ウーマン・トーキング 私たちの選択のレビュー・感想・評価
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良くできた映画
ショッキングなシーンは出さずに。映像やセリフで想像させる様に作ってあったこの作品。ひたすら、少ない出演者の話し合いのシーンが。それでも最後までドキュメンタリーに近い感覚で観てしまう演技力。ただ、少し重い雰囲気の話し合いのシーンが続くので。途中、何回か寝てしまっていて。何か腑に落ちない所もあったの、それが何だったのか考えていましたが。ココのコメントに、アメリカ人の俳優さん達だからそれは闘うの一択でしょう。と書いてあって。私の中の違和感も、多分そこだったんだ思いました。ただそれでも今作品は、時々映画に行っては一日に3~4本観たりする私ですが。今も、胃の辺りに重く残っている感じがして。自分の中に何かしら残り続ける映画になるんじゃないかな思ってます。何年か経って、又見てみようかなと思うんじゃないかな。本当は星4~4.5かなと思いましたが。意思の強いアメリカ人が演じて違和感があって。スッキリしない時間があったので、マイナス1させてもらいました。
寓話とは・・・
事前情報として、南米ボリビアで実際にあった事件をもとに執筆された小説をサラ・ポーリーが監督し映画化した作品で、アカデミー賞脚色賞受賞作品という事までは分かっていましたが、ちょっと変わった物語でした。
原作にどこまで忠実なのかは分かりませんが、監督は寓話として作ったと明言していますので、原作にはインスパイアされただけでかなり脚色をしているように思えました。
日記タイトルにした寓話とは「比喩によって人間の生活に馴染みの深いできごとを見せ、それによって諭すことを意図した物語」とウィキにあります。
その割にざっとレビューなどを見渡しても、寓話として何に例えた比喩なのか?を言及した感想は殆ど見当たらず、物語の中身そのものの感想の方が多い様に見受けましたが、それはどうしてなのでしょう?
本作、監督の寓話という事へのこだわりだと思うのですが、物語の設定はかなり雑というか荒っぽいというか、設定的に???と思える部分が多かったです。だからこそ、そういう些末な事よりも寓意を読み取って欲しいという作り手の願いがあったように思うのですが、高評価の割にそこにまで言及されていないのが寂しい気はしますね。
本作は“アーミッシュ”の様な宗教集団の小規模な村が舞台で、元々人間は集団生活でしか生きられない生物であることは歴史的に見て分かっていることですが、その集団も数千年前には都市から国家規模にまで拡大してしまいましたが、数万年前までは(最大)150人程度の集団(コミュニティー)だったのです。
そして私が本作を見て思うに、その程度の集団で起こりうる問題とその対処方法も、今の国家規模の問題と対処法も基本的には変わらないのではないかというのが本作のメッセージであったように思えました。
そして、比喩として本作の村が国家だとすると、女性は一般市民という事になります。そして、一般市民にファシズムのような国家的暴力があったとしたら、市民はどのように判断対処すべきかをミニマムな物語で表現していたのだと思います。
そこで行き着くところの選択肢はどのような規模であろうと、1.赦す(生涯我慢する)2.闘う(死を意味する)3.去る(これも死の覚悟が必要)の三つの手段しかないということであり、その選択過程に於いてそれぞれの人間性が試されるというお話だったと思います。
まあ、特に男性性にとっては厳しいテーマの作品でしたが、本作はあくまでもシミュレーションであってラストのその後は描かれていませんでした。
しかし、もし人間に性別が無く雌雄同体として高等生物になっていたら、いったいどんな社会が生まれていたのでしょうね。
寓話的な雰囲気を漂わせつつも、今問われるべき問題を精緻に描写した一作
予告編が示す通り本作は、ある共同体で起きた事件を契機に、自由も教育の機会も奪われていた女性たちが、重大な決断を下すべく議論を重ねる物語です。
とはいえ、男性と女性を単純に加害側と被害側に分断して、後者による抵抗を「正しいこと」として扱う、といった単純な構図では捉えきれない切り口を持った作品です。そのため、楽しい気分で劇場を後にする、といった種類の作品とは言いがたいものがありますが、それでも本作で女性たちが下す決断の重さは、受け取る意義が十分すぎるほどあります。
彩度を落とした映像の落ち着いた雰囲気や、女性たちのまとう古風な衣装は、現代社会ではないどこかの時代、あるいは全くの架空の世界を舞台にした、寓話的な物語であるかのような印象を本作に与えています。しかし本作の原案となった事件、そして舞台となる共同体のモデルになった集団が事実に基づいていることからも、紛れもなく現代の社会を扱った物語であるといえます。中盤に登場するあるものの強烈な違和感や、結末がもたらす高揚感とその先に横たわるあまりにも重苦しい予感は、先が見えないからこそ深い感慨をもたらすものです。
しかし同時に、本作にはいたるところに、観客の予断を(おそらく意図的に)混乱させる仕掛けが潜んでいます。それらがもたらす心理的な混乱そのものは、サラ・ボーリー監督の意図通りだとは思いますが、人によっては中盤以降の展開が頭に入ってこないほどの疑問を抱えたまま結末を迎えることになるかもしれません。初見で受ける印象の重要性は重々承知しつつも、本作に関しては、先に述べた実際の事件や集団について、概要だけでも知ってから鑑賞に臨むことをお勧めしたいです。
内容もキャスト方々の演技も重い
これは全くのフィクションではないんですよね
それも100年以上前の出来事かと思えば2010年とは
今の文明を感じる事ができない生活環境、服装、そんな中で突然バンドエイドが出てくるから「え?」ってなったけど、途中で2010年とわかりました
ほとんど会話で進むストーリーで、でも彼女達の状況は女優さん達の演技で伝わってきます
長々と議論をせずに、そんな場所からさっさと出て行けばいいじゃんって思いましたが、彼女達は「みんな揃って」、そこまで一緒にするのは何で?と思ったりしましたが、ずっとそういう中で生活してきたからなのでしょうか
他の世界を知る事ができない環境だから「なかった事に」と「赦し」という選択
悲しすぎます
閉鎖的な世界で生きてきた読み書きもできない彼女達は、いわゆる普通の世界に行って苦労する事もあるだろうけど、次の世代じゃなくてあの彼女達にもその選択で正解だったと思えるような今後であってほしいと思わずにはいられませんでした
「去る」ではなくて「新しい世界に出て行く」であってほしいです
自然の中の音のエンドクレジットがとても良かったです
理不尽な秩序への一つの抵抗
信仰に深く絡んだ不公平な秩序の中に生きる女性を描いた映画としては、「聖地には蜘蛛が巣を張る」が記憶に新しい。本作も「聖地…」も実在の事件をベースにした作品である。
本作は不公平な秩序と集団で向き合う女性たちが描かれている。3つの選択肢から選んだ2つを更に絞り込むため、代表者達が法廷劇にも似たテイストで2つの方法のメリットとデメリットを挙げながら自分達が置かれている問題の本質を討論していく。
同席した少女の視点を絡めたりして緩急を付けながら議論を追う構成が、観客の目を離させない工夫に満ちていて見事だった。
教義という共通の価値観を持った彼女たちの間でさえ紛糾する議論は、やがて自分の子供達、そして未来の子供達を守るためにどうすればいいか、という論点へ収束する。内に抱える怒りや絶望、望む未来の方向がバラバラでも、「家族への愛情」という一つの価値基準によって纏まっていく女性達の様々な横顔に胸を打たれる。
議論の代表に選ばれなかった女性達はどうしていたのか、親たちが議論を重ね、決断を告げた時子供達は何を思ったのかが気になった。この議論と決定をもう少し多面的に見たかったと思うのは欲張りすぎだろうか。
コミュニティの外を知らない彼女たちの未来は決して楽観視できるものではないだろうが、エンドロールで流れる音が人工的な楽曲から自然音へ変化する様子に制作者が込めた希望を感じた。
実際の事件とフィクションの違い
実際の事件:少なくとも150人以上の女性たち(下は3歳から上は60代まで)が動物用の催眠スプレーを使った犯人によって被害に逢っていたボリビアのゴースト・レイプ事件。女たちがいくら異変を訴えても、幻想に違いないと取り合ってもらえなかったが、女性が犯人のうち二人をとらえたことで明るみに出て、ボリビアの警察当局が介入し、犯人には実刑が下った。しかし警察が介入したのは1度だけで、女性たちは村を出ていないし、置かれた状況もほとんど変わっていない。
映画を観ただけでは納得できないものが残ったので色々調べてみたら、実際の事件にインスパイアされたフィクションが映画の原作で、原作者はカナダ出身のメノナイト(でも18歳で離脱)の作家ということが分かった。
少なくとも原作のレベルではボリビアの話なのだろうけど、映画の脚色の段階で場所が変わったようで(南十字星のエピソードはあるけど、デイドリームビリーバーだし、キャストは英語を話しているし、どう見ても北米)、混乱する。メノナイトは新大陸に移住した年代も世俗化の程度も様々だけど、同化を求められ、それを拒否した最も保守的な集団が南米にいるようだ(オランダ語の影響を受けた低地ドイツ語を話しており、現地の公用語を話さない)。
#MeToo の普遍的な物語にするために敢えて場所をぼかしたのだろうけど、ルーニー・マーラやクレア・フォイ、F・マクドーマントといった強キャラが英語を話していると、何を迷うことがあろうか。逃げる一択じゃないかと見えてしまうのが違和感の正体だったかなと思う。
時代が異なるような印象を受けるけれど、こういう他の世界から閉ざされ...
時代が異なるような印象を受けるけれど、こういう他の世界から閉ざされた場所ゆえに、こうなのだろうとも思えた。
個性などなく統一された服装。
男性だけに与えられる教育の機会。
女性に与えられないさまざまなこと。
そうすることで、疑問もなく、この生活が当たり前のものとなり、コミュニティーは成立するのかもしれない。
そこに、投じられた一石。
立ち上がる女性たち。
でも、こんな状況下において、なにもせずに残る選択すら存在することに驚く。
そして、それぞれの意見をぶつけ合うものの、結論はテンポよく出てこないのも、なにもかもを受け入れて生きてきたゆえなのか。
そんなさまざまな意見がある状況で、恐ろしいのは、誰かが被害にあった、ではなく、その場にいる女性、おそらくほぼ全員が被害にあったか、目撃しているという事実。
絶望と希望が同時に襲ってくるスリリングな会話劇
同名小説の映画化であり、ボリビアにあるキリスト教一派の村で実際に起きた連続レイプ事件を基に描いた作品。その事件が「悪魔の仕業」や「作り話である」と、男たちによってうやむやにされてきたが、ある日犯罪だったことが明らかになり、家族を捨てて村を出るべきか、それでも残るべきかを女だけで話し合う2日間のお話し。
驚くべきなのは これが2010年の出来事だということ、そして、非暴力を信条とするキリスト教宗派の信徒である彼等は、人としての尊厳を奪われ続けているにも関わらず、暴力による抵抗をしないこと、赦すこと、という選択も議題にあがるのだ…。
それでも続く彼女たちの日々の暮らしや農村の風景がとても美しく描かれていて、それがかえって起こっていることの悲劇性や「この場所を捨てる」という選択肢の重さを増していた。
タイトル通り「話し合う女性たち」の物語だが、教育を受ける機会がない彼女たちは文字が書けないため、唯一の男性キャストとして私の好きなベン・ウィショー演じるオーガストという男が書記担当として登場する。彼は村を出て大学で学び、村の学校の教師として戻ってきた男。村の男子を正しく教育することで変えられるかもしれない未来を一身に背負わされたオーガストの行く末は…
最終的に女たちがとった選択とその未来はどうなったのか…
絶望と希望が同時に襲ってくるとてもスリリングな会話劇だった。
当たり前のように「教育」の機会が与えられている私たちは、その重要性を忘れてはいけない。
女性たちの会話劇
映画は舞台劇のよう。ある村での女性たちの話。それ以外の場面展開はないといっていいほど。実話に基づいたベストセラー小説をサラ・ポーリーが映画化したとある。(2005年から2009年にボリビアで起きた実際の事件を元に描かれている。)
男性たちが事件で街へと出掛けた2日間いないときに、これまで男性の性暴力に脅かされてきた女性たちだけで、これからどうするかを話し合っていく物語。
それぞれの言い分があり、長老の女性たちが的確にエピソードを交えながら落ち着いて話を進める。賛美歌の歌もときたま出てくる。宗教上だろうか。一方、戦おうと主張する女性は怒りや憎しみいで言葉も荒くなっていく。その反対に、村を捨てて出ていくという女性は落ち着いている。
ここに出てくる女性たちは字も読めないが、知的レベルが非常に高く発言もうまい女性たちもいるのが不思議である。
信仰を持って生きる事を正面から語る傑作
ここまでガッツリと信仰に沿って生きる、御言葉を握りしめて、何が正しいのかを語り尽くす作品を初めて見た。途中でDay dream believerを鳴らしながら国勢調査の車が登場し、2010年であることがわかった衝撃。このコロニーには、州や郡の法律は適用されてないのか?隔離され教育が足りてないために知らない、のか。時代錯誤と思える生活をおくっている集団だからこそ、純粋に何を基準に自分達は決断すべきかが、苦しくも明確になっていく。
赦すと許容するは勘違いされやすいが、違う事だというセリフが深い。強要されても赦せないのだ。赦せなければ怒りと恨みは続く。勇気を持って選択し、愛のある生活を送るため、踏み出していく女性達の前を向く姿が清々しく、美しい。
サロメの殺気立ってる姿がちょっと痛快 フランシスマクドーマンドが変...
サロメの殺気立ってる姿がちょっと痛快
フランシスマクドーマンドが変われない女性、老いもあるだろうけど信仰を重んじるキラリと光る役で流石の存在感
最後の出発がかなり震えた。昨今ここまで格好良い新たな旅立ちは見たことない
グレタの時々差し込まれる馬二頭の話しも良かった
オーナのルーニーマーラが良かった。ドラゴンタトゥーの女のバッチバチの役や、her、キャロルもよかったが今回もすごい
何を選択するのか
自分だったら我慢に我慢を重ねて赦してしまいそう
他の選択肢を考える、耳を傾ける、常にそうありたい
最初の×付けるのって選挙になってるの?(笑) まあそれは置いておいて
ここまで哲学的な話しを繰り広げているのに読み書きできない??とか思いつつも寓話、世界観が独特なのであまり気にならない
納屋での話し合いがメインで人の動きは少ない
暴力的な部分が綺麗に切り取ってあり、かなり尖った作品と感じる
見なくていい部分はみない、見たいけど見れない、のどっちかでわかれそう。
結論から言うと傑作
目は口ほどに物を言い、
口は災いを呼び、
災いは行動を呼び起こすまでの芝居が圧巻!
言葉だけに頼らない細かな芝居で、それぞれの気持ち、状況、何故、をじわじわと手繰り寄せさせる。シナリオと芝居が優れていれば、大げさなセリフ、場所の移動、CG他あらゆるけれんは不要のお手本。
定番の曲の使い方も決まった。
教会にステンドグラスを使う理由もわかりやすい。
静かな闘志漲るクレア・フォイは、
サロメというより、
クィーンっぽかった(エリザベスと、
名曲とかけた?)。
スカーフェイス・マクドーナンド、ブラッド・ピットがPで、
ケレン不要の作品が成立しやすくなる例でもある、、のか。
デイドリームビリーバー
ひたすら会話劇
大草原の小さな家の話かと思ったら、まさかのデイ・ドリーム・ビリーバー!
リスベット2人もいるんだから、鬼に金棒だろ⁉と思っていたら…
フランシス・マクドーマンドは居るだけで恐い
ほぼワンシチュエーションだが、世界や時間の広がりを感じられる
納屋での話し合いのシーンがほとんどで、ほぼワンシチュエーションのようですが、不思議と世界や時間の広がりを感じられます。
ボリビアで起きた実際の事件を基にした小説が原作だそうです。
2010年の出来事であることは作中でも言及され、観る人に衝撃を与えます。
決して遠い昔話ではないと明示されています。
本作では男性と女性という構図ですが、人種であるとか身分であるとか、さまざまに置き換えて考えられると思います。
パンフレットの表紙には、村の女性が固く結び合う手が描かれています。
本作の見どころはいろいろありますが、固く結び合う手に象徴されていると感じます。
村の女性たちはみな被害者で、痛みや苦しみを共感しています。
女性たちは、怒りに染まるサロメの激情を受け止め正気に引き戻し、暴行の恐怖からトラウマを抱えるメジャルを労わり慰め合い、無力に打ちひしがれるマリチェに根気よく語り掛け勇気づけ合います。
彼女たちは教育を与えられていなくとも無能ではなく、知性と慈愛にあふれていることがわかります。
信仰の祈りや歌から、善き人たりえるものを知っているのです。
そして彼女たちは、未来への希望をも抱かせてくれる決断をします。
日本版の舞台でも観てみたい!
これはですね、日本版の舞台でも観てみたいです!
タイトルのまんまで、女たちの話し合いのシーンがほぼメインで、
それぞれの被害経験と、人間性から出る発言たちに、
自分ならどうする?と、こちらが感情移入する女性も
話す内容によってそれぞれで、ぐーっと引き込まれました。
抑え気味の映像の中、流れる赤い血が、
心の痛みをも現しているようで、
心臓がギューッとなるような怒りと悲しみを覚えました。
あえて加害者たちへの罰は描いておらず、
まぁ、女たちが出て行ったことがそうなのかも知れないが、
個人的にはボコボコにしたい気持ちが残っているので
若干、モヤモヤしつつ、そこを描きたい訳ではないことも解りますし、
描かない方が、彼女たちの選択までの過程が非常に印象深く残りました。
最後、未来に続く旅立ちで、本当に良かったです。
平和主義者の選択
映画自体に凄惨なシーンは描かれていないが、原作の実際に起こったというボリビアの事件はあまりにもショッキングで想像を絶する。複数の女性たちが男たちに牛用の麻酔スプレーによって意識を失わされて、昏睡状態の中で夜な夜なレイプされていた。これを男たちは「悪魔の仕業」「作り話」だと言い逃れ、レイプを否定してきたが、ある日犯行前に目を覚まし、抵抗し、犯人を目撃する女性がいたことから、犯行が判明する。被害女性は最低でも151人、最年少は3歳、最年長は65歳、成年男性や少年も被害にあったという痛ましい出来事だ。
こういう悲劇が起きた後でも冷静でいられるのは彼女たちに信仰心があるからであろうか? 彼女たちは、16世紀に誕生したキリスト教のプロテスタントからの分派である再洗礼派(アナバプティスト)の流れを汲んだメノナイトという教派に属している。この一派は、非暴力主義を貫いていて、暴力を使わない抵抗と融和および平和主義のために行動しているらしい。
赦すか、闘うか、去るか、議論が繰り広げられる。「男たちを赦すことができないと天国への門が閉ざされる」「今まで動物のように扱われてきたのだから、同じように男たちに反抗すべきだ」「自分たちだけでなく、子供たちの身の安全を守るために出ていく」
最後は平和主義に徹しているメノナイトらしい結論を導き出した。復讐に燃えるもの、子供たちの未来を見据えるものなど大半の女性たちは去り、信仰深きもの、知恵のあるものが残った。
どうするのが正解ということではなく、こうするしかないという苦渋の選択であった。
この事件が2010年の出来事であることを知らせる挿入歌『デイ・ドリーム・ビリーバー』は1967年にモンキーズは発売したシングルであるが、日本では、忌野清志郎らによるロックバンド「ザ・タイマーズ」の日本語カバーがあり、セブンイレブンのCM曲としても有名である。
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