劇場公開日 2023年8月18日

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「まさにクローネンバーグ芸術の集大成! ただしエンタメ作としてはさすがに難解に過ぎる。」クライムズ・オブ・ザ・フューチャー じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0まさにクローネンバーグ芸術の集大成! ただしエンタメ作としてはさすがに難解に過ぎる。

2023年10月9日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

柏のキネマ旬報シアターで『ふたりのマエストロ』のあと、
夕食をはさんでレイトショーで視聴。

まあ、自分にはちょっと難しすぎたかなあ?
しょうじき四分の一くらいは、睡魔との戦いだったので。
ほんと申し訳ない。

昔から、デイヴィッド・クローネンバーグは好きな映画監督だった。
ちょうど僕の子供時代には、TVでさんざん『スキャナーズ』の映画宣伝が流れていて、お茶の間の家族団らんの場で、人の頭が凄い勢いで爆散していたのだ! あれ、トラウマになってるアラフィフは多いと思うんだけど……(笑)。
大学時代には、ホラー&サスペンスをまとめ見していたこともあって、初期の実験映画や珍品『ファイアーボール』(78、なぜかドラッグカーレース映画!)も含めて、観られる作品はほぼすべてVHSで観ていたと思う。
『裸のランチ』から『クラッシュ』までは映画館の封切りで観ていたが、その後、監督がいわゆるジャンル・ホラーからは離れたこともあって、DVDになってから観たり観なかったり。今回、久しぶりに「肉」と「臓器」の世界に復帰した気配を察知して、遅ればせがら映画館に足を運んだ次第。

たしかに本作は、彼としては実に復古的な作風で、ちょうどダリオ・アルジェントが『ダークグラス』(22)でジャッロのジャンルに回帰したように、齢80にして自らの原点であるところの肉体破壊のグロテスクや生体機械の世界に戻ってきてくれて、まずはご同慶の至りといったところか(もともと本作の脚本を書いたのが98年ごろの話で、当時映画化に向けて動いたが実現せず今回仕切り直した、というのも、2000年代初頭に書いてお蔵入りしていたシナリオを再始動させたアルジェントとよく似ている)。
ただしジャンル感でいうと、ホラーというよりは、バリバリのSFだったけど。

彼にとって、リアルな肉体の変容とそれに伴う精神的な変化は、長いフィルモグラフィにおいて一貫して追求されてきたテーマである。
肉体がどう変容するかによって、映画の「見た目」は変わる。
寄生虫に犯され精神を支配される『シーバース/人喰い生物の島』(75)、マリリン・チェンバーズの腋から吸血男根が生える『ラビッド』(77)、サマンサ・エッガーの怒りが侏儒へと受肉する『ザ・ブルード/怒りのメタファー』(79)、ジェフ・ゴールドブラムが蠅と融合してゆく『ザ・フライ』(86)など、外形的にはさまざまなホラーの「かたち」を取りうるが、いつもやっていることはほぼ同じといってもいい。
あるいは、精神攻撃によって肉体を破壊する『スキャナーズ』(81)、スナッフフィルムによる洗脳で肉体に銃器を融合するに至る『ビデオドローム』(83)、ドラッグによって幻想へと飛翔しモンスターと交合してゆく『裸のランチ』(91)など、「精神の均衡の喪失」「外的要因による精神の変容」が、肉体のメタモルフォーズ(の幻想)を引き起こすというパターンも多い。
要するに、彼は常に「身体性」と「精神性」をめぐる均衡と不均衡、それによって生じる破壊的なメタモルフォーズとそれがもたらす悲劇を描き続けてきた監督だと言える。

これに加えて、一連の肉体破壊、精神変容を引き起こすトリガーとして、常に「近代科学」「医療」「精神医学」「ドラッグ」といった、人為的なサイエンスが絡んでいるのも、クローネンバーグの特徴だ。その関連で、人体と機械が融合したような薄気味の悪い「受肉装置」が登場することも多い。
また、メタモルフォーズの瞬間に、必ずといっていいほど主人公に性的な快感に類した衝動が付随し、中毒性から抜け出せなくなっていくという、「性欲と破壊」――「エロスとタナトス」をめぐる物語を常に志向している点も見逃せない。この人体破壊とエロティシズムをめぐる思考の極限に達したのが、バラード原作の変態映画『クラッシュ』(96)であり、クローネンバーグ芸術のある種の到達点と言ってもいい。

もう一点、彼の作品が常に、社会から弾きだされた異能者の悲哀を描く「哀しみ色のホラー」である点も忘れてはならない。
たしかに、映画内で起きる「肉体変容/肉体破壊」は「衝動的な性的興奮」と常に結びついてはいるものの、その一方で、主人公は己の肉体変容や異能の目覚めのせいで、まっとうな社会通念から逸脱し、モンスターとして阻害され、結局のところ滅びを選択するしかない。異能者故の絶望的な孤独と、その寒々とした孤絶のなかでもがき、抗い、ついには滅びを受け入れる主人公の光輝ある最期は、常に非情でありながらも、観る者の感情を揺さぶる「タナトスの誘惑」を秘めている。この方向での僕の思う最高傑作が、キング原作でクリストファー・ウォーケン主演の『デッドゾーン』(83)だ。

今回、『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』で描かれるのは、精神的な指向性によって体内で生み出される臓器という「目的化された腫瘍」の功罪であり、その摘出を敢えて「見世物」として公開する、グラン・ギニョル的で露悪的な「劇場化」の功罪である。
さらには、現在の人工的な合成品と環境ホルモンで汚染された世界に、適者生存の法則に則って「進化」した「プラスチック・イーター」が誕生するという、社会派的な側面も有している。
ここに、「臓器を生み出す男」と「それを摘出する女」という、ある種の逆転現象(通常は男性によって女性は胎児を孕まされ、それを女性は自ら産み落とす)が加味され、「手術はセックスに等しい」というエロスをめぐる新たな概念が、繰り返し呈示される。
ビジュアルイメージとしては、黒マントを着た死神かシス卿かといったいでたちの主人公ソール・テンサー、美しい顔に敢えて「傷物の加工」を加えた二人の美女、生体機械としての「オーキッド・ベッド」や「サーク」「ブレックファースター・チェア」といった不気味なオブジェ群、耳を体中に生やした謎のダンサー・クリネックなど、いかにものグロテスクな登場人物と呪物が投入される。
舞台となるアテネの風景や研究室の内部は基本的に殺風景で、極力舞台装置を排したミニマリズムの演劇を想起させる。
結果的に生み出される映像美は、どこか17世紀バロック絵画(とくにレンブラント)にも似た、奇矯さと劇性、そして静謐さを漂わせている。

いずれにせよ、本作で扱われる要素はどれもこれも、長年クローネンバーグが繰り返し、繰り返し、問い直してきたモチーフとテーマの語り直しであり、その意味では、まさに「クローネンバーグ芸術の集大成」といっていい映画であることは間違いない。

「腫瘍として恣意的に生み出される臓器」という概念は、僕がクローネンバーグ映画で一番偏愛しているといっていい『ザ・ブルード 怒りのメタファー』のネタの発展形とも言えるものである。この映画については『ハッチング 孵化』の感想でも紹介したことがあるが、改めてその内容に触れると、精神的な病理を催眠によって「潰瘍化」させ、身体に外傷として顕現させたうえ、外科的手術を用いて切除すれば、心の病がすっきり治療できるという画期的施術を創造した医者が出てきて、その催眠療法を実際に受けた女性が、知らない間に「怒りの侏儒」を孕むようになり、女性の敵意の対象を、彼女からボコボコ産み落とされた「雛=ブルード」軍団が「彼女の代わりに」血祭に上げにいくというもの。なんでも、当時離婚調停中だったクローネンバーグが、妻への怒りをぶつけて製作した映画らしい(笑)。
『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』では、『ザ・ブルード』における「怒り」の代わりに、「人類の進化への祈念」が「機能化された腫瘍としての臓器」を生み出す動因となっている。

「劇場化された解剖ショー」というアイディアも、決して本作だけの奇異な思いつきではない。そもそも14世紀から西欧では処刑後の公開人体解剖が(学問的な理由付けをした見世物)興行として確立しており、多くの画家がその場面を描き残している。フィレンツェ大学自然史博物館(ラ・スペーコラ)の美しき人体解剖蝋人形群。あまた遺される装飾的な解剖図。それはやがて通俗的な恐怖劇としての「グラン・ギニョル」へと引き継がれ、さらには映画の時代に入ると、ハーシェル・ゴードン・ルイスの諸作品や『悪魔のはらわた』『ゾンバイオ』といった数々の生体解剖ホラーを生んだ。
一方で、学術的な公開人体解剖が、現在でも英米で実施されているという現実もある。われわれ日本人がこの手のものに触れるのは、せいぜいマグロ解体ショーか「人体の不思議展」といったところだが、イギリスなどでは「食事をとりながら死体の解剖を見学するショー」といった悪趣味な代物が、今でもネットで検索すると出てくるのでびっくりする。
というわけで、クローネンバーグが描いた「臓器摘出ショー」は、決して空想的な産物ではない。そういえば、僕の本棚にはトレヴィルから98年に出ていた『劇場としての手術』という美麗な芸術写真集が今も置かれているが、こういった「臓器を愛でるアート」の延長上に、今回の作品は正統的に位置づけられるべきものである。

とはいえ。
この映画、面白かったかと言われると、
ぶっちゃけ、なかなかに難物だったように思う。

一番の理由は、とにかく単純に筋がわかりにくいことで、ただ観ているだけでは大筋すら理解できない人がたくさんいるのではないか。
語り口があまりに独善的で、自己完結的で、サーヴィス精神のかけらもない。
展開は概ね平板で、ドラマ性も希薄。終盤になってドリラーキラーが暗躍し始めて、はっと目が覚めるあたりまでは、こちらも何度も睡魔に打ち負かされそうになった。
全体に、登場人物の言っていることややっていることが形而上学的に過ぎて、SFエンターテインメントとして客を楽しませる気は、はなからないように思えるのが残念だ。

これってたぶん、タイトルから見ても一目瞭然なのだが、扱っている題材としては70年代後半~80年代前半にかけての人体破壊猟奇ホラーの世界へと回帰しているとはいえ、その極私的傾向においては、さらに初期の実験映画、『ステレオ/均衡の喪失』(69)や『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』(70)あたりにまでさかのぼってしまってるんだろうね。
人体と精神をめぐる高度な思想を、ジャンル映画としての「グロテスク・ホラー」を通じて語っていたかつての奇跡のようなエンタメ性は、本作では残念ながら感じ取ることができなかった。

なので、正直なことを言えば、パンフを読んでなお、何が起きたんだか今一つ意味のわからないシーンがたくさんあって、たとえば結局のところ、ラストでソールとカプリースが何を望んでああいうことをやって、何故ああいうことになったかすら、僕にはよくわかっていない。
細かいところについては、後日サブスクにアップされてから、疲れていないしゃっきりした頭で、改めてじっくり見直さないとなあ。

一点、パンフのなかで、ヴィゴ・モーテンセンが本作について「まるで第二次世界大戦直後のようなフィルム・ノワール最盛期を思わせるような物語」と言っていたのは、大変気になった。映画館で観ているあいだ、僕のなかでそういう観点は全くなかったので、どきっとさせられたのだ。
なるほど、本作を「ノワール」として捉えるって考え方は、実はとても有益かもしれないね。

じゃい