劇場公開日 2020年3月14日

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「デビュー作にして巨匠」コロンバス 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0デビュー作にして巨匠

2021年1月9日
PCから投稿

imdbを見たのだが、Kogonadaなる監督の履歴には、映画研究のショートフィルムがずらりとならんでいた。

巨匠の名前がタイトルのいちぶになっているから、わかりやすいのだが、ozuというのがあった。さらに、KubrickもBresson もHitchcockもAronofskyもWes Andersonもあった。

Columbusまで、その来歴に、長編映画はなく、すべてがショート。かつ、ほとんどがドキュメンタリーである。
それらのドキュメンタリーを見たことはないが、おそらく、巨匠たちの映像美学の真意究明をこころみるフィルムだと思われる。

だから、Columbusは、Kogonada監督の、長編デビュー映画にもかかわらず、すでに数多の巨匠たちを思わせる、おちつきがあった。

わたしは小津安二郎をよく知らないが、この映画が小津安二郎っぽいかといえば、そうともいえる。

ただKogonada監督が、いわゆる小津オマージュ系の監督と、根本的にちがうのは、すでに画が血肉になっていることだ。

繰り返すが、わたしは小津安二郎をよく知らない。ただし、こんにちまで「小津オマージュ」との謳いで喧伝された映画や監督に、ロクなものはなかった。

これは、雑感とはいえ、明解な動向であり、小津がぁとか言っている監督に、まず間違いなくロクなやつはいない。

小津安二郎に傾倒して、まっとうなのは、かつてのヴェンダースやウェスアンダーソンやアキカウリスマキや、またはKogonada監督の本作や・・・いずれにせよ、限られたものしかない。と思う。

ちなみにどのへんが小津っぽいかとか、それはよくわからないが、すくなくとも、小津安二郎をまねて腰位置にカメラをすえて撮ってみよう──というような無意味な形骸を、Kogonada監督はやっていない。それが「血肉」の意味である。

自分のなかで消化し、取り込んでいるのであれば、小津風ショットが出てくるわけじゃない。──そのことは、たとえばウェスアンダーソン映画を見て、小津安二郎の真似じゃないけれど、どことなく小津っぽい、と思うことと同様である。

むしろ、その落ち着きは、小津安二郎にかぎった風味でなく、上述した、さまざまな巨匠を研究しショートドキュメンタリーを撮ってきた経歴からくる博覧強記である。

映画には、新人監督デビューらしき、未成熟はまったくない。
ほんの一ミリの未熟も感じなかった。

わたしはパラサイトのレビューに、(撮影の美しさが)Columbusを思わせる──と書いたことをしっかり覚えている。
Kogonada監督はそういうすでに巨匠格をもっている「新人」だと思う。
韓国人と紹介されているが、国籍は米国だと思われる。

Columbus市のことを知らないが、街に、著名な建築家が手がけた建造物が多数あり、それらをとらえながら、映画として美しい絵になっていた。
一見シンメトリカルに見える構図にしながら、たんじゅんなシンメトリカルを嫌っている。そんな老獪なテクニックを感じた。

絵だけでも、そうとうな叙事詩であり、Kogonada監督の今までの映画研究が高いレベルで成就していることは一目瞭然だった。

ただし、わたしがもっと驚くのは、Kogonada監督がペーソス=にんげんをとらえていることだ。

いうまでもないが、映画はにんげんのことを描くものだ。
たとえば小津安二郎好きが高じてオマージュ作品→腰位置にカメラを据えて、日本家屋をとらえたとして、それがなんになるだろう?(Such as:わたしたちの家=「小津オマージュ」という空っぽ体験ができる「天才」がつくった映画です)

いかに映画研究者・トリビューターといえども、巨匠を模倣するだけならbotにできる。映画監督は、にんげんを、ペーソスを描くことができなければ意味がない。

絵だけじゃなく、にんげん(のドラマ)も描けているとき、わたしたちは感心する。
Columbusはそれだった。

後日の発見だが、物静かで飽きない時間/空間の取り方が、韓国映画のはちどりに似ていると思った。
なんなんだろうか、血なのか、大陸とのつながりなのか、日本人はああ/こういう端厳な静寧な絵をぜったい撮れない。

ヘイリールーはじょうずな女優なので、監督にはキャスティングセンスも感じた。
ラスト近く、パーカーポージーが運転席にいて、ジョンチョーが後部にいて、助手席のヘイリールーが泣き出す場面がある。なんか説明不能だがすごく巧いなあと思った。

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津次郎