ウーマン・トーキング 私たちの選択のレビュー・感想・評価
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サロメの殺気立ってる姿がちょっと痛快 フランシスマクドーマンドが変...
サロメの殺気立ってる姿がちょっと痛快
フランシスマクドーマンドが変われない女性、老いもあるだろうけど信仰を重んじるキラリと光る役で流石の存在感
最後の出発がかなり震えた。昨今ここまで格好良い新たな旅立ちは見たことない
グレタの時々差し込まれる馬二頭の話しも良かった
オーナのルーニーマーラが良かった。ドラゴンタトゥーの女のバッチバチの役や、her、キャロルもよかったが今回もすごい
何を選択するのか
自分だったら我慢に我慢を重ねて赦してしまいそう
他の選択肢を考える、耳を傾ける、常にそうありたい
最初の×付けるのって選挙になってるの?(笑) まあそれは置いておいて
ここまで哲学的な話しを繰り広げているのに読み書きできない??とか思いつつも寓話、世界観が独特なのであまり気にならない
納屋での話し合いがメインで人の動きは少ない
暴力的な部分が綺麗に切り取ってあり、かなり尖った作品と感じる
見なくていい部分はみない、見たいけど見れない、のどっちかでわかれそう。
結論から言うと傑作
目は口ほどに物を言い、
口は災いを呼び、
災いは行動を呼び起こすまでの芝居が圧巻!
言葉だけに頼らない細かな芝居で、それぞれの気持ち、状況、何故、をじわじわと手繰り寄せさせる。シナリオと芝居が優れていれば、大げさなセリフ、場所の移動、CG他あらゆるけれんは不要のお手本。
定番の曲の使い方も決まった。
教会にステンドグラスを使う理由もわかりやすい。
静かな闘志漲るクレア・フォイは、
サロメというより、
クィーンっぽかった(エリザベスと、
名曲とかけた?)。
スカーフェイス・マクドーナンド、ブラッド・ピットがPで、
ケレン不要の作品が成立しやすくなる例でもある、、のか。
デイドリームビリーバー
ひたすら会話劇
大草原の小さな家の話かと思ったら、まさかのデイ・ドリーム・ビリーバー!
リスベット2人もいるんだから、鬼に金棒だろ⁉と思っていたら…
フランシス・マクドーマンドは居るだけで恐い
ほぼワンシチュエーションだが、世界や時間の広がりを感じられる
納屋での話し合いのシーンがほとんどで、ほぼワンシチュエーションのようですが、不思議と世界や時間の広がりを感じられます。
ボリビアで起きた実際の事件を基にした小説が原作だそうです。
2010年の出来事であることは作中でも言及され、観る人に衝撃を与えます。
決して遠い昔話ではないと明示されています。
本作では男性と女性という構図ですが、人種であるとか身分であるとか、さまざまに置き換えて考えられると思います。
パンフレットの表紙には、村の女性が固く結び合う手が描かれています。
本作の見どころはいろいろありますが、固く結び合う手に象徴されていると感じます。
村の女性たちはみな被害者で、痛みや苦しみを共感しています。
女性たちは、怒りに染まるサロメの激情を受け止め正気に引き戻し、暴行の恐怖からトラウマを抱えるメジャルを労わり慰め合い、無力に打ちひしがれるマリチェに根気よく語り掛け勇気づけ合います。
彼女たちは教育を与えられていなくとも無能ではなく、知性と慈愛にあふれていることがわかります。
信仰の祈りや歌から、善き人たりえるものを知っているのです。
そして彼女たちは、未来への希望をも抱かせてくれる決断をします。
日本版の舞台でも観てみたい!
これはですね、日本版の舞台でも観てみたいです!
タイトルのまんまで、女たちの話し合いのシーンがほぼメインで、
それぞれの被害経験と、人間性から出る発言たちに、
自分ならどうする?と、こちらが感情移入する女性も
話す内容によってそれぞれで、ぐーっと引き込まれました。
抑え気味の映像の中、流れる赤い血が、
心の痛みをも現しているようで、
心臓がギューッとなるような怒りと悲しみを覚えました。
あえて加害者たちへの罰は描いておらず、
まぁ、女たちが出て行ったことがそうなのかも知れないが、
個人的にはボコボコにしたい気持ちが残っているので
若干、モヤモヤしつつ、そこを描きたい訳ではないことも解りますし、
描かない方が、彼女たちの選択までの過程が非常に印象深く残りました。
最後、未来に続く旅立ちで、本当に良かったです。
平和主義者の選択
映画自体に凄惨なシーンは描かれていないが、原作の実際に起こったというボリビアの事件はあまりにもショッキングで想像を絶する。複数の女性たちが男たちに牛用の麻酔スプレーによって意識を失わされて、昏睡状態の中で夜な夜なレイプされていた。これを男たちは「悪魔の仕業」「作り話」だと言い逃れ、レイプを否定してきたが、ある日犯行前に目を覚まし、抵抗し、犯人を目撃する女性がいたことから、犯行が判明する。被害女性は最低でも151人、最年少は3歳、最年長は65歳、成年男性や少年も被害にあったという痛ましい出来事だ。
こういう悲劇が起きた後でも冷静でいられるのは彼女たちに信仰心があるからであろうか? 彼女たちは、16世紀に誕生したキリスト教のプロテスタントからの分派である再洗礼派(アナバプティスト)の流れを汲んだメノナイトという教派に属している。この一派は、非暴力主義を貫いていて、暴力を使わない抵抗と融和および平和主義のために行動しているらしい。
赦すか、闘うか、去るか、議論が繰り広げられる。「男たちを赦すことができないと天国への門が閉ざされる」「今まで動物のように扱われてきたのだから、同じように男たちに反抗すべきだ」「自分たちだけでなく、子供たちの身の安全を守るために出ていく」
最後は平和主義に徹しているメノナイトらしい結論を導き出した。復讐に燃えるもの、子供たちの未来を見据えるものなど大半の女性たちは去り、信仰深きもの、知恵のあるものが残った。
どうするのが正解ということではなく、こうするしかないという苦渋の選択であった。
この事件が2010年の出来事であることを知らせる挿入歌『デイ・ドリーム・ビリーバー』は1967年にモンキーズは発売したシングルであるが、日本では、忌野清志郎らによるロックバンド「ザ・タイマーズ」の日本語カバーがあり、セブンイレブンのCM曲としても有名である。
考えること、信念を貫くこと
残忍な話でありながら、前向きな展開で進んだことが救いでした。
女性たちの議論は、痛々しい言葉とともにではありながら、建設的に答えを導き出していき、時々痛快さすら感じさせてくれました(ちょっと「十二人ね怒れる男」みたいにも)。
それでも、被害者である女性が「その地を出て行く」ことを選択せざるを得ない状況が苦しかったです。
後半の南十字星に向けられた拳が、決起のしるしと重なり、新天地での自由と安全を確信させてくれるような演出でした。
そしてこの日はきっと、残された男性たちの新たな出発点にもなったはずで、その辺りも少しだけ気になりました。
悔い改めないものを赦すのは…
私にとってですが、観る前から満点決定な題材なので、期待しまくっていましたが、期待通りというか、期待以上に精緻というか。
2010年ら辺に、メノイストという宗派のキリスト教のムラで、家畜用鎮静剤で眠らされた女が、ムラの男たちにレイプされる風習があって、その出来事が長年夢か幻かのように扱われてきたけど、目撃者が出たため逮捕者がでた。その逮捕者をムラの男たちが保釈させるために、外出している2日の間に、女たちが自分らの処遇を話し合う、という話。
作中では集団をコロニーと、呼んでいたけど、私は日本のムラ社会の支配構造に類似性を感じたので、ムラと変換してみていたけど、多分それはだいぶ違う。
ムラ=宗教=思考停止というのが、私の固定観念で、それを根拠に地元(ふるさと)を嫌っているのだけど、作中で語り合った女たちは、思考停止してなかった。
フランシスマクドーナントは思考停止した系の人として描かれていたし(顔の傷って男たちにやられたものよね?)、ジェシーバックリーも暴力によって思考停止していたけど、そうではない人がいて、その言葉に考えを変えた。というか、考えることを手に入れたというか。そこにいた人は、私がイメージするムラの住人(だけ)ではなかった。
読み書きできなくても、制限された生活の中でも、思考も批判もできる。
知性とは、知識と必ず重なるわけではない。
された事の傷を抱えながら、とった行動で娘や姪や孫を(間接的に)傷つけたことを自ら省みた。
被害者に選択肢などなかった。
あなたたちには選択肢はなかった。
赦しが信仰の根幹なのだとして、赦してきたが、男たちには赦しではなく、許可として作用した。
悔い改めない者は赦されない。悔い改めないものを赦すことは、不可能である。
彼らが変化した時、赦すかどうか決めよう。
今は赦さない。留まることで、怒りが抑えられず男を殺してしまうのも、信仰に反する。暴力を使わない、使いたくない。だからみんなで去る。
彼女らが積み上げた議論に、感動した。こんなに傷ついたなかで、信仰を失わず、暴力で従わせた男のやり方を真似ず、娘や息子を、傷ついた自分を守るため、みんなで去る。それしかないと思った。このような議論が我々には必要なんだと思った。
残した男の子たちは、オーガストが頑張って教育する。だからオーガストは留まる。
微妙な年の男の子をもつ母親の一人は、息子の目に劇薬を振りかけて無理やり連れ出したみたいだった。オーガストは彼女に銃を渡した。
これは、問題はこれからも残るという暗示だと思う。
綻びはあるだろう。またさらに誰かが傷つくだろう。
でも、わたしが目指さなければならない世界の方向性、可能性が見えた。また、信仰は思考停止ではない場合がある、と思えた。
この映画で特にルーニーマーラーが、すごいって思った。みんな熱演だけど、ルーニーってこんなに、印象的だったっけ?って思った。えくぼも印象的だし、彼女はなんでこんなに理知的にみえるんだろうって思った。
国勢調査の運転手、ブラピっぽかった。サイドミラー越しだったけど。デイドリームビリーバーが現代の出来事だと知らしめる印象的なシーンだったね。
あと、トランスジェンダーの男の子がいて、彼も暴行の被害者なんだけど、女の名前で呼ばれるからか、大人とは話さなくなった。でも、ラストで年上女性からメルヴィンってゆう男の名前で呼ばれて、やっとその名前で呼んでくれたねって返事するところも、よかった。
サラポーリーありがとう。
南十字星
北アメリカではその星座はみえない 唯一みえるのはハワイだけ ということはここはあの実際の国、ボリビアなのではないだろうか 天文航法に簡易として劇中に行なっていた、あの腕を上に上げての拳のつきたては勇気を鼓舞するポーズそのものであることも又メタファーとして興味深い そして何より、ボリビアはチェ・ゲバラが最後に参加した革命戦争の場所でもある 偶然とは言え、思想や宗教の中で、何より民主主義を体現した今作の意義はとても強大である
素朴で牧歌的な生活を営む宗教コミューンであるメノナイト内で起きた醜悪な事件で、女性達が選択した行動は?という筋書きだが、中身はとても意義深い深慮に富んだテーマであった 会話劇でもあり、演劇でも充分表現は可能であるが、しかし映画作品としての画の強さはこの作品を雄弁に語る手立てとしてこれ以上ないものであろう
有るネタバレサイトでは、『迷わずに去れ!』なんていう、全く以て劇中での寄り添いのようなものが感じられない乱暴なテキストが掲載されていたが、彼女たちの身上を推し量る、又は置かれた環境を考えれば、それは集団自決に等しい選択なのが全く理解できていない○○警察みたいな短絡的思考なのであろう そしてそれが劇中の事件を引き起こす種だと気付かないのかと暗澹たる思いである その暗澹を打ち消すように突如現われるモンキーズの♪デイドリームビリーバー♪ あの古風な出で立ちや暮らしからタイムスリップしてきたかのような国税調査の車と大音量の彼の曲は、将来の期待や絶望の前触れ、そんな陰と陽が綯い交ぜになった一言で言い表せない曲調である 議論は踊り、在らぬ方向にも寄り道をする その全てが勿論大事な語りであり、不要なモノはなにもない それほど彼女たちには今迄こうして語り尽くす場が無かったからである なんで男達全員がその犯人の釈放を要求するために拘留先に向かったのかの理由は不明なのだが、数の力を利用しようとしたのだろう 逆にそれが女性達への機会の譲渡となることなど考えもせずに・・・ あのストーリーの中で心身とも苦しんでいる人達は等しく非人道的扱いを受けたという事実を基礎とするならば、今作を酷評する輩とどうやって話し合いをすべきなのだろうかとそのアイデアが思いつかない位、合意形成は難しい 日夜国会で行なわれている議論は果して少数派に寄り添った手順を踏んでいるのか 暴力的に多数決が正義と言わんばかりの輩がネット上に溢れている昨今では、ジェンダーやLGBTq+の法案をバックドアが沢山ぶら下がった醜悪な形に作り替えている
ネタバレサイトで大変秀逸なテクストをみた 『差別を誰が決めるのか、それは合意形成で決める』 そしてその中で対応策を探す方向性へと発展していくことなのだと・・・
勿論、今作中でもその合意形成に相容れない人物が存在する そもそも去ることを拒否する者、闘う意志を表し、しかし最終的に従うが、その強引さは女性達を苦しめた魔酔スプレーを我が子にかけるという元も子もない所業 尚且つピストルの譲り受けが将来への新たなる火種に成り得る予感 一筋縄では行かないそれらの思考や行動も、その全ては未来に引き継がせない、悪夢をここで断ち切るという覚悟と勇気を今作では説いているのであろう 戻ってきた男達はこの顛末を、唯一残った教師から訊かされた時にどう考えるのだろうか? 先ずはあの教師を血祭りに上げて、女性達を追いかけるのだろう 男達の未熟さを棚に上げて、顧みない所業に気付かず、憐れな性別は己の正義のみを信じて血眼になる 確かにその性別を躾けるのは"教育"なのであることを力強く今作は訴える メッセージ性の強さ故、今作に胃もたれする観客もいるかもしれないが、そういう人達に相応しい四文字熟語を 『虚心坦懐』
閉鎖された空間の違和感
閉鎖された空間が作り出す違和感って物語の題材になりやすい。「メイズ・ランナー」のようなSFに多い印象があるが、「ヴィレッジ」みたいな映画も印象的だ。
本作は、村の男性たちから受けた性的虐待・暴力をこのまま受け入れるのか、残って男性たちと戦うのか、それともその村を去るのかを女性たちで議論するという話。てっきり喧々諤々の議論が繰り広げられるのかと思っていた。
いや、もちろん議論のシーンが多いし、その中から徐々に真実が明らかになっていく流れではある。でも、もっと議論の対立点がハッキリしていて、後から明らかになる事実でみんなの方向性が変わる、「12人の〜」的な話をイメージしてしまっていた。だから、村の女性たちが結論を出す流れがふわっとしていたので少し意外に感じてしまった。
そうなんだよな。議論を楽しむ話ではなく、村の女性たちが男たちからの暴力に立ち向かう話なんだよな。そして、(明確には説明されていなかったが)この村の特異性と設定の年代を感じて、そしてあの別れを悲しむ話なのだとわかった。「デイ・ドリーム・ビリーバー」が流れてきたときはBGMと勘違いして驚いた。なるほど、そういうことか!と。
やはり人を縛り付けるためには知識、情報の統制が効果的ってことだ。実際にあった話を題材にしてるってところも含めてとてもおぞましい。
ルーニー・マーラが可憐
ルーニー・マーラというと「ミレニアム」が強烈だったのでメイクも全く違い、可憐で眼差しがいやしの人であった。オーガストのはにかみも切なかった。強烈な設定であるが少女らの生活含め平穏で淡々としているがこの子らを守るために母親らがとった手段には共感できたし、そうするしかないと思ったのだろう
未来の選択
南米の宗教コミュニティーで実際に起きた事件をもとにした作品。これがつい最近の出来事と知って驚いたが、中東の国なんかでも女性は車の運転はおろか、自転車に乗ることも最近まで禁じられていた.。
それこそ先進国などでは女性への人権意識は向上したものの日本を含む途上国ではまだまだ後れている。
本作ではこの事件を受けて女性たちが今後の身の振り方を決めるため集まって投票をする。そしてこのまま村に残って男たちと戦うか、この地を去るかで意見が二分される。そこで女性たちの代表が集まりどちらを選ぶべきか討論する。
今まで虐げられてきた恨みから憎しみを爆発させる女性、かたや暴行で出来たお腹の子供を愛し、去ることを主張する女性。戦いを選ぶか平和を選ぶか。閉鎖的コミュニティーで行われる議論がまさに普遍的意味合いを持つようになってくる。
本作で最も興味深いのは散々議論を重ねた末に、女性たちがこの地を去ると決めたこと。これは無益な争いを避ける賢明な判断だったといえる。戦えば自分たちもただでは済まないし、相手だけではなく自分の子供たちにも被害が及ぶ。
去ることはけして逃げることではないし男たちへの「赦し」でもない。無言のまま立ち去ることで男たちへ罰を与えることになるだろう。
信仰による「赦し」というものに縛られて今までどんなに虐げられても無理矢理それを許容させられてきた女性たち。この地を去るということは自分たちを縛るそんな「赦し」というものから自分たちを開放することにもなる。
これが何よりの解決策。虐げられ、教育も受けさせてもらえなかった女性たちのなんという賢明さであろうか。
思えば、過去のあらゆる戦争は愚かな男たちが起こしてきたもの。男は命を奪う争いをずっと続けてきた。かたや女性は命を産むことからも未来を紡ぐ存在だと言える。平和を望み争いを避ける賢明な判断は女性特有のものといえるのかもしれない。
周辺危機をやたらと煽り立て軍事化を目指す為政者たちに彼女たちの判断を見習ってもらいたい。あるいは為政者がすべて女性であれば世界は平和になるのではないか。
本作では討論の中で男性たちも被害者だという言葉がある。古い慣習に縛り付けられ、女性を虐げてもいいように教育されてきたのがそもそもの元凶なのだと。
本作で唯一の男性理解者である教師のオーガストはまさに正しい教育によってもたらされた象徴的存在だ。
彼は学業を学んだだけでなく倫理道徳も身につけている。けして女性を虐げることはない。だからこそ彼は筆記係に選ばれた。
彼は言う。子供たちの競争心をあおるのではなく思いやりを持たせることが子供たちにとっては重要だと。女性を含む他者への思いやり、それは必ずしも自然に身につくことではない。それは大人たちが教えてあげなければならないのだと。
特に年頃の男子は血気盛んでともすれば道を踏み外すこともある。そんな子供たちに相手への思いやりを持つことを学ばせる。そうすれば将来DV男ではない思いやりのある大人になるのではないか。そしてそういった教育がしいては争いのない平和な世界につながる一歩となるのではないか。
今の世の中は新自由主義の下、激しい競争社会で他者を思いやる余裕が失われている。大人たちは政治家を筆頭に噓を平気でつく始末。そんな社会で思いやりを持った子供たちが育つわけがない。オーガストの言葉は暗に今の社会の問題点を指摘してるように思える。
争いをせず、未来を選択した女性たち。作品のラストで生まれた赤ん坊の世界は今までとは違うはずだとオーナは言う。
賢明な判断を下した女性たちが育てる子供たちが平和な世界へつながってゆくと信じたい。
ほとんどの場面がディスカッションということは大島渚の『日本の夜と霧...
ほとんどの場面がディスカッションということは大島渚の『日本の夜と霧』みたいなのかなと思って心して観たのだが当たらずとも遠からずというか、白熱した議論というよりは結論は決まっていて意見をまとめるための議論という感じでしたね。
くすんだ銀残しの撮影がなかなかいいなということで撮影監督のリュック・モンテペリエて人は初めて聞くなと思ったら『アウェイ・フロム・ハー』とか『テイク・ディス・ワルツ』でもサラ・ポーリーと組んでるからみてるはずなんだけどそんなに印象に残ってないな。サラ・ポーリー作品以外では目立ったものはないが一応名前は覚えておこう。
ルーニーに救われる!
徐々に設定が…
18、19世紀の話かと思ってたら…
加害者が出てこない…
だけど、みんなの想いはあるれるほど…
無意識の優位性の上にいるオレはもう、見てて、気持ち悪い…
こんな映画は子供と一緒に鑑賞すべき。
観たあとに感想なんて語らなくてもいいから…
これは今の映画。
これから未来には、こんなのが昔あった!って、語られることを祈る。
重苦しさの中、ルーニーのエクボは何かを象徴してる?
助かった!
結論からいうと傑作
目は口ほどに物を言い、
口は災いを呼び、
災いは行動を呼び起こすまでの芝居が圧巻!
言葉だけに頼らない細かな芝居で、それぞれの気持ち、状況、何故、をじわじわと手繰り寄せさせる。シナリオと芝居が優れていれば、大げさなセリフ、場所の移動、CG他あらゆるけれんは不要のお手本。
定番の曲の使い方も決まった。
教会にステンドグラスを使う理由もわかりやすい。
静かな闘志漲るクレア・フォイは、
サロメというより、
クィーンっぽかった(エリザベスと、
名曲とかけた?)。
スカーフェイス・マクドーナンド、ブラッド・ピットがPで、
ケレン不要の作品が成立しやすくなる例でもある、、のか。
赦しは許可じゃない
まず、2010年という舞台に驚き。
100年前かと思うような農村の世界に、突然のデイドリームビリーバー。
当たり前に自由な外の世界が集落の中に音楽とともに入ってくるシーン、窓を閉めて閉じこもる女たちと、対照的に駆け寄っていく好奇心旺盛な娘たちの描かれ方が、集落のかたちを示唆しているよう。
事件は、最初に短く叙情的に説明される。
それだけでも十分に酷い状況は理解できるのに、話し合いが進んでいく中で、女性たちそれぞれが無理やり飲み込んで自分の中に封じていた記憶や痛みが、決壊して表出する。
1人1人の痛みが層を成して、悲しみが胸に突き刺さった。特にネティのエピソード。
陰鬱な空気の中、オーナをはじめ、ときおり見せる女達の笑顔がはっとするほど強く輝いて見えた。
自分たちの、子供たちのこれからを自分たちで話し合った結論は、利益不利益や復讐ではなく、善に生きる信仰や、愛に従って選んだもの。
強大な理不尽に虐げられても、善に生きることを諦めない勇気ある選択ってなかなか1人ではできないと思う。
大人の男の顔はオーガストしか映らない。
少年たちのいろんな顔がアップで映るシーン、加害者側になることでこの子達も顔をなくしていくということなのかな。
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