敗戦が濃厚となった時期に30を過ぎた老兵としてフィリピンミンドロ島に配属された作家大岡昇平の実体験をもとしたフィクションが原作。ご本人が人肉食を体験したわけでなく現地で聞いた事実をもとに想像を膨らませて書いたものだ。
原作では主人公は飢餓状態に追い込まれながらも人肉を食うか食わないか、宗教観を交えて延々と葛藤するその心理が描かれている。しかし、塚本監督はそこはあっさり主人公に食べさせる。劇中では騙されて食べるわけだが、当時の兵隊たちは食べるか食べないか葛藤する余裕もないくらい追い詰められていて、食べないという選択肢はなかったという。いかに戦争が人間をそこまで追い詰めてしまうのかと感じてそのように原作とは違う描写にしたとのこと。
本作のように日本兵同士でも殺し合って互いに人肉を食べたというのは確かにあったらしい。
補給路を断たれただけでなく、もともと人命を甚だ軽視していた日本軍では飢えから規律は失われて互いの食料を奪い合っていた。大岡昇平の所属部隊には備蓄食料があっていつ襲われるか警戒していたという。
当時の従軍兵の言葉に我々の第一の敵は米軍、第二の敵はフィリピンゲリラ、そして第三の敵は日本兵だったという証言もある。
それくらい当時の日本軍は崩壊していた。そしてそんな彼らが人間性を失うのも時間の問題だった。
これが先の戦争の実態。フィリピンの美しく自然豊かな景色とは対照的に日ごと行われた醜い殺し合い。そんな愚かな人間たちの行為をただ、自然はたたずんで見守っていた、昔から何ら変わらず。互いに殺し合う兵士たちの叫び声、怒号、銃声だけが静かな森の中では響き渡っていた。
主人公の田村は常に抗い続けた。物書きであり学のある彼は明治政府が植え付けた教育には染まっていなかった。このような愚かな戦争を否定し、けして自分は加担したくなかった。
自伝小説の「俘虜記」でも森の中で米兵に遭遇してもけして引き金を引くまいという原作者自身を投影した主人公の気持ちが吐露されている。
田村は無下に人殺しをすることを拒んだ。どんなに飢えても生草やヒルを食べて飢えをしのぎ、けして人肉だけは食べまいと抗い続けた。まるでそれが自分の人間性を保つ最後の砦であるかのように。
彼の行くところには常に野火が上がっていた。それは農民が行うただの野焼きなのか、あるいはフィリピンゲリラが自分たちを見つけたという合図なのか。それは知る由もないが、田村はその野火が自分を常に見張っている気がした。まるで自分の罪を見定めようとするかのようにそれは彼に付きまとった。
人肉食を繰り返す同僚兵士を殺して復員を遂げた田村、いまだ戦場でのトラウマに苦しめられている。そんな彼が庭先の焚火の火を見つめる。
自分は自ら人肉を食わなかった、自分は人間でい続けた、自分は罪を犯さなかった。果たしてそうだろうか、本当は猿の肉ではなく人間の肉だと知っていたのではないか。あれほどジャングルをさまよい一度も目にしたことがない猿の姿、人肉食の噂、自分は人肉だとわかってて食べたのではなかったか。
自分は罪を犯さなかったか、あの戦争を否定しながらも暗黙により加担したのではなかったか。あの戦争に突入する大きな流れに抗えなかった、仕方がなかった。だから自分には罪がなかったといえるのだろうか。
あの日の野火のように燃え盛る焚火の火は今も自分の罪を見定めようとしてるかのようであった。