劇場公開日 2020年9月4日

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「"もっと価値のある物語だった"」海の上のピアニスト イタリア完全版 dmiさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5"もっと価値のある物語だった"

2022年11月7日
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楽曲の名前もなく、楽譜もなく、ジャンルにも囚われない。1900が音楽で表現していたのは、心象風景の切り取りや、記憶の追体験。

そして1900にとって「世界」とはマクロな話ではなく、一度に2000人乗る船客それぞれが抱える事情を知り、ミクロな世界が集結された知覚の束の延長にあるようなもの。徐々に積み上がっていくもの、という意味ではデイビッドヒュームの考え方に近い。

ではそのミクロに終わりが無かったら?
ピアノの鍵盤数が88ではなく無限だったら?
美しい女性、住むべき家、あらゆる誘惑、価値基準が無限にあったら?

1900の言う「見えない」とは、無限の存在の言い換えだ。 1900にとって、終わりのないものに価値は無い。恐怖の対象でもある。
有限であるからこそ、表現の可能性が生まれ、感謝の念が生まれ、その一瞬一瞬を大切にしようと思える。

その啓蒙の先に音楽がある。
その一瞬一瞬の心象風景を皆で共有し、同時に個々人が別々の思いを馳す事もできる。そして時間を忘れ、その瞬間に陶酔する。即興でそれを追求する1900が抱く音楽への認識は、極めてデュオニュソス的な思想に近かったとも思う。
そしてその瞬間や概念と真逆の位置にある"陸"は1900にとって耐えられないものだった。

情報に対する1900の考え方には本当に納得出来る。
音楽では、個々人の推察から得たストーリーという受動的な情報と、そこから紡ぎ出す鍵盤の組み合わせという能動的な情報が合わさり、また一つの情報が生まれる。
得た情報を実践しないと意味がない陽明学的な思想に近い。

対して現代では情報が無限に錯綜し、聞き手は受動的に把握するだけだ。これでは脳味噌がパンクしてしまう。
増え過ぎたネット情報、歌詞や考え方を全て押し付け、能動的な思想の介入を許さない全てのコンテンツ、私もそんなものに嫌気がさしている。

ほどよく有限なバランスこそ、美しさの象徴なのだと思う。
朽ち果てる船のシーンがそれを象徴していた。

このような思想を核として伝えながら、この映画は人生譚としての機能も描いている。
何も知らず"個"であり続けた人生、それでも実力で残れた人生、そしてある日己と向き合って取捨選択をし、覚悟を決めてそれに沿って生きようとした人生。

この3つには全ての人に共通するアナロジーがある。
だが、多くの人が信念を貫けない。
無限に情報と選択肢があり、無限に逃げられるから。

彼にとっては海の上の船の中にしか選択肢はない。逃げ道もなく、自分を肯定し続けることが出来る。
もしかしたら、彼は街に降りたら凡人に成り下がっていた可能性だってある。

彼はなぜタラップから降りなかったのか。
終わりが見えない。一言で言うとそうなるが、選択肢の多さが重くのしかかる人生に希望が見えないからだ。
選択肢は人を苦しめる。脳のリソースを蝕む。

彼のようにそこから解放される環境がある人がいる一方、ほとんどの人にはそれが不可能だ。この合理的な地獄から抜け出すことは、もう人類にはできない。その瞬間、彼への同情と、この地獄への雄叫びが同時に込み上げてきて、涙が止まらなかった。

マックスは、この映画の中で2度印象的に泣く。
1900が調和の音楽の姿勢を取り始めた時。
1900が船の中で死ぬことについての意志とイデオロギーを語る時。

マックスはなぜ泣いていたのか?
私は、それを推察することは邪推なのだと思う。
ショーシャンクでいうレッドがそうであるように、この映画の主人公は実はマックスであるように思う。

両作品、そして名作に共通している脚本アプローチは、映画の中の「すごいやつ」の思想と物語を聞き、映画の中の「ぼんじん」が人生態度を改めていくことだ。なぜなら、視聴者は「ぼんじん」であり、映画の中で人生態度を改めた「ぼんじん」に感情移入し、自身も今後そうあれるように擬似体験できるからだ。
そしてより映画の中の「ぼんじん」と同じ疑似体験をさせるために、映画の中の「すごいやつ」には極力全てを語らせない。ミステリアスな部分を残しながら物語を展開する。

だからマックスは「この映画を見る視聴者自身」でもあり、マックスが泣いた理由は、視聴者それぞれが泣いた理由でいい。
私の考えで言うなら、マックスが演奏しながら泣いていた理由は「今まで1900に注目が集まっていたが、いざ自分に注目が集まり熱心に弾いてみると、全然注目が集まらない。自分はなんてへぼいんだ。」という事を再確認してしまった涙なのだと思う。

1900の死の覚悟を知った時に泣いたのは、「友への別れ+1900との会話を通し自分がトランペットをやめた理由が、"無限の価値基準"に惑わされた結果であったことを認識し自分を恥じた。だからこそ1900の言っている事が痛いほど分かる共感と絶望の涙」という事もあったのだと思う。私が泣いた理由と全く同じだ。

だが私が最もこの物語に価値を感じるのは、楽器屋の爺さんが言っていた、「もっと価値のある物語だった」という一言に尽きる。

価値のある物語とは、分かりやすいアナロジーが存在し、前向きにさせる事ができる物語だということ。

この映画の中なら、爺さんは1900の話を聞き、マックスにトランペットを返した。
マックスは、1900との会話を通して、一度は捨てかけたトランペッターとしての人生を再度拾い上げ、前を向いて歩こうとしているシーンで映画は終わる。
物語を通して、2人の人生態度を変えている。
爺さんはこの後「そんなホラ吹き話(笑)」と人の話を無碍にせず、前より人の話を聞くようになるだろう。
マックスは"陸に潜む無限の価値基準"から解放され、「凡人」であることから逃げず、敢えて向き合うことでまた音楽家に戻るだろう。
辛い経験は人を寛大にさせ、物語は疑似経験値として機能する。

なんて素敵な話なんだろう。
以前ウォルト・ディズニーが言っていた。
「物語を作るという事は、嘘か本当かではない。それを見た人にとっては(表象的な事実関係ではなく、アナロジー的な心理体験が)真実であり、その人自身が元気をもらえるようなものを作るということ。」
ハーベイカルテルのsmokeでも全く同じ事を言っていた。

この映画はサブ役者が物語を聞き、態度を改めるというシーンを視聴者に見せ疑似体験させているという点で、数倍に増してそれを表現できている。

私も有限なものの魅力をもっと深掘りしていこうと思う。
あれもこれもではなく、バランスの調和を保ちながら。

現代に疲れてしまった時、戻ってきたくなるような、本当に素敵な映画だった。

楽曲も本当に素敵で、流石はエンニオ・モリコーネとしか言いようがない。特にedはクラシックであるようで、どこか彼らしいマカロニウェスタンの雰囲気も感じる。1900と同じように、天国でも素敵な楽曲を作っていることを祈る。

dmi