A2 完全版

劇場公開日:

解説

オウム真理教(現アレフ)の広報部副部長に密着し、オウム事件の本質に迫った森達也監督のドキュメンタリー「A」(1998)の第2弾として2002年に公開された「A2」の完全版。教団施設を追われて日本各地に拠点を分散して活動している出家信者たちと地元住民との対立や融和、右翼との交流といった社会との軋轢を描き出す。完全版では、02年当時に諸事情でカットされた部分を全て再現した。京都国際映画祭2015で上映され、16年6月、森監督の新作ドキュメンタリー「FAKE」の公開を記念して、東京・ユーロスペースにて初の劇場公開。

2015年製作/131分/日本
配給:東風
劇場公開日:2016年6月18日

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(C)「A」製作委員会

映画レビュー

5.0匿名性を有さない、一人称としての人間を撮り続けた続編

2023年4月5日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

95年に地下鉄サリン事件を引き起こした宗教団体・オウム真理教をその内部から密着したドキュメンタリー映画「A」の続編。事件から5年後を舞台にしている。

前作の「A」が、同教団広報副部長荒木氏への密着を主軸とした作品であるのに対し、今作の「A2」は、「教団」と「社会」それぞれの接点を生々しく追うことで、存立する両者を描いた作品と言える。

行く先々で行政や住民から立ち退きを要求される教団。カメラマン兼監督の森はいくつかの拠点に入り内部からその様を撮影し続ける。数千人規模で立ち退きデモを行なう地域や町長・助役などが総出で説得にかかる地域、近隣住民の代表団が自身の人生論を振りかざし説教にはいる地域などなど、「教団」と「社会」の接点がリアルに映し出される。

そして、そのなかで住民側が異口同音に教団に対して語るのが、「それが世の中ってものだ」という価値観。

確かにあれほどの凶行を起こした不気味な集団が自宅の近所に越してくれば、一見、過剰と思えるほど反応するのも理解できる。

一方で、その言葉を聞かされた信者達はいつも戸惑いの表情を隠さない。それは、あの事件を正当化するための抗弁を思いつかないから、ではどうやらないらしい。教団の成員は大なり小なり、住民が振りかざす「世の中」という常識に嫌悪し、疲弊し、オウム真理教という隔世の庵に自らの意志で入り込んだ人たちだ。だから、「世の中」という価値観を提示されても、恐らく理解できないのだと思う。

そんななか、驚くべき光景が映し出される。

地域住民のボランティアによる、「殺人集団は出て行け!」などといったおどろおどろしい文字の看板をたくさん掲げたオウム施設を監視するテント。そのすぐ近くで監視員の住民とオウムの信者が楽しそうに談笑しているのだ。おそらく本作品の一番の見せ場だ。

「いや最初はね、怖かったですよ。でも、話してみるとね、情が移るというか、悪い奴らじゃない。嫌いじゃないですよ」と臆面もなく語るボランティアたち。

「こういう場面はマスコミは報道しないですから。やっぱり『オウムは悪者』のほうがいいんでしょうね。新聞だって売れなきゃ困るわけだし、テレビだって視聴率が大切でしょうし」と自嘲気味に語るオウム信者。

監視テントが解体されるときはオウム信者が手伝いに来て、オウム信者が別の拠点に転居することになったときは住民が名残惜しそうに見送りにくる。当初の緊張状態からは考えられない光景が目の前に映し出されている。

これは何を意味するのか。

何となく言及される「教団」や「世の中」といった概念や価値観としての集団は、スクリーンに映し出されるひとりひとりの人間で構成されている、という当たり前すぎる事実を私たちは結構簡単に忘れる。彼岸のこととなる。

だから「世の中」「社会」という価値観は、昔から何となくそこにあるのではなく、ひとりひとりが作り出しているのだという紛れもない事実をこの作品は教えてくれる。

集団の犯した罪は重い。そして、それに対して集団となって防衛しようとする反応も自然だ。けれども、対峙する目の前の信者や監視員は集団ではない。ひとりの人間だ。集団の持つ匿名性に逃げない、それぞれがひとりの人間として語らうとき、接するとき、人は人足り得る。

対照的な場面も描かれている。

地域住数千人が街中をデモ行進し、オウムの住む一軒家にたどり着く。代表団がインターホンを鳴らし「お伝えしたいことがあるので出てきてください!」と意気込んでいう。信者は「せっかくお越しくださったのですから、どうぞ中にお入り下さい」という。すると、代表団は普通の家に十数人で門をくぐり、玄関のドアを開けたところで簡単な文書を手渡し、「これをこれから外で読み上げます!」とだけ告げ、ドアを閉め、門の外へ出て、拡声器でその文書を読み上げる。オウムは出て行け。殺人集団は出て行け。これは住民の総意であるという文書。

信者たちは不思議な表情で拡声器から流れる罵声に耳を傾けながら、「なんでさっき、中に入って言わなかったんだろうね?」と苦笑をする。

手法や表現技法は変容、進化しても、つまりところ、森は前作から一環にして「人間」を描き続けている。匿名性を有さない、一人称としての人間。その弱さ、強さ、豊かさ、曖昧さを描き続けている。そして、オウムと何らの対話も持たず、何の理解をする努力もせずに拒絶だけが描かれている社会は、まるで観もせずに封殺・非難された前作「A」をダブらせているようにも思える。

ちなみに森は前作「A」よりも自身が被写体として映し出される覚悟を決めた作品とも読み取れる。実際、住民によるオウム反対集会に参加した森は、無自覚にオウムの恐怖ばかりを論う住民をつかまえ、「話しをしてみてはどうですか?」と語りかける場面や住民とオウムの対話の場を取り持つシーン、荒木氏に「賠償を続けるオウムは本来のあるべき姿ではない」と嗾ける場面などもある。さらには上祐氏の出所を巡り、右翼団体が街宣車でかけつけ、激しい抗議行動を取ったりするが、そこにも右翼団体内部から密着して追い続けている。

どこにでも入り込んでいく森達也。不思議な人だ。

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えすけん

4.5人の自由、人の自由、、森監督は自由

2022年8月13日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:VOD
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redir

3.0「この写真見て、安心したと思うんだよね」「ええ!逆じゃないの?」

2020年4月29日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

この会話にみるように、かつて気安かった友人同士であっても、理解し合えることは無理なのだ。今の状況を辛いと微塵も思ってやしないのだから。彼らにとって「現世」は、何度も生まれ変わるうちのひとつなだけなんだもの。例えば僕らにとって、一年我慢すればいい、くらいのものなんでしょう。しかしね、前作「A」と立て続けに有料配信で観ているので、ちょっと荒木に感情移入しそうになる。だって彼、いじらしいもの。祖母に会いに行く彼は、心優しい青年でしかなかった。だけど、教団としての罪は認めて贖罪すべきであることとは別である。それに、彼らは甘い。河野さんへの面会なんてその極みだった。
今回、格落ちであった教団代表陣に、出所してきた上祐が復帰。緊張も高まる。だけども、まだ進行中なのだこの一連の騒動は。
講談的に言えば、このあとが物語の面白いところですが、お時間っ!ってなる。実際、このあと現在(2020年)に至るまで教団に相当な変化がある。さあ、それを続編でどう描くか。(あれ、もう描いてあるんだったか?)

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栗太郎

4.5オウムが起こした事件の異常性を改めて─

2019年2月6日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

難しい

オウムが起こした事件が、いかに世の中を狂わせているのか、ひしひしと伝わってくる。オウムの信者が移動する先々で巻き起こる住民反対運動や監視活動はその最たるもので、作品を見る限りにおいては、住民側の異常性が際だっている。それも致し方ないわけで、あの殺戮を引き起こした集団への不安はぬぐい去ることはできない。しかし、集団としてではなく人として接すると、わだかまりが解消されてくるから不思議。地域に溶け込めないから否定されるし、拒絶される。溶け込んでいる数少ない例を見ると、オウム出ていけ!が形骸化されていることに気がつかされる。人として彼らを何とかしようとしている人は少なからず存在するけれど、等の集団はそれを受け入れるような気配を感じ取れない。人と人が仲良くなれても、オウムというものが受け入れられる余地はないように思う。それはどっちも理解しようとしないから・・・
信者と新聞記者になった信者の級友が友達として取材しているシーンが非常に印象的。いまだに友として親しみを持っているけれど、どうしてもお互いを理解できない。なかなか泣かされるシーンだが。だからこそオウムが起こした異常事態を改めて痛感させられる。

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SH
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