TAR ターのレビュー・感想・評価
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作家の人格と作品の価値。
主人公ターが教鞭をとる大学での講義の長回しのシーンが圧巻だった。そしてこのシーンが本作のネックだったと思う。
女性蔑視のバッハを嫌い、その曲まで否定する生徒に対してターはむきになり講義のレベルを超えてしまう。
リディア・ターは自他ともに認める天才マエストロ。彼女はレズビアンを公言し、自分が指揮するオーケストラの女性団員と婚姻関係にある。
そんな彼女が作家の性的嗜好や人格をその作品の評価基準とされることに反発するのは当然だが、若い生徒に対しての彼女の攻撃は少々度が過ぎていた。それは娘のいじめっ子に対する態度も同様に。
作家の人格と作品の価値。作家の人格や言動がその作品を評価するにおいて基準の一つとされるべきであろうか。
特に最近の映画業界ではこの話題で持ちきりだ。監督が演技指導と称して女優に性的暴行、出演俳優が性的暴行あるいは薬物犯罪を犯した等々。それが原因で作品がお蔵入りに。
作品自体に罪があるのかとこういった事件が起きるたびに議論されてきた。当然スポンサーのついてる作品ならば公開は難しくなるだろう、スポンサーはイメージを大事にしたいから。しかし、作品の価値がそれによって下がるだろうか。
極端な話、死刑囚が作った芸術作品が高い評価を得ることだってあるかもしれない。そもそも人間の心の中なんて誰にもわからない。心が汚いから作品も汚いなんて言える人間がいるなら逆にその人の心の中を見せてほしいと思う。
人間の心の中は見えないが作品は見える。結局は目に見えるもので判断するしかない。
劇中でソリストを選ぶオーディションのシーン、演奏者が誰か見えないように壁が立てかけてあった。先入観なしに演奏の良し悪しだけで選ぶためだ。作家の人格で選ぶとしたならたとえ素晴らしい作品でも作家の顔が見えていてはその作品は選ばれないかもしれない。
ちなみに私は今でもロマン・ポランスキーやケビン・スペイシーの作品は好きだ。
天才マエストロのリディア・ターは仕事も私生活も順風満帆のように見えた。しかし頂点に上り詰めた彼女も御多分に漏れず権威におぼれ、自らの欲望を満たすために周りの人間を傷つけていく。自分の意に添わなかったレベッカを貶めて死に追いやったことから彼女は糾弾されその地位を失う。
女性指揮者として逆境の中築きあげた地位が崩れていくのは一瞬だった。彼女が普段感じていた視線、何らかの音に悩まされていたのは彼女の罪悪感からくるものだったのだろうか。
表舞台を追われて落ち着いたフィリピンの地でマッサージ嬢を選ぶ際、思わず嘔吐してしまったのは自分の今までの行いを思い知ったからだろうか。
主人公は女性だが、男性と同じく権威を手にした人間がその地位におぼれて道を踏み外していく様を性差なく描いた点、ジェンダーレス映画としてもよくできた作品だったと思う。
また誰もが羨望の目で見つめる完璧な存在だった主人公が徐々に追い詰められて狂気を帯びていく様はスリラーとしても実に見ごたえがあった。
ちなみにクライマックスでオーケストラに乱入して相手の指揮者を突き飛ばす際の掛け声はやはり「ター!」だったな。これが主人公の名前の由来だと思う。(噓)
ベルリンフィルの常任指揮者の地位を追われてフィリピンの場末のオーケストラを率いる彼女。あれだけの不祥事を起こしたのなら業界から永久追放でもおかしくない。しかし、人格に関係なく彼女の作り出す作品は本物だったからこそ、リスタートの機会を与えられたんだろう。
送られた本の意味や生徒の貧乏ゆすり、ラストのコスプレコンサート等々わからないシーンが多いので、レビュー書き終えたら解説動画見てみよう。
アーティストの狂気を感じられてよい
予告編では、ケイト・ブランシェット演じるストイックな指揮者が芸術の極北に到達するために正気を失う話かと思っていた。
たしかにそういう映画ではあるのだが、想像していた展開とだいぶ違っていて驚かされた。
リディア・ターという女性指揮者の物語。
彼女はペルー東部の先住民音楽を研究し、彼らと5年間ともに暮らした、という経験もあるが、その後、華々しい経歴を重ねて、ついにはベルリン・フィルの首席指揮者にまでのぼりつめる。
マーラーの5番のライブ録音を控え、リハーサルを重ねる。演奏は順調に仕上がっていく。しかし、ターが過去に指導した若手女性指揮者の自殺をきっかけに、彼女自身の人生が大きく狂わされていく。
映像は洗練されている。コンクリート打ちっぱなしの家や、インテリア雑誌にでてきそうな仕事部屋、もしくは高級ホテルやレストランといったロケーションは、知的で高級なイメージとともに、どこか無機質な空気を醸し出している。これはターという人間をうまく表現している。
彼女は天才的な音楽家だが、エキセントリックで人間性に欠ける部分がある。演奏しているときだけ感情を持った人間になるのだ。
その性格ゆえに破滅していくのだが、なにかが変わるということはない。
本作で繰り返し述べられるのは、「音楽を演奏するときに重要なのは、本質を理解することだ」というフレーズだ。
ターは作曲者がなにを考えてその曲を作ったのか理解しているのかもしれないが、自分の周りにいる人間のことは理解していなかった。そして、これからも理解しないだろう。
性差別についても何度も言及される。女性の権利やLGBTといった問題について声高に語るのだが、それもパフォーマンスだったのかもしれない。
天賦の才能というものは魅力的で、そんなものがあればいいとは思うが、本作のターのようになる可能性もある。
それでも彼女は彼女にしか見えない世界を見ていたのだから、その点については前向きにとらえたい。
2023年観た映画の中でやたら鮮明に記憶に残っている映画
あまり宣伝もされず、上映場所も少なかった作品ですが、結果的に2023年1番印象に残っている、シーンが沢山思い出せる映画が、このTARでした。
映画を見ている最中は、終始、うぅ〜ん…と唸るしかなかった社会派な内容の作品でしたが、そこには一貫性があり、作り上の矛盾がなく、映像としても印象に残るシーンが多かったです。最後はアジアが少しだけ出てきますが、それもかなり突拍子もない展開の中、それでも納得感があり、さらに現在の世界情勢も表しているような場面展開とも言え、シーンの突拍子もないインパクトも重なって、結末までしっかりと蘇ります。
2023年は映画をかなり観たのですが、観てもすぐ忘れてしまう映画が多い中、なぜかこのTARだけは記憶に残り続けています。決して話が好きなわけでもないのですが、ジェンダーに真っ向から切り込んだ作品で、ミステリー要素もあり、演技が上手く、私の記憶に強く残っています。
難解…
解説なくしてはラストは分からなかった。実際のところはあったのかは不明だが、かつての教え子へのハラスメントにより、トップ指揮者の地位のみならず、家族までも失っていく。副指揮者やソロを選ぶ際の非情な選択がTarの傲慢さと取るのか、仕事への忠実さと取るのかは分かれるところだと思うが、これでは人は付いていかないし、映画のようにやがて裏切られるだろう。この鉄壁な姿勢から崩れていく様をケイト・ブランシェットが好演している。
テーマは何?
タイトルのTARは主人公Lydia Tár の名前、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団初の女性首席指揮者にまで登りつめたカリスマでなんとコンサートマスターの女性と同性婚しているレスビアンの設定。
二時間半を超える長尺で前半は彼女の人格や音楽への洞察が描かれます、音楽シーンは余りにも少なくブツ切れなので音楽映画と思って観た人は失望するかも。
インタビューシーンなどで延々音楽を語りますが言葉でなく演奏で示してほしいと思っていたら終盤で古いビデオに出てきたバーンスタインが「音楽は言葉ではない、音から音への変化の流れが100万の言葉以上に私たちの心を動かすのだ・・」と私の思っていたことを代弁してくれました、トッド・フィールド監督は無理を承知で主人公に語らせたのですね。
PCやスマホ画面でメールのアップが映されるシーンが不自然なので気になりましたが、古い伝統に支配されるクラシック界の対局としての若者文化、主人公がレスビアン醜聞やパワハラなどの弱味をSNSなどで晒され転落してゆく現代の象徴として使ったのでしょう。
テーマはクラシック音楽の先行きへの懸念、慟哭なのでしょうかね・・。
余りにも個性的で特殊な人物設定なので感情移入もままならず、長尺で作家性の強い映画なので私にはしっくりきませんでした。
これからは
やはり今の時代、いくら優秀であろうが、
セクハラ•パワハラ疑惑や、自殺の原因と取り沙汰されれば、その職務を全うさせてはもらえない世の中である。
またさらには、公然とした場に於いて、暴挙とととれる行動を白日の下に晒したとなれば、
再起は無理であろう。
なぜそこまで自信過剰なのか⁉️
頭脳明晰ならば、一歩立ち止まり自身の事を
見返し、不安要素を見つけ出し早めに対処すれば良かったのではないか⁉️
同性愛夫婦の夫だからか男言葉を使い、
カッコつけするが 変❗️
教える学生へも自分の言葉に酔い学生のプライベートにまで勝手に言葉にして公然と晒せば、恨みを買うのも当然。
可愛がっていた秘書を副指揮者に取り上げなかったことで、掌返したように秘密のメールを暴露されて窮地に陥りもした。
ある意味周りが見えていない裸の王様か。
世間一般自業自得と言うだろう。
優秀であっても時には冷静に自分を振り返り、
反省や自己変革も必要ということだろう。
しかし優秀でない者は、どうすればいいのだ⁉️
この作品何が目的で作ったのだろう⁉️
ハラスメントとか不適切な言動とかする人の観察だと思う
この映画はハラスメントとか不適切な言動とかする人の観察だと思う。それが美しい描写とか迫力のある音楽とか迫真の演技とかがてんこ盛りで、ドキドキさせる演出もあるし、「なんか嫌だなー」とか「うわー」とか思いながら楽しむことができる。見てるとター自身はそんなに悪い人ではなくて、ただ色々間違ったことをしたんだなというのがわかる。それも突飛な理由とか背景がある訳ではなくて、誰でもターみたいな間違いを冒すかもと思わされる。
社会的な部分は社会のことをよくわかってないのであまりよくわからないけど、これが男の異性愛者の指揮者の話だったら、どんな職種・業界・職位でもよくある話で何も面白くないと思う。女でも、同性愛者でも、権力構造の上位に位置するときに間違い冒すし、権力者だからこそ厳しい目で見られたり悪意の的になったりする。男の異性愛者の指揮者という設定よりこの部分が際立つし、男の異性愛者にパワハラ、セクハラされたことのある人達が実際に多いことを考えると、女の同性愛者の指揮者の話の方がより多くの人にとって見やすいように思う。でも女や同性愛者は現実では男や異性愛者より冷遇を受けやすいと思うので、そういうのがあまり描かれてなかったのは違和感がある。それとも男性指揮者がキャンセルされても異国でゲーム音楽の指揮の仕事を受けなきゃいけない窮地には陥らないのかな(笑)。
あと見てて思ったのは、ターは自分の本名を捨てて指揮者としてキャリアアップして、ショボいアメリカの実家からは想像できないようなお洒落なヨーロッパ風の生き方をしていて、権力ではなくて「いい暮らし」とか社会的に高い評価を受けるとか、そういうことと自分のルーツとの折り合いを付けるのは難しいのだなと思った。ターほどの金も地位も無いけども、実家と自分個人との生き方や経済状況の違いは、なかなかスッキリとした説明がつかないし、家族だからって資産を統一するわけじゃないし、人間て決定的に寂しいなと思わされる映画だった。
リディア・ター交狂曲
鬼才トッド・フィールドの16年ぶりの新作で、ケイト・ブランシェットが天才指揮者を演じる。その栄光、苦悩、狂気、没落…。
フィールドの作家性とケイトの完璧な名演。2時間半超えの長尺。数々の賞も受賞。察しのいい方ならすぐ分かる。
批評家や玄人向きの芸術作品。分かる人や通な人には今年ベスト級の傑作だろうが、分からない人や単純エンタメが好きな人には退屈で2時間半の耐久レース。
天才や芸術ってそんなもん。例えばピカソの画を見てあなたはどう感じる…? 理解出来る人には理解出来るし、理解出来ない人には理解出来ない。
だからと言ってどっちがいい悪いなんてない。理解出来たから見る目があり、理解出来ないのなら見る目がないなんて事は断じてない。それは劇中の主人公同様の慢心だ。受け止め方、感性、好みは人それぞれだ。
ちなみに私は、作品で描かれた事や展開はざっくばらんに分かった気がするが、もっともっと深くは理解出来ていないだろう。私もどちらかと言うと“分からない/エンタメ好き”側なので。
つまり何が言いたいかと言うと、本作は高尚で敷居が高い作品かもしれないが、臆する事なく自分の見方で見て欲しいという事。
私はこう見た。少し前だったら、難解な芸術作品。でも今見たら、連日ワイドショーを賑わしている渦中の問題とタイムリー。
リディア・ター。
世界随一のオーケストラ、ベルリン・フィルハーモニーで女性として初めて主席指揮者に。
エンタメ業界でも“EGOT”(エミー賞、グラミー賞、オスカー、トニー賞)を制覇。
インタビューや講義にも引っ張りだこ、近々自伝も出版。
栄えある地位や名声に君臨。絶対的な存在。
しかしその華々しい功績の一方…
冒頭約10分に及ぶインタビューシーンからも分かる。
わざわざ難しい言葉や言い回しをし、天才だが、何処か嫌みで偉そうで鼻に付く。プライドの高さ、高慢、傲慢…これら該当する言葉が幾つでも思い付く。
展開していくとそれはどんどん。
ある講義。一人の学生と意見が対立。相手に反論を許さぬほど論破。
楽団に於いても。依怙贔屓。他の楽団員からの反発も何処吹く風。
物申してきた副指揮者やある命令に背いたアシスタントをクビに。
自分の“楽譜”通りに1mmのズレも許さない完璧な“演奏”を続ける。
映画の世界でも黒澤やキューブリックなど一切妥協しない天才がいた。しかし、それとは違う。彼らは自分にも厳しい完全主義者だが、リディアの場合は自分に思い上がる慢心者で独裁者。陰湿さや恐ろしさすら感じる。
リディアには家族がいる。妻と娘。
同性愛者。しかしその立ち位置は、女性同士が愛し合っていると言うより、家父長制的。娘をいじめた同級生に「私がパパよ」と威圧。
周囲からも“マエストロ”と呼ばれ、スカートは一度も履かず、パンツ姿。中性的な雰囲気漂う。それを感じさせるケイトの演技もスゲェ…。
“大黒柱”として家族を愛している。が、家族一筋ではなく…。
多くの若い女性と関係を持つ。それも惹かれ合い合意の上ではなく、自分の権力を行使して。パワハラ、セクハラ紛い。これって…。
依怙贔屓も単に奏者の才能だけではなく、私的な感情も入り交じって。
言うまでもなく家族にバレる。“妻”シャロンはヴァイオリン奏者でもあり、公私共にリディアを支えていたが…。
今リディアが頭を悩ましているのは、マーラー交響曲5番の演奏と録音。なかなか思い通り行かず、天才でもプレッシャーや苛立ち露にする。
そこに家族や周囲との不和、自身の好き勝手、さらにある事が事件となって…。
かつて教えていた若い女性指揮者が自殺。無論彼女とも関係を…。
自殺の原因はリディアとの憶測。彼女ら受けたセクハラや権力威圧…。
もみ消そうとするが、すでに噂は広まり…。
SNSでは先の学生とのいざこざやこれまでの蛮行がアップロードされ…。
転倒怪我により幻聴、難聴も…。
告発され、遂には演奏の指揮を下ろされる。
終盤、別指揮者の演奏に殴り込んだリディアの姿は、もはや天才ではなく、狂気の極み。
ラストもどう捉えていいか。第一線から転落した成れの果てか、どんな地どんな音楽でも異常な情熱で再起を目指そうとしているのか。
自分の身の程を知っている者が堕ちた時は人によっては諦めも付くが、自分の身の程を知らぬ者が堕ちた時はこれほどまでに醜く愚かなのか。
偉大で尊敬を集めていた人の闇、本当の顔…。
自分の絶対的権力を使ってパワハラ、セクハラ、依怙贔屓…。
もうズバリ、ワイドショーで渦中の“アレ”ではないか。
聖人君子なんていない。人誰しも必ず影や闇はある。
多くの人はそれに気付く。過ちや間違いを起こさない前に踏み留まる。
が、リディアは自分が絶対的な存在であると思い上がり、周囲も制止出来ない。彼女が恐ろしいからだ。
“アレ”も同様。
無論全員がそうではない。高潔な人物も多くいる。古今東西尊敬され続ける。
天才が天才で在るが故に背負った宿命。凡人には計り知れない。
羨望であると同時に同情。
天才ともてはやされ、神格化される危うさに戦慄した。
本作の二人の“天才”には称賛でしかない。
難解で重厚な人間ドラマでありつつ、次第に心理スリラーへ。これが監督3本目、16年ぶりのブランクを全く感じさせないトッド・フィールドの圧巻の演出。
輝かしい側面だけではなく寧ろ、醜悪な内面こそ露見。代表名演の一つ、『ブルージャスミン』にも通じる。英語やドイツ語を交差させ、指揮も自ら執り、求めた完璧な演奏を終えた時の酔いしれた表情には美しさも魅せる。また一つ、この稀代の名優=ケイト・ブランシェットに神がかりな名演と代表作が。
やはり、天才はいるのだ。
観た後に読んでください。
冒頭、スマホのメッセージで悪口を言われてるTAR。女性指揮者として、恐らく数々の困難を乗り越えて頂点に立つ彼女。スーツはオーダーメイド、飛行機はファーストクラス。指揮者の他、大学でも教えたり、とにかく日々多忙な中、少しづつまずいことが起こり、転落していく。正直な彼女は大学での講義で、考えたことを後先考えずそのまま伝えてしまう。それが学生を追い詰めてしまい、その学生は教室から出て行ってしまう。
さらに推薦してあげなかった若い女性指揮者の自殺、その才能に夢中になってしまったオルガの登場から、周囲の人々がTARから離れてしまう。オルガもスマホでTARの悪口を書いている。
指揮者の仕事も奪われて、実家に帰って、昔録画して貯めていた、沢山の好きな指揮者のビデオの一つを見て泣くTAR。本当に昔から指揮者になりたかったのがよくわかる。
アジアに渡り、アニメイベント?のオーケストラ指揮者をするTAR。残念だけどよかったねと思った。また復活する日が来るかもしれない。
皆さんが言うように、もう一度観たい映画ですね。
ラストが拙速では?
出だしはとても緻密で素晴らしい。特にジュリアードでのレッスンのシーン。本筋に入るまで少し冗長な気もするが、綿密さに免じて問題なし。でも問題が発覚して転落していくところから、その綿密さが崩れていく感じがする。特にラスト20分ぐらいはB級映画のような展開では?(私がしっかり理解できていないのかもしれないが)
ただ、この映画はクラシック音楽好きにはたまらないディテール(というかスキャンダル)で満たされている。登場人物からしてカプラン(ギルバート・カプランですよね?マラ2専門の実業家アマチュア指揮者、故人)、アバド、カラヤン、(早世した女性チェリストの)デュプレ、(その元旦那の)バレンボイム、それにレバインやデュトワのセクハラ話も出てきて、カラヤンがザビーネ・マイヤーを入団させようとした事件も題材になってる!ここまであけすけにクラシック音楽業界の暗部?を描いた度量には感服します。日本で芸能界の暗部をリアルに描いた映画なんてないでしょう?クラシック音楽ファンは必見です!
異世界
オケの人事によるわだかまりからやがて追われる指揮者の話。
リディア(ケイトブランシェット)には思いやりが欠けているが思いやりがないといけない──わけではない。
いけなかったのは人をないがしろにしたときどうなるかを予測できなかったことあるいは予測しなかったこと。
長く忠にかしずいてきた秘書のフランチェスカを選任せず、副指揮者セバスチャンをあっさり解任し、主任チェリストにソロをやらせず、かつて楽団にいた教え子のクリスタは心を病んで自死してしまう。
強い権力を有する者あるいは天才。往往にして実力や才能を有する者は人としての倫理が抜け落ちていることがある。それが大丈夫な時代もあったが現代の公ではだめだ。そういうキャンセル文化についての映画でもある。Tár=リディアは悪人というわけではないが、独裁的でえこひいきをする癖もあり、それが自身を追い詰めていく──という話を見たことのない雰囲気とカメラで追っていく。
絵に高級と成熟があった。いわゆる富者の気配だが金満な気配ではなく洗練された豊かさの気配。
前段の部分で、すこしめんどうな一介のファンと話すシーンがある。その女性がバーキンをもっていてすてきなバックねとリディアがほめるのだがリディアの生活環境はバーキンを持たなければならないようなSNS的金満とはランクがちがう。すべてがSFのように美しかった。
特大書棚のある住居、仕事用のフラット、テーラーメイドの服、ポルシェタイカン、ピアノ、調度品や装飾品、間接照明、高級家具、トールスピーカー、打放しコンクリートのミニマル感、プライベートジェット、レストランの高級感。トンネルを走っている絵は惑星ソラリスのようだ。モノトーンとブランシェットの彫像のような顔立ちとブロンド髪と寒色のベルリン。個人的には見たことのない映画だった。
Little Childrenから16年ぶりの監督作品でトッドフィールドがブランシェットにあて書きした映画だそう。
ブランシェットがTárになりきっていることと撮影によってこのわけのわからないような雰囲気が生じてしまっている。
Little Childrenとはぜんぜん違うのでトッドフィールドのカラーはわからないがおそらくキューブリックのような完璧主義者なのだろう。
理知で精力的だが、直球で物怖じしないリディアの人となりが魅力的に描かれる。ふつうあからさまに貧乏揺すりをしている者に雄弁をふるわないし、功労者にさらっと解雇を告げたりしないし、いじめっ子を直接脅しつけたりしない。
強行な姿勢がかのじょをじわじわ窮地へおいやっていくことと、それに対する警告のような強迫観念や夢判断の描写が同時に描かれる。
映画が人間(庶民)生活へ下野するのは、隣家に請われて瀕死の母親を介護用便座へもどす作業を手伝ったとき、ぬいぐるみを渡そうとして暗い建物へ入ったとき、仕事を追われて実家へもどったとき──ぐらいであとはすべてがハイクラス生活風景になっている。その対比が“いびつ”でもあり生活環境においても心理スリラーになっていた──と感じた。
Tárの命題のひとつとしてあるのは人間感情と楽曲の関係性──である。
大学の講義をしているときある黒人学生がバッハが嫌いと言った。その理由をバッハはノン気(同性愛者から見た異性愛者を指す)だから男尊女卑であり子供が20人もいるから嫌いなんだ──と述べる。
偏屈な理由だがそこから敷衍して人間性は作品にあらわれるか否かということをリディアは縷説していく。簡単に言うと嫌いな人間がつくった曲ならば、その曲を聴いたとき、人間同様嫌いの反応をするだろうか?おそらくそんなことはないだろうし、そうでないなら作者と曲を同視するのはまちがいだ。
にもかかわらず指揮者はマーラーの感情──そこにあるのは歓びなのか悲しみなのかについて──あるていど解釈していかなければならない。
よって解釈を書いた彼女のスコアは彼女自身のようなものだ。
が、リディアは人間関係を指揮ほど巧くは解釈できなかった。
ラスト、彼女はコスプレした観客あいてにモンハン用のオケを指揮している。さてどんな解釈をしているのか。・・・。
まえにとある日本映画のレビューで日本映画は二回りほどばかがみる想定で映画をつくる──とけなしたことがあるが、それと逆で理知を絵にしたような映画だった。が、観衆側に権威者がわきそうな映画でもあった。いずれにしろ見たことのない映画だった。
天才はマイノリティ
どのような手法で映画を制作するか。
主役の感情の流れ、ストーリーの順を追っていくような物語でなく
ドキュメンタリーのように、ありのままの事実を、順番はバラバラに
でも効果的に、構成するようなドラマが増えているなあと。
観る方も、予定調和でないがゆえに
次はどうなるのだろうか?と物語にひきこまれていく。
目の前で起きていく事象について
あらゆる角度から考えさせるような、そんな構成さに
まるで、権力から情報統制されているような、
末恐ろしさがある。
その事実自体が、物語自体のテーマとリンクすることで
今までになり、カタルシスが映画鑑賞にやってくる。
昨今の映画手法が、その手法をとり始め、
業界をより高度で、芸術の深淵さを孕んでいることが嬉しい。
日本映画だと最近だと、「ある男」がそんなロジックで制作されていた。
それにしても、観る人によって、深く突き刺さる部分は違えど、
天才はマイノリティで、弱者とは、どの領域の人に起こりうる。
本当の弱者は精神性なのだと、 実感しました。
Japan appeared twice!
I really enjoyed watching ‘Tár’ in a small theater in Tokyo, that was called as a mini theater in Japan. This review may contain "spoiler" information, so I will write the review in English. When I saw this film, I immediately understood why historical, but one of the most challenging company, DG and the most brilliant orchestra, Berliner Philharmoniker, cooperated with this movie.
I think Todd Field, who wrote and directed it, moved the main character from a male conductor in the early 2000s to a female conductor in 2022. We know that two very famous conductors were socially excluded because of the "Me too" movement, and it was even mentioned in the movie. They had undoubtedly great talent and outstanding ability. There are some objections to this kind of cancellation culture. We also noticed that we had already lost one of conductors.
Lydia Tár, played by Cate Blanchett in this film, cannot be forgiven for what she did. I think that was probably related with why this movie didn't get an Academy Award. In fact, her behavior towards the other child was harsh, especially when her adopted daughter was being bullied in kindergarten. When she taught at the Juilliard School, she criticized Max, an apparently nervous BIPOC student, and was too harsh to force him to face the music of Bach. Perhaps Lydia's words and deeds towards Krista, who was her former student, should have been as we expected. It was never enough revealed how much Lydia's assistant, Francesca, was involved in the process.
The salvation of this film is that Lydia later got the chance to conduct in Philippine, even if it's an opportunity that's far from what she's done so far. When she met a massage parlor, she recognized what kind of country she finally got her chance.
Finally, I would mention one more thing. Another European stigmatized conductor has frequently visited our country and has given excellent performances, mostly with the understanding of some of the eminent figures in the Japanese classical music world. This seems to reflect Japan's tolerance of sexuality in old days, but we are experiencing a little excess-criticism these days about the matter. I wonder what the people who were strict about this issue think, although Japan appeared twice in the story.
主人公の独善と、芸術表現の根本を描いた秀作
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい)
この映画『TAR ター』を、結論から言うと個人的には面白く見て、秀作だなと思われました。
特に主人公のリディア・ターを演じたケイト・ブランシェットさんの演技は説得力が図抜けていて、ベネチア国際映画祭の最優秀女優賞やゴールデングローブ賞の主演女優賞を受賞したのも納得だと思われました。
この映画『TAR ター』のストーリーを超絶、雑にまとめると、
【優れた指揮者である主人公リディア・ターが、自身の高度な表現レベルを周りに求めることによって、不適格発言をした副指揮者をパワハラ的に辞職させ、かつての教え子を自殺に追い込み、地位の利用によってセクハラまがいの登用や扱いをある楽団員に行い、それらの問題が表面化すると楽団を孤独に追われ没落するストーリー】
になると思われます。
すると、本来は全く共感性の薄い主人公なのです。
しかしこの映画は一方で、芸術表現の根本を描いており、そこに(大切な部分で)到達している主人公によって、観客は主人公に説得力を感じて映画を最後まで観ることになるのです。
ところで私的な興味に引き付けると、芸術表現とは
A.的確に表現する
B.的確表現への過程が美しい表現である
の2点が重要になって来ると思われます。
すると、<A.的確な表現>において、この映画の主人公リディア・ター(ケイト・ブランシェットさん)は特に優れているということになります。
<A.的確な表現>とは、タイミングやトーンなどが的確だ、ということです。
主人公リディア・ターはこの映画の冒頭のインタビューで、指揮者が刻む「時間」の重要性を語っています。
<A.的確な表現>とは、作品や人々や自身が求めるタイミングやトーンを、ピタリと「時間」を刻んで当て続ける、いわば生理的本能的なセンスだと思われます。
そして、主人公リディア・ターは、このタイミングやトーンをピタリと当て続ける<A.的確な表現>の能力が図抜けていて、的確さでズレてしまう他の人々を支配することが可能になるのです。
ところが、芸術表現には(個人的には)《B.的確表現への過程の美しさ》も必要とされると思われます。
この《B.的確表現への過程の美しさ》とは、<A.的確な表現>をする過程で、その表現が広く世界や人々に開かれている必要があることを指していると思われます。
私達が(音楽にしろ映画にしろスポーツにしろ)あらゆる表現で感動や感銘を受けるのは、それらの表現が、私達の経験や歴史つまり[様々な関係性の集積]との分厚い接点を持っているからだと思われます。
つまり、芸術表現での《B.的確表現への過程の美しさ》とは、([様々な関係性の集積]である)私達の経験や歴史に対して開かれ通じている、とのことなのです。
映画の中で、学生の1人が、主人公リディア・ターに対して、バッハは白人男性優位の時代の作曲家でマイノリティに差別的で好きではない旨の発言をします。
するとリディア・ターは、このバッハ嫌いの学生に対して、SNS的にカテゴライズ分類された場所からの批判の浅はかさを否定し、バッハの表現がいかに人々に開かれているのかを説明します。
しかし、このバッハ嫌いの学生の苛立ちは逆に頂点に達し、リディア・ターに罵声を浴びせて教室を出て行きます。
このバッハ嫌いの学生の問題は、貧乏ゆすりを繰り返すばかりで、リディア・ターに説得力ある<A.的確な表現>でバッハの問題を説明することが出来ていなかった点です。
しかし、バッハが、(マイノリティ含めた様々な立場の人々に開かれている必要の)現在においては《B.的確表現への過程の美しさ》(=[様々な関係性の集積]である、私達の経験や歴史に対して開かれ通じている必要)で問題があるのではないか?に関するこの学生の指摘は、当たっている面もあると思われるのです。
つまり、バッハ(あるいはクラシック音楽)は、クラシックの狭い世界でのみ現在における《B.的確表現への過程の美しさ》が保たれているに過ぎないのではないか?という疑義です。
主人公リディア・ターは、かつての教え子だった指揮者のクリスタ・テイラー(シルヴィア・フローテさん)を痴情のもつれなどから、(彼女は精神的に不安定で指揮者に向かないなどと各方面にメールし再就職をはばむなどし)クリスタ・テイラーを自殺に追い込みます。
そして、その前後にリディア・ターは、幻聴や幻覚を見ることになるのです。
このリディア・ターの幻聴や幻覚は、直接的には後に自殺するクリスタ・テイラーが発端と言えると思われます。
しかし、リディア・ターの幻聴や幻覚は、本質的には、(バッハはクラシックの狭い世界でのみ《B.的確表現への過程の美しさ》が保たれているに過ぎないのではないか?‥などの)リディア・ター自身の基盤であるクラシックの世界に対して、外の世界から発生している疑義の現われだと思われるのです。
リディア・ターは結局、外の世界から発生している彼女に対する疑義の嵐によって、楽団を追われ、実家に帰って師のレナード・バーンスタイン氏のビデオを見て音楽家を志した原点を思い出し涙するも(それは一方でこれまでの姿勢を変えることがないという再びの宣言とも言え)、最後はコスプレに身をまとう観客相手のゲーム音楽の指揮者として、クラシック音楽の指揮者としては没落して映画は終了します。
この映画『TAR ター』は、以上のように共感し辛い主人公であるにもかかわらず、あらゆる芸術表現の深い本質を描いているとも言え、静かな感銘を受ける作品になっていたと思われました。
ただ一方で、バッハ嫌いの学生や自殺したクリスタ・テイラーなどの視点は、現在の様々な人々に開かれた《B.的確表現への過程の美しさ》の重要さを指摘しているとは思われましたが、逆に彼ら彼女らからの<A.的確な表現>があったわけではありませんでした。
なぜなら、現在において、様々な立場の人々に開かれた《B.的確表現への過程の美しさ》を引き受けた表現をしようとすればするほど、<A.的確な表現>はその多様性の波に飲み込まれてぼんやり漠然とし続け、<A.的確な表現>から遠く離れた【凡庸な表現】に陥って行くと思われるからです。
私達は、この映画でバッハ嫌いの学生や自殺したクリスタ・テイラーなどの【凡庸な表現】に一方で出会っていたともいえるのです。
そこを明確に描かず、あくまで主人公リディア・ター中心に描いたところに、この映画の長所と短所が表裏一体に存在していたとも思われました。
映画の最後のクラシックの音楽とは真逆の歪んだ電子音が流れる中で、現在の表現のどん詰まりをこの映画は表現していたのだろうなとも思われました。
THEATER
本作の舞台はドイツ。ドイツは欧州の一部であり、欧州と言えば植民地時代から今に至るまで、あらゆる分野で権威の座にいます。特に芸術の分野は突出していて、例えば映画好きな方は「パルムドール」と「アカデミー」だったら、「パルムドール」の方が何となく芸術性が高く高尚に感じませんか?
この芸術に宿る権力の象徴がTARでした。作品そのものは普遍的なテーマでしたが、本作がユニークだと思ったのは、
・権力の象徴であるTARをレズビアンにしたところ
・ラストシーンで劇場で演奏されたのがクラッシック音楽ではなくゲーム音楽だったところ
・後半の舞台がドイツから東南アジアに移ったところ
でした。
つまり逆を返せば、欧州の白人男性がクラッシック音楽を欧州の舞台で演奏することは、時代遅れなのかなと。もう、主役(男性・音楽・地域)は変わった。そして、時代も確実に変わった。
THEATER(劇場)は、実に創造的で変化に富み、独裁的、権威主義的なものでない。THEATERは、ある一部の特権階級のものではなく、民主的。観客がお上品であろうが、コスプレしてようが良いんです。
TARはTHEATERの3文字から取ったのかな?と思いました。
YouTubeで、とある映画関係者が、本作は「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」に凄く影響を受けていると思うと話していて、偶然にも同じ日に、本作と「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」を鑑賞できて良かったです。舞台は両作ともドイツですしね。
ケイトブランシェットは良かった
ケイトブランシェットの演技は良かった。これは文句のつけようがない。
単に自分が早起き+二本目の鑑賞で冒頭のクレジットで半分寝てしまうくらいのコンディションだったのが悪いのかも知れないけど人物と名前が覚えられずやや着いていけなくなった挙句に予告で「映画史に残るラストシーン」とまで煽られてたのがあの終わり方で?????となった
よほど自分にはわからない高尚な意味づけだったのだろうとレビュー観たらモンハンが元ネタ?
いっそ腹が立ってきました
安直な倫理観に揺さぶりをかける怪作
名誉男性とキャンセルカルチャーの話。ちなみに私は男です。
私がクラシックの知識が全然なく、交わされる会話への理解が乏しいので、退屈しそうだったが、終始引き込まれた。
ストーリーは単純だが、倫理的にはかなり入り組んでいる。
・オープンリーレズビアン
・男性優位の歴史を持つクラシック音楽界で、世界的な頂点に立った女性
・女性の登用や育成に熱心
と主人公のターを紹介すれば、フェミニストであるかのような偏見を抱いてしまうだろう。
ところが、そこに
・女性への加害者性
というこの映画の最大の要素が積み上がる。そのことで、オセロで白が黒にひっくり返されるように、すべての見方が変わる。
ターは乱暴に言うなれば「名誉男性」とフェミニストから批判されるような人物なのだ。彼女は決して男性に高圧的なわけではなく、むしろ才能には等しく敬意を払うし、傲慢な人間ではない。
だが、権力者だし、その力をはっきりと自分のエゴのために利用する。そのことが世間に発覚するや否や、彼女の輝かしい人生は暗転していく。
ターをヘテロのシス男性に設定したら、ただのマチズモ批判映画だし、(メッセージとしては良くても)正直面白みはあまりない。その点、実はターはマッチョな「レズビアン」なのだ。
劇中、たびたびターが自説を語る場面が描かれるが、非常に論理的で理知的、個人的にさほど違和感を抱くことはなかった。だからこそ、次第にターのマチズモが明かされていくにつれ、いろいろと考えさせられてしまった。
かなり詳しくは語られない映画で、いろいろとわからないことも多かった。見方はいろいろある。むしろ反フェミニズム映画という見方すらある。
・人道的見地からバッハを否定する学生を論破するシーン。正直、私はターの説教にうなづいてしまったが、どうだったのか?
・副指揮者候補の秘書は、ロシア人チェリスト同様に、権威を利用したいだけの人だったのか?
・ターが怪我を負う場面で、男性のせいにするウソは、なんだったのだろうか?
わからないが、ターは人の意見やアドバイスを、実は聞こうとしない。唯一絶対的にピュアな愛情を注ぐ養子のいじめ問題にさえ、本人の意志を聞いたうえで行動するわけではない姿勢に、「聞かない」ということが、何より権威主義やマチズモの象徴的な行為なのだなと感じた。
近年、やたら増えたぶん、固定化したジェンダーメッセージを受けて食傷気味だったなかで、かなり揺さぶりをかけている映画であることは間違いない。
当たり前のことだが、フェミニストだの、ゲイだの言っても、一枚岩で同じ考えのわけではない。まったく劇中では描かれないが、ターの悪業が炎上し、キャンセルカルチャーの渦に沈んでも、なお擁護するフェミニストやジェンダーマイノリティの支持者は、この映画の世界にいたのではないだろうか。いろいろな感想を聞いてみたくなる映画だ。
ターよ、めげるな!
リディアターの落城なのか?
クラシック界の女性指揮者は、男性社会や、妬み、そらみ、恨みとの世界。すごいね。ジュリアードでのシーン。隣のおばちゃん。リディアのトレーニング。
えっ!Jゴールドスミスの猿の惑星は、盗作?
ベトナムの川は、地獄の黙示録でワニがいるから、泳げない。笑いますね。ケイトブランシェットの演技は160分を長くさせない。
5回観た
「TAR」に魅入られ、5回も観てしまいました。
繰り返し観て、あっ、そういうことかと納得した箇所、何回観ても心を動かされるシーンをいくつか。
●赤のボールペン
副指揮者のセバスチャンを“急襲”したTAR。TARがデスクから素早くポケットに入れたのはセバスチャンがいつもカチャカチャやってTARをいらつかせていた赤のボールペン。自分のペースを乱す“リズム”を何よりも忌み嫌う彼女は、先んじてボールペンを奪うことにより、自身のペースでセバスチャンを退任に追い込むことにまんまと成功したのでした。
●クリスタの幽霊
冒頭から赤毛の後頭部が映っていたクリスタ。その後もストーカーのようにTARにまとわりついていましたが、TARの自宅にも居ましたよね!時系列的にはたぶん既に自死したあと。ということは…。
あの幾度も出てくる模様を、メトロノームに描いたりペトラの部屋の粘土で造ったりしたのもきっとクリスタなのでしょう。
夜中に「リディア!」と叫び、TARにしがみついて何かに怯えるペトラ。彼女にはクリスタが見えていた?
●指揮するTAR
自宅のピアノでマーラーを弾くシーンからいきなりリハの現場に突入。流暢なドイツ語や身振り手振りでオケに指示したり、コーヒーブレイクしたり、いろんな動きがとにかくカッコイイ。TARが指揮するところだけ何時間でも観ていたい。
●№5
アジアの某国に流れ着いたTAR。気持ちも新たに音楽に向き合います。「時差ボケがひどくて」
とホテルのフロント?に相談したところ、紹介されたのは風俗っぽいお店。“水槽”の中にまるでオーケストラのように配置され、俯いている女性たちの中から指名するよう促され戸惑うTARに、ひとり目を見開き射るような視線を向けた女性の胸には№5と書かれたプレートが。たまらず店を飛び出し、通りで嘔吐するTAR。
権力の座から引きずり降ろされ、ニューヨーク郊外の実家?に戻り、レニーのビデオを観ながら涙していたあたりから、TARの気持ちは変化し始めていたんだろうけど、№5(=道半ばで挫折した交響曲第5番)に眼差しを向けられ、自分が犯してきた数々の醜悪な罪に初めて気付いた瞬間でした。ここは何度観ても泣けます。
●再生
指揮台からオーケストラの子どもたちに、作曲者の意図について考えてみましょうと語りかけるTAR。きっと自分の姿を恩師レニーに重ねているはず。
そしてラストのコンサートシーン。これから旅に出発するぞ、覚悟はいいかといった意味のナレーションが流れ、モンハンの正装をした観客に見守られる中、TARは再生に向けて新たな一歩を踏み出しました。泣ける。
ゲーム弱者にとっては、まさに???
やはり、ケイト・ブランシェットは凄い。
彼女以外では本当に有り得ない。
またマーラーの5番というチョイスが、まさにグーの音も出ないというべき見事な設定。
意表を突く構成も面白い。
本来であれば、エンディングの後に流れるはずの長いクレジットが、なぜか?冒頭から延々と始まる。
そして、その意味が、観終わった後になって「な・る・ほ・ど〜」となる、あのラスト!
しかし、ゲーム弱者にとっては…
まさに???となってしまう…
さらに言うと、ストーリーの脇の甘さが気になる。
メールの削除が出来てない事を知りつつ、そのまま放置というのは、全く現実的でない。
あのシーンは、もっと強権的にアシスタントを追い詰め、確実に削除させないと。
まあ、そもそも、各オーケストラ団体に届いていた着信メールが明らかになれば、削除の意味もないのだが…
そういった意味でも、もっと自身の保身を盤石にさせる老獪な策は練らないと…
また、その一方、投資家であるエリオットが、裏から法曹界に働きかけ、強力な弁護士は使えないように指図していたとか…(そうなれば、より一層あの乱入シーンも際立つ)
そのくらいもないとねえ…
まあ、別に本作は権謀術数のサスペンス映画でも無いのだが…
リディア・ターなる人物が、実際本当にいるんでは?と思えるほど、非常に現実感の強い演出と芝居で引き込まれる展開だったので、やはりプロットの方もリアルに徹してくれないとねえ…
結果どうしても手抜きに見えてしまう。
監督自身も語っていたが、この映画のテーマの肝は決して表面的なキャンセル・カルチャーの歪みなどでなく、権力それ自体の腐敗にあるのだから。
権力を持ってしまった者の腐った足掻きは、もっとリアルに見せて欲しかった。
そこは、ちょっと物足りなかった。
あと、ドイツ語の台詞は全て字幕を入れないと!
元の英語版に英語の字幕が入っていないシーンは、そのまま殆どスルーしてしまったのだろうが、やはりヴィスコンティの件は入れるべき。
たぶん「ヴィスコンティの事は忘れるように」と言ってるのだろうが、まさにその『ヴェニスに死す』が、その後の彼女の行先を暗示してるのだから。
そして、そのマーラーの第5番のライブ録音がリディアにとって一世一代ともいえる大仕事であることは、劇中もっと繰り返し伝えた方が、いろんな意味で効果的であったと思うが…
しつこいのは野暮と思ったかねえ。
まあ、それにしてもケイト・ブランシェットの圧巻の演技!100年経っても語り継がれるのは間違いないと思う。
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