り安堵する様子は、封印されてたきっと本来の姿だ。オダギリジョーがもつ抜群に自然体なのびやかさがやさしく穏やかな愛を伝え涙を誘う。
【洋子の同僚、陽子とさとくん】
施設にはじめて来た洋子を明るく出迎えた人懐っこい陽子。
職場を案内しながら、不安気な洋子に笑顔でここは「誰もが平等」だと言った。しかし陽子もあきらめられない夢を胸に職場の裏腹な現実を黙認し、家庭でも同様に父の裏切りにあきれ、爆発寸前な心理状態で酔えば悪態をつく。
日々、自分がつく嘘や理不尽さでストレスにゆがめられていく眉。
酒を飲み干す様子には、コントロールできない状況の苛立ちや嫌悪が隠せない。
洋子の内心を見透かすような顔つきで自分と似ていると言ったのは牽制なのかもしれない。小説家として名を馳せた洋子に対する嫉妬心や対抗心が、うまく行かない自分の焦りを煽り皮肉めいた発言もしてしまう。
世間から閉ざされたような施設から薄暗い帰路を行く陽子の真っ赤な服の後ろ姿は、夢とは遠い現実にいながら意地を保つための武装にもみえた。
誠実で温厚、真面目に働く印象のさとくんが、事件を起こす危うい思考に囚われていく過程に施設の入所者への対応に疑問を持ちながら、洋子のように相手にされなかったことがある。
あがいても変わらない行き詰まりを味わい続けた正義感は方向を間違えて増大していく。
また、彼の挫折を同僚はそのきっかけと呼んでいたがどうか。責任の所在をきめつけて、我が身を振り返らない周りがつくる危うい構造もまる見えだったように思う。
得意な絵を活かして紙芝居をした時に1番好きなシーンだと言いながら、いらないものがザクザクと出てくる絵を彼はやたらと強調した。
さとくんはきっと感じたかったのだとおもう。
そして彼らにも感じて欲しかったのだ。
自分が置かれ、扱われている状況にもっと疑問を、異議を、と。それぞれに心があることをわかっていたからこそだ。
反して、彼の紙芝居をみている人の反応はまばらでうつろにうつった。
その様子は以前であれば介護士の理解の範疇であるはずが、彼はすでに歪んだ壁をよじ登っている異常な事態だった。そのてっぺんの手前で、期待する手応えを感じられなかったあのとき、ある種の〝不憫さ〟と〝やりきれない切なさ〟が決意になってしまった瞬間だったように思うのだ。
命の尊厳などもはや判断できないほどの悲壮感が彼を満たし切った様子が何を展開していくのか…私は自分の血の気がひいていくのがわかった。
そして、聾唖の彼女を障害はあるが心があると言い、話ができない人には心がないと発言したり、洋子の家で人の死について不気味なくらいたのしそうに興奮気味に話す姿は見逃せない悪い兆候だったのだろう。
………
そんなさとくんの異変に洋子が確信を持ち咎めに行く。
迫真の2人の掛け合いでさとくんは洋子のことも責める。
反論する洋子の相手が洋子自身になり、心のなかとの対峙がものすごい圧を帯びて押してくる。
いつしか、洋子を見据える洋子は、まぎれもなく私の心中を正面から覗き込み問い出した。
とめた呼吸の数が逆流するように押し戻され積み上がる。
私の動揺を捉えてなお、この相手は容赦するつもりがないと肌で感じると、
私の本音がポツリポツリと頭に浮きあがってくる。
目を背けたほうが楽なこと…
たしかにある。
うわずみをさらったように通りすぎようとした…
したかもしれない。
葬り去る社会の一部になってないか…
ないと言いきれない。
ならば
改める覚悟を。
さもなけば、同じような悲劇が起きる。
逃げ道なく考えさせるための投げかけの演出はすごい。
そしてなにより洋子を通じて表した宮沢さんが圧巻だ。
それは、まぎれもなく闇を照らす凛とした月のごとく。
………
夫妻が将来の道を決める回転寿司屋。
洋子の背後に映るニュースをみた
昌平は唖然とする。
私は洋子が気がつく前にまたいつものように立ち塞がのだろうと思った。
しかし、違った。
躊躇いなく洋子は「できることをしに行かなくちゃ」と駆け出す。
そしてすぐに昌平に思いを告げに引き返した。
〝かつてあったことはこれからもあり、かつて起こったことはこれからも起こる。〟
印象的な旧約聖書の言葉を改めて洋子が不安いっぱいに口にした時点では、彼女が自分につけた足枷が見えた気がしていた。
しかし、それまでとは異なる二人がラストにいたのを見届け、公開日から現在。
洋子を縛っていたあの言葉は、さとくんが起こしてしまった事件に生々しくリンクしていること、月の光に照らされたものが胸を締めつけ立ち止まったままだった私。
ようやく今日、片足が一歩出はじめたかんじだ。
修正済み
【追記】に書き表せていなかった部分を追加しました。
原作未読。余計なものまで詰め込み過ぎなような、それによってややチグ...
原作未読。余計なものまで詰め込み過ぎなような、それによってややチグハグな印象も。難しいテーマだからストレートに描くのは難しいということか。
経済合理性の思想に騙されてはいけない
まさか、『愛にイナヅマ』と同じ監督がほぼ同時期?に作った映画だとは⁉️
でも、この監督さん、主演俳優に〝顔〟で演技させるのが好きなのですね。宮沢りえさんが過去の辛い思い出と高齢出産の不安を重ねるあたりはまさに真骨頂。
(障害者に関わる様々な事象やご家族のことを想像すると、俯瞰的に考えることができなくなってしまうので、以下は敢えて当事者の方々とは距離をおいて書いてます。もしかしたら不愉快な思いをされるかもしれませんが、ご容赦ください)
さとくん勇斗さんが、元々持っていた正義感が蝕まれ追い込まれた挙句、狂気に変容する様も見事だし、彼が滔々と語る〝正論〟(ここでは敢えてそう言います)も説得力を持つことになる。
でも、経済合理性を盾に語る人間を誰が批判できるのだろう。
今の世の中は、コスパによる評価が社会の規範になってます。受験競争も社会人になってからの人事評価も目先の結果や成果ばかり追い求めてるから、みんな余裕を無くしてる。勉強が苦手でも気の優しい人間とか、要領は悪いけどなんだか芯は通ってる人間、そういう人は受験や就活という期間限定での競争からは結果的に〝排除〟されていきます。だから、〝大器晩成〟という言葉が死語になりました。
成長には個人差があるのに、それを待てない大人ばかりだから、こどものほうも自分だけがいち早く評価されたくて、人を蹴落とすことばかり覚えてしまう。
受験競争も出世競争も自分が勝ち残るためには、自分が抜きん出る努力をするよりも他人を蹴落とすのが早道。自分のノートを貸して友達が自分よりいい点を取ってしまうなんて事態は全面回避したくなるから、助け合うよりもギスギスしていく。
経済合理性の方が人命より価値があるのだから政府も僕を褒めてくれる、と手紙を書く若者が出現したのは、ある意味で日本政府の国民教育の成果なのですね。さとくんにとっては、それはリアルな現実です。
勲章がもらえるくらいのことをしてるんだぜ、オレ。
宮沢りえさんが、さとくんとのやりとりの中で、自信を失っていくのは、クリエイターである作家ですら、経済合理性の思想に侵され、その論点で発想せざるを得ないから。
人間性の尊重や尊厳、福祉などの制度的な救済。
これらの概念は大人たちに余裕のある成熟した社会ならそれなりに備わっているもので、経済合理性の論点とは別次元のこと。金のことだけ考えたらムダと思えることを社会の枠に収めて運用できるのが成熟した社会。
自分の家族の問題を社会と共有するのが憚られるし、自分の事情に負い目を感じざるを得ないということは、この日本の社会がまだまだ成熟途上(むしろ後退かも?)ということだと思います。
でも、今の政治家は要領よく私利私欲を満たすコスパ脳はあるけれども、余裕を感じさせる成熟した大人とは程遠い人ばかりだし、中年も高齢者も全体的にはどんどん成熟とは反対の方向に時間を重ねている気がします。
小難しいことを長々と書きましたが、簡単に言えば、
フーテンの寅さんのような人が、自分の兄弟であってもにこやかでいられるし、一般社会の人たちもあんな非生産的な人はムダ、とか、あんな人に生活保護費が出るのは怪しからん、などと狭量なことをいうような社会だとすれば、成熟とは程遠い。
そういうことだと私は考えます。
気力体力が充実している時に観ること。
まず自分の気力体力が充実している時に観ること。なかなか答えなど出せない問いを全て自分自身に突きつけられる。
洋子も陽子もさとくんも、みな元々少しずつ不安定で、バランスを崩していく。陽子とさとくんが確信犯的に洋子とその夫に心ない言葉を容赦なくぶつけ始めたところが前兆だったのか。
事態に直面する家族と現場だけでなく、社会全体が孤立させずに直視すべき問題。
宮沢りえと磯村勇斗が対峙する長尺のシーンの迫力がすごかった。
この映画の良心は、昌平か。
経験値が佇まいに滲むようになった宮沢りえをはじめ、磯村勇斗、二階堂ふみ、オダギリジョー。このキャストでなければできなかっただろう作品。
ヒトであることの判断
予想以上に、暗く重い雰囲気の濃厚な作品だった。
投げかけられた問題も難解すぎる。
正解なんて無いだろうけど、だからといって知らんぷりも出来ない、捨置けないタスクを受け取った気分。
心の無いモノは殺して(生命を破壊して)いいのだろうか?……
草刈りを延々としながら滔々と考えてた事があり、雑草を刈りとる事もまた生命を剥奪してる事なら、連続殺人者と似た行為なのか?と考えを巡らせた事もあったのを思い出させられた。
生きる事を許されない存在が有るとしたら、どんな生命体なのか?
生きてるだけで価値が有る、とどこかの政治家が言ってたが、深く掘り下げて考え、その真意を探ると複雑な思いに駆られる。
考えても仕方の無いところにまで展開してしまう……。
誰もが承認欲求のある当事者
序盤で、宮沢りえ氏演じる洋子が障がい者施設に初めて足を踏み入れていく場面の異様な雰囲気には、私自身が初めて訪問教育の臨時講師として重症心身障がい児施設に足を踏み入れたときも同じような雰囲気を感じていて、それはまた、『夜明け前の子どもたち』の序盤にも重なる。本作のパンフレットの評にも、二通諭氏がその作品を比較して取り上げているが、きー氏と誕生日が同じところから共感し、コミュニケーション可能性を感じた様子は、その作品だけでなく、『ジョニーは戦場に行った』『潜水服は蝶の夢をみる』等にも通じるであろうし、発達保障論の肯定的な面を拾い上げるのも重要ではあるけれども、職員の重労働という観点からの退職者の続出という共通な面にも目を向けるべきであろう。『人生、ここにあり!』等のように、当初感じていた異様性が、付き合いを深めるに従って変容していく作品もあるけれども、それらとは最終着地点が違うのだろうとも思った。育てた子どもの疾患のためにわずか3年で命が失われた痛みから立ち直れず、再びの妊娠にも、躊躇し、迷い、分身に言い負かされそうな描写は良かったと思う。虐待から利用者たちを救おうとした行動は、『トガニ』やテレビドラマ『聖者の行進』の支援者たちにも連なるが、そうした努力が途絶してしまうところにも、現実の悲劇の遠因があったのであろう。最後に洋子が「きー」の母のことを思い遣って走り出す姿に、現実の事件後にも、同じような行動をした職員たちの姿が反映されていると思われた。
二階堂ふみ氏演じる陽子は、そうした序盤の異様な雰囲気に連なる異常行動者の一人かと思ったが、健常者の職員であった。しかし、関係を深めてみると、洋子の経歴に賞賛を向けながら、やがては洋子の作品にも、出産への躊躇いにも批判的な意見を述べて追い詰めていく二面性をもった人物として描かれていて、事件の発生に際しては、「さと」の犯行に脅迫と自身の同調によって動かされつつ、利用者の命を奪うことには躊躇いをみせながら立ち会い続けた様子にも、現実の事件後に、同じような行動をした職員たちの姿が反映されていると思われた。
『波紋』でもろう者の恋人のいる青年を演じた磯村勇斗氏が演じる「さと」は、当初は利用者たちに優しい心根をみせ、『花咲か爺さん』の紙芝居を語りきかせていたが、その結末が「汚いもの」と表現していたところが引っかかっていた。それはよくばり爺さんの心だったと思われるのに、その志を喪失したのが残念なところである。先輩職員たちによるいびりによって、理想を失っていく様子は、現実の事件発生の経緯説明とも共通するのであろう。自分との線引きを始めるきっかけとなった重度利用者の姿との遭遇は、漫画『ブラックジャックによろしく(精神科編)』、さらに遡っては有吉佐和子氏作の小説『恍惚の人』での同様の症状の患者を想起したが、その姿に絶望するとは、今日的には学修によって身につけておくべきプロ意識の欠如と指摘されても仕方ないだろうし、2005年2月に石川県内の高齢者グループホームにおいて発生した職員による利用者殺人事件の課題が解消されていないとも思われた。ろう者の恋人との会話にも、手話を使わない部分が目立つように態度が変化していた。洋子と昌平にも同調を求めながら、それぞれの反論を論破した後、政治家に手紙を書いて持論の承認を求め、精神科病院に強制入院させられ、事件直前に退院していた経緯も、現実の事件発生までの経緯と一致していた。"PLAN'75"や『ロストケア』と大きく異なっているのは、特にこの、持論の承認を求めている点であり、あるネット評にも、登場人物それぞれに承認欲求があると指摘されたものがあり、実行犯の本質に最も迫っていることであると言えよう。また、殺される側からの視点で撮影する方法も、観る側を引き込む上で、工夫が凝らされていると思われる。同様に、施設の異様な雰囲気を醸している作品の一つでもある『閉鎖病棟』でも殺人事件が描かれるが、加害者の立場や理由が大きく異なっている。
オダギリジョー氏演じる昌平は、様々な悩みを抱える洋子の夫としては、当初、かなりすれ違っている印象が強く、社会人としても自信なげであったけれども、警備員の仕事をしていて、先輩からの揶揄に反論できるようになって、少しずつ自信を取り戻し、「さと」の言動にも同じように反論していたが、どうも殴り返されたようで、説得には失敗したようであった。終盤で昌平は、ささやかながら先に挙げた承認欲求を満たされた人物として描かれている点でも救いを見出せるとともに、この夫婦は、『福田村事件』における主人公夫婦と同じように、部外者から当事者へと巻き込まれる立場として描かれているとも言えよう。
序盤の場面での異様な雰囲気で連想したまた別の映画作品には、大江健三郎氏原作の『静かな生活』もあったが、改めて観直すと、妹ですら障がい者が社会に迷惑をかけるかもしれないという疑いの目を向けることがあったり、教師への恨みを晴らすために障がいのある家族への支援を装って近づいた男性が、障がい者の無能性をみくびって反撃を受ける様に、障がい者の不思議な能力の一端を描写しているのを改めて見出すことができ、大江氏が障がいのある息子への絶望と意識の転換を見出した経緯を綴った小説『新しい人よ眼ざめよ』にも、改めて光が当てられるべきであろう。
利用者やろう者の恋人役に当事者が抜擢されたのも、評価されるべきであろう。
あなたは無傷で手ぶらで善の側に立とうとするなんてズルいですよ。
重いなあ。問題作だって言ってる人、現実を分かってないって憤る人、そういう人もいるだろうけど、こうして人の嫌がるところに手を突っ込んで問題提起をすることは評価すべきだと思う。少なくとも、知っていながら知らんぷりしているよりも。宮沢りえやオダギリジョーたち役者陣は、おそらく撮り終えた後に疲労困憊だったことだろう。観ているだけのこちらがこれだけ心が重くなったのだから。
検診で子供に障害が見つかった場合、96%の人が中絶を選ぶらしい。洋子(宮沢りえ)も問い詰められる。「同じでしょ?障害があったら中絶しようと思ったでしょ?あなたは無傷で手ぶらで善の側に立とうとするなんてズルいですよ。」見透かされているのだ。いい人であろう、常識人であろう、弱き者の味方であろうと思いながらも、いざ自分が「そちら側」の立場になるかも知れぬと察した時の、人間としての狡さ、小賢しさを。そして、それを素知らぬ顔で違いますよと言い返せぬ正直さを。そうさ自分だって、人には授かった命だからとか何とか体裁のいい言葉で善人振ってしまうんじゃないかと思うもの。心の中では96%の1人でありながら。この映画を観る行為だけで、さもこの問題を知っているかのような似非満足に浸ろうとしていたのだから。洋子の戸惑いは、自分の中にもあるのだ。せめて、そんな自分の中にある「善意のふりした悪意」に自覚していようと思う。
希望と絶望が同時に襲い掛かってきたようなラストは、今の世の中、この問題がまだまだ解決していない、いやむしろ解決のしようのない泥濘なのだと思い知らされたような気分になった。
月の元に晒す
太陽の元に晒すべき事件、隠蔽してもならないし、忘れてしまってもだめだ。
だけど、ドキュメンタリーではないから、リアルでなくていい。あくまでもフィクションとして月の元に晒した感じ。
映像は終始暗い。
満月でもなく三日月の明度の陰鬱とした映像が続く。
殺人というのはだれを殺したとてどんな理由があったとて今の世の中の場合は罪に問われる。
だが、時代が変われば違う。戦時は殺したことが勲章にもなった。
戦国時代は、大河ドラマなんかでも堂々と首を取ったことが誉となっているし、みんな見てるでしょ?
つまり、歴史の教科書に乗るくらい歳月が流れていない、数年前の事件は取り扱い注意は当たり前!
そこに切り込むことは大変危険で怖いことだが、風化させてはならない問題を提起をすることに強い意義は感じる。誰もが忘れるほどに遅くてはダメだ。
宅間孝行が普段はタクフェスでいい芝居を作っているが、今年はタクラボ名義で「神様お願い!」という舞台で安倍総理襲撃事件を描いた。パーフェクトな出来で衝撃を受けたし知らぬ間に泣いていた。あまりの素晴らしさに2回観た。
直近の事件を扱うのはとても勇気のいること。
この映画はタクラボのレベルには達してはいないけど勇気は買う。
宮沢りえ、オダギリジョーが演じる夫婦が毒消しになっている。
だってさ、〈犯人が障がい者を殺しました。〉だけじゃ映画にはならないからしょうじきじいさんと正直ばあさんが必要なのだ。
回転寿司で普通は大人は玉子のお寿司なんて取らないよ。そこが被った2人の手の触れた瞬間!素敵じゃないか。2人とも小説やストップモーションアニメの夢追い人、子供のような心を持つピュアな人物だから玉子に手が伸びるのだ。
オダギリジョーの夫がほんとに優しく妻を師匠と呼ぶほど尊敬していて、妻を包み込んでいる。
二階堂ふみがまたいい味出している。嘘つきな嫌な女が素晴らしい。
事件の真相は?真実は?それを微妙に誤魔化してしまう嘘の象徴。彼女は浮気をしてる父や浮気を知ってて知らない顔してる母と、家庭も全て嘘だ。
そして一番拍手を送りたいのは磯村勇斗。まあ、難しい役をよく頑張りました。花丸!
花咲かじいさんの紙芝居を作って利用者に読んであげる優しい顔、刺青に大麻に大量殺人の裏の顔。聞こえない彼女に愛してることも告げつつこれから殺しに行くことを告げるシーンには射抜かれた。
正直じいさんだったのに意地悪じいさんになってしまった悲しい人物だ。
施設内の糞尿にまみれ裸のモザイクのかかった男の姿は衝撃的だ。見てしまったが最後、たがも外れる。
ここ掘れワンワンで糞尿を掘らされたことに怒り意地悪じいさんはポチを殺してしまう。
そこだ!磯村勇斗はそこで意地悪じいさんに豹変の演技を見せたのだ。
昔話の中では、正直じいさんはポチを葬った灰で枯れ木に花を咲かせる。
この映画で咲いた花は久しぶりに完成した小説とフランスで受賞したストップモーションアニメだ。
また、お腹の赤ちゃんを堕胎せず物語は終了する。どうしたかは想像に委ねられる。
もう一度回転寿司に行けた2人だもの。きっと1年後2人の間には可愛いベビーがいるはずだ。
施設には監視カメラが着いたのだから、もう月ではなく太陽の元に晒そう。
撮るの大変だったろうな
実際の身障者が出演してて、制作側の苦労を想像してしまう。
嫌なことから目を逸らして生きているのは誰もが一緒だ。胸に直球で来る。
答えは出しようもないが、生きることを肯定するのは愛だというメッセージが強かった。
答えは出ない
究極だわ…。
誰にも感情移入せず、映画作品として観ることに努めた私は、
お前もきちんと考えろ!という投げかけから逃げているズルい人間だよな…。
そんなの判っているけど、結構、心痛いわ、これは。
ストーリーや映像的には、必要ない部分も多々あったけど、
それは、監督のくせということで、
元になっている事件については、
薄れていた記憶が再び濃くなり、考えようとする所まではいけた。
でも、やはり、最終的に答えは出ないよ、と逃げる自分への嫌悪感。
それも、また薄れていくのだろうな…。
難しい…。
しかし、俳優さんたちはスゴいね…。
メンタルやられないのかな。
宮沢りえ 年取って好きに成った。
内容は重いです。
最後はハッピーエンドなんですが、重すぎてほのぼので終われ無いですね。
役者がオダギリジョーと宮沢りえなんで見れました。
人間は何か、正義は何か、幸せは何か
考えます。
多くの人が観るべき映画
重度障害者施設を舞台にした映画で、観た後は重い問いかけを渡された感覚に陥ります。
出生前検診で障害がある可能性があるとわかった場合に中絶をするのと、生まれてから殺すことはなにが違うのか。さとくんはそう問いかけます。
頭では違うことが分かっていてもそれをうまく言葉で説明ができない。この問いかけがとても印象的でした。
さとくんは心があるかないかで殺す基準を設定していましたが、洋子はそれなら私の息子は心がなかったってことかと聞きます。この時さとくんはなにも返事をしませんでした。
返事をしなかったのはなぜなのか。洋子に対して情があったから心がないとは言えなかったのか。それともわからなかったのか。
全体的にみる側がさとくんに同情する様なストーリーになっているため、もう少し施設入居者やその家族の話を入れてもよかったと思います。
ストーリーは重いですが、
多くの人が観るべき映画であると思いました。
月を観て
近辺の映画館では上映していないので上映している県一館のシネマで観てきました
主人公の小説が綺麗ごとと指摘されたり
同僚支援員の家庭が表面何事もなく生活されていく中
殺人犯のみが障がいをお持ちの方々に対して抱く感情を実際に行なう
ということを提起しているのでしょうか
誰もが綺麗ごとで済ます現在へのひとつの問いかけでしょうか
ただ現実に7年前に殺されたご本人の方々やご親族の心情を考えると
もう少し取り上げる内容を考えた方がいいと思います
殺人犯は他支援員より一生懸命やった結果あのような感情を持ったように
描かれています
実際は何回も施設長から考えを注意されていたと聞いています
あくまであの事件をヒントに描かれているとは考えますが
内容が内容だけに現社会に与える影響を考えます
また描かれている施設の様子
主人公が最初に入った時は鉄格子の入ったドアを解錠して入ってました
最初に入るドアがあんな状態なのはここ最近もそして過去にさかのぼってもほぼないです
事件は2016年です 各部屋が施錠されていたり
あの部屋は入らないようにと上司から言われているとか
便で汚れても放ったらかしなど皆無です
またフロアで過ごしていた方々もすごく暗く陰鬱に映されています
実際の施設はあんなことありません
もっと開放的で明るく楽しい雰囲気です
あの殺人犯の気持ちを裏打ちするためにあのように描いたかもしれませんが
楽しく過ごしている施設に押し入り殺人を行なったのが現実です
あの犯人の残虐性をもっと描いて欲しかったと思います
そうしなかったなんらかの意図があるかと思ってしまいます
現実の施設をもっと下調べしてから映画製作を行なって欲しかったと痛感しました
でないと今の施設があんなんかと思われる方がいっらっしゃるかもしれないこと危惧します
現代に「人間とはなにか?」を問うメッセージ映画
相模原やまゆり事件をモチーフに描いている問題作と言う事で観に行った。この事件の詳細は知らなかったが映画を観た後に調べると映画の随所にそのまま使っているんだなぁと改めて事件に興味を持った。
さとくんの主張は一貫している。「意思疎通のできない、生産性のないモノは人間ではない、排除した方が世の中のため」。モデルとなってる植村聖も同じ主張をしていると思われるが後で実在の植村聖の方がより普通の青年だと感じた。パンフレットを読み「共感させないため」にわざとさとくんは闇があるように描いているのだと感じた。
私達は上記さとくんの問に答えなくてはならないが、主人公(宮沢りえ)も明確に答えられないまま映画は終わっている。つまり観客に答えを問うている映画なのだと思った。
特に日本は宗教もない経済資本主義なのでお金の稼げない者、生産性のない者は排除されるような価値観であるのはさとくんに限らず現代に生きる私、皆さんも感じているのではないだろうか。
私は映画を観ている中で「私達が昔、原始時代(経済発展がない)中では、障害者たちはどうような生活だったのか」と想像してみた。たぶん命の危険はあるが現代より自由であったのではないかと想像した。私は「本来、人間に生きる明確な意味はなく、生きているだけで良い」と思っているが、私たちは経済「お金」以外の価値観を見つけないとまた同じような事件は起こるのではないかと感じた作品だった。
最後に宮沢りえさんはじめ役者陣はみんな素晴らしく実力派が揃っていました。事件が起こるまでの時間は長く、人間ドラマが繰り広げられるが飽きさせず見応えもありました。役者陣の力だと感じた。
石井さんの映画は力強いものが多いし、この映画も最後はそうだけど、...
石井さんの映画は力強いものが多いし、この映画も最後はそうだけど、それでもかなり主人公たちはよれよれした設定だった。オダギリジョーも宮沢りえも、難しい役をよくこなしていたと思う。磯村勇斗くんは、カルト映画など、受動的な状況に身をおいて精神が壊れる話を続けてやっていて、この役も、人の良さそうな感じとそれが精神病的に壊れて行く感じはうまく演じていた。二階堂ふみも、若き頃の演技の感じだ。謝りながら、嘘が許せない感じ、うまかった。
原作がそうなのかわからないけれど、夫婦の話を絡ませる演出は面白かったと思う。
回転寿司もいい。不気味だ。
夫婦に子どもの声が聞こえるなど、彼らも病気スレスレの設定がうまい。
人間の絆
すべての人間に共通する思いとして健康で幸せに暮らしたい、周りの人からあなたがいて良かったと望まれる人生を送りたいという願望がある。裏を返せば心身が健康でなく周りの人に世話をかけたり、もっと言えば疎まれるような人生は不幸だし、欲しくない。フランス革命から長い時間を経て2008年5月、ようやく障害者にも順番が来た。国連の権利条約を機に当事者が発信する機会が増えた結果、障害による社会的不利は健常者が解消することがルールとなるはず、だった。でも口に出さないけれどそれはあくまでも条約とか世界基準の大きな話であり、自分のこととなるとそれは受け入れられない苦痛となる。
さとくんの言動に胸騒ぎを覚え、非番にもかかわらず職場に出向き忠告する洋子。これに対するさとくんと洋子の声が混ざった本音の問いのシーンが強く印象に残っている。公に口にできない、しかし人間に共通する帯のような負の感情といった意味でS.モームの小説「人間の絆」のテーマにつながる。
しかし希望はある。今まで見たくないものとして隠されていたことがこの映画が公開され、生物の宿命として人間には生まれながらに持つ心身の条件があること、平等でないことが明らかにされた。この事実が白日にさらされ、目の前に突きつけられたことで人間は変化への一歩を踏み出すことができたと感じる。
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