劇場公開日 2021年3月26日

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「虐げられた魂の声(見捨てられたガレキの街)」Style Wars pipiさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5虐げられた魂の声(見捨てられたガレキの街)

2021年4月10日
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鑑賞方法:映画館

知的

難しい

本作について評価しようと思うならば、当時のサウス・ブロンクスについての知識が必須だと思う。
1940年代、ブロンクス区最南端エリアはすでにニューヨーク随一の貧民窟であった。
1970年代にかけて白人達は軒並み郊外へと脱出していく。建物は廃屋化し、大家の中には人を雇って放火させ保険金を稼ぐ者もいた。(毎晩、3〜4件は火災が発生していた)
政府は何の対策も講じず、街はまるで戦時中でもあるかのような焼け野原の様相を呈していた。

ノース・ブロンクスのリバーデイルは上流階級が住み、豪邸が立ち並ぶ。
(ジョン・F・ケネディも住んでいた。)
ウエスト・ブロンクスはマンハッタン5番街(ご存知、ティファニーやカルティエの立ち並ぶ、世界有数の超高級商店街である。)の延長のようなものだ。
そんな大都会ニューヨークにありながら、アメリカの、いや、世界の繁栄から取り残され、ガレキの山の中で生きるしかなかった人々。
廃墟で生まれ育つしかなかった子供達の瞳に、世界はどのように映っていたであろうか。

本作に登場する子供達の言動、その一つ一つに真正面から腹を立てるのは大人気ない。
特に公的業種、政治家や役人、教職などで身を立てる事を決めた人ならば「何故、この子達はそのような思いをもつに至ったのか」
「何故、大都会の一部が、およそ人間が住むところではないような廃墟として荒廃していくのを行政は数十年間も放置したのか」
について熟考し、社会が人の心に与える影響について思いを馳せねばならない。

この子達に手を差し伸べられないような人には教職に就いて欲しくない。
言動が幼稚なのは、教育を与えられる権利が働かない環境で育つしかなかったからだ。彼らが人権に守られてこなかった事こそが大問題だ。

しかし、虐げられた魂の中にも熱い生命のエネルギーは燃えているのだ。
体制や社会に押し潰され、ゴミ屑のように扱われた子供達の、そんな「消されつつある自我の存在と言葉」がタギングとなった。
「自分という存在が、ここに生きている!」という魂の自己主張だ。
初めは稚拙な落書きに過ぎなくても、次第に暗黙のルールが出来上がっていく。
「すでにあるグラフィティーに上描きするには、更に完成度の高い図案でなければならない」
「対象は公共施設、交通機関、巨大建造物のみとし、個人商店・個人宅には描かない」などが代表的だ。

犯罪や悪戯が彼らの主目的ではなかったからだ。
彼らは武力革命、武力闘争ではなく、芸術による闘争を展開したのだ!
平和的な素晴らしい方法ではないか。
高学歴の若者がライフルを手に革命戦士などと名乗る行為に比べたら器物損壊罪程度、可愛いものだ。それほどまでに彼らが生きる社会が閉塞していた証明だ。
まるでバイオレンス映画の舞台のような「非日常」が、彼らの「日常」であった。
壁面など、生まれた時から元々壊れていた。倒壊の危険と隣り合わせに彼らは育ってきた。器物損壊?安全な高みからなら何とでも言える。良識派のキレイゴトにはまったく笑うしかない。

「心理学」に「同調行動」という用語がある。周囲に合わせて自分も同じような行動を取ってしまう現象だ。
ゴミ一つない街路には誰もポイ捨てをしないが、ゴミの山が築かれている道には新たなゴミが捨てられていく。

サウス・ブロンクスの外壁がスプレーでグラフィティーを描き殴られる事態となったのは、そこが最初から「社会に見捨てられたゴミ山」に等しかったからではないだろうか。

苦しんで苦しんで、苦しみ抜きながら育った彼らは、やがて成長し、自分達がいかに不当な環境にいたのかを知る。社会的弱者、マイノリティの声は外部には届かない。

しかし、若者達は半世紀に及ぶ悲劇に立ち向かい始めた。
ニューヨークを隅から隅へと走る地下鉄が「消されつつある自我の叫び」を陽の当たる場所へ運んだ!
困窮する人々を放置していた行政も、地下鉄や街路の景観にならば目を向ける。
アッパーミドルの中には、グラフィティーに様々なものを見出せる人々もいた。「芸術性」「人権問題」「経済格差」「文化人類学的研究」そして「商売上の金の卵を産む鶏」としても・・・。
様々な思惑が絡みだし、グラフィティーは都市ロウワークラスの文化として、飛躍的に発展し始める。

価値の低いものは削ぎ落とされ、生き残るものは更に洗練されていき、やがてブレイクダンスやヒップホップDJと共にヒップホップカルチャーの確立という形で昇華される事となる。

本作はヒップホップ・カルチャー側の少年達の言動のみならず、取り巻く家族、行政側の警官や市当局者、芸術側からの視点者、人権・社会問題と捉えるジャーナリズム、資本・経済側など、様々な視点への取材を記録した貴重な史料であると考える。
それは正に多種多様な陣営のスタイルが鎬を削る「戦争」であったのだ。

ヒップホップカルチャーの誕生などは、付随物に過ぎない。
本当に意義がある事は、若者達の声(=グラフィティーやブレイクダンス。彼らは自分達の慣れ親しんだ遊びでしか、表現する術を知らない)が、社会に見捨てられた街に再び光をもたらし、人間らしい暮らしの出来る場所へと復興させる道を切り拓いた事にこそあるのではないだろうか。

pipi