劇場公開日 2023年3月1日

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群盗、第七章のレビュー・感想・評価

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4.0タッチは軽いが… 題材、かなりヘヴィ。

2023年3月20日
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鑑賞方法:映画館
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osmt

3.5時空を超え、ジョージアの血腥い歴史をポリフォニックに紡ぎ出すイオセリアーニ群像劇の真骨頂。

2023年3月15日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

少なくとも、ぜんぜん「ノンシャランでいきましょう」なんてノリじゃないけど(笑)。
かなり暴力的で、かなり血腥い、イオセリアーニの暗黒面が良く出た映画。
でも、決して深刻ぶることはない。
いつも通りのアイロニカルな笑いは事欠かない。
そんへんは、やはりイオセリアーニ流。

冒頭から、時間軸が目まぐるしく入れ替わる時空超越型のナラティヴ。
それぞれの時代で、同じ俳優たちが別の役を演じてみせる違和の手法。
各エピソードが適当に有機的に結びつきながらも、
必ずしもロジカルに割り切れない、難解でゆるやかな構造性。
結末がついたり、つかなかったり、行動の理由がわかったり、わからなかったり。
いい感じで、論理の環を切って、敢えて「つかみどころのない」群像劇に仕上げている。
まさに、これぞイオセリアーニ、といった感じの映画だ。

「軽やかだが難解」で「中心点の見出しづらい」独特のポリフォニックなつくりは、たとえば最晩年の『皆さま、ごきげんよう』あたりともほぼ変わらないのだが、個々のエピソードのクセの強さと、各シーンの演出の強度において、脂ののった最盛期の「キレ」と「ねばり」が格段にきいていて、惹きつける力は『群盗、第七章』のほうが大いに勝っているように思う。

結局、パリを舞台とする彼の一連の作品群は、監督が「異邦人」の立場から、若干斜に構えた感じで人々の様子をシニカルに観察した結果としてのスケッチ風の描写を、パッチワーク風にコラージュしたものだ。
だが、『群盗、第七章』の舞台は故国ジョージアであり、出てくる人々もまたジョージア人だ。監督の入れこみようが違うし、メッセージ性の深刻さや切迫度もまた異なるということなのだろう。
決して、「わかりにくい」から「面白くない」と切って捨てられるような映画ではない。
どこまでも、「映画的な時間」を提供してくれる映画。
そして、叙述が時空を超えてスキップするたびに、こちらもタイムスリップをしているような眩暈感を与えてくれる映画だ。

この映画には、唐突に訪れる数々の「暴力」があふれている。
冒頭いきなり、マシンガンの乱射で皆殺しにされる、ホームパーティの半裸の客人たち。
中世ジョージア絵巻編での、地下の拷問部屋と浮気妻に対するいきなりの斬首刑。
テロリストたちがタイヤに仕掛けた手りゅう弾で、木っ端みじんにされるターゲット。
スターリンのごとく密告に淫しながら、次々と部下を粛清していく人民委員。
ジョージアという国には、どれだけ時代が移り変わっても常に、裏切りと策謀と暴力が満ちあふれていた、といわんばかりの殺伐としたやさぐれっぷりである。

この、唐突な暴力の介在と突然の死、街のいたるところで発生する銃乱射やテロリズムといった要素は、ゴダールやブニュエルとも非常に通底する部分があって、じつに興味深い。
しかも、そこにイオセリアーニは必ず「笑い」を結び付けてくる。
服を脱ぎながら少女に向かっていって一撃で倒されるオバサン。
貞操帯をめぐるバカバカしいやり取りと、斬首寸前で王妃が放つ蠱惑的なウインク。
酔っぱらった将校たちの乱痴気騒ぎと、意外なる「密告者」の存在。
イオセリアーニの描く「暴力」は、常に「笑い」とセットなのだ。
彼は言っている。「暴力の直接的な表現は私には耐えられない。私としては、暴力が愚かさの表現として笑えるものになっていれば、暴力をを笑いものにできるのであれば、暴力を当然あるべき場所に位置づけたことになる」と。

― ― ― ―

もう一点、この映画で特筆すべきは、「色」の美しさだ。
イオセリアーニ作品のなかでも、というか、今まで観てきた全ての映画のなかでも、これだけ色彩の美しい映画ってあったっけ? というくらい、本作の色は美しい。
現代篇での、粘りのある闇と原色が糸をひいて絡まり合うような色調もすばらしいが(冒頭のアウトレイジっぽい男たちが集まって来るショットなど)、中世を舞台にした「王と王妃と貞操帯」のパートが特に尋常ではなく、秋色濃い山並をバックに王の兵団が帰還するショットでは、思わず声が漏れてしまった。
初期ルネサンス絵画を模倣した、技巧的で人工的なテクニカラー風の色彩設定は、パゾリーニの『カンタベリー物語』や『リコッタ』あたりを彷彿させるが、あそこまで「加工」したどぎつさはなくて、適度の自然さを保っている。ふつうに撮ったように見えるのに、色彩が絵画的に輝いているのだ。

そのなかで、旗色の「水色」だけが異様に悪めだちするよう、敢えて撮られているのもポイントだ。
この「水色」は、王軍の旗や王の身にまとうネッカチのみならず、現代篇の軍属の帽子の上部にも貼られていて、なにかしらの「権力の色」であることは一見してわかる。
と思って、家に帰ってからネットで見たら、やはり想像どおり。
この旗の水色は、グルジア・ソビエト社会主義共和国時代(1951年4月11日から1990年11月14日まで)の国旗において、共産党を表わす地色の赤にワンポイントの帯として加えられていた色なのだ。
Wikiによれば、「国旗の青色は、グルジアの晴れ渡った空、そして黒海を象徴していると非公式に考えられた」とある。イオセリアーニは、この水色を、暴力をもって君臨する権力と圧政の象徴色として映画内で際立たせてみせたのだった。

― ― ― ―

本作を観ていて、特に中盤で混乱するのは、ごちゃ混ぜで呈示される異なる時代の物語のなかに、中世の話が2本(王様が浮気した王妃を処刑する話と、サルタンが第一王妃に毒殺されかける話)あるうえ、近現代である「ソヴィエト革命前」の話と、現代篇で2度、主演のアミラン・アミラナシヴィリが浮浪者役で登場することが大きい。
イオセリアーニは当然わかっていてやっているわけで、底意地が悪いというか、ただでさえわかりにくい物語でそこまでハードルを上げてくるかとは思うが、一度観たあと、どこかのサイトであらすじを読みなおしてから再度視聴すると、今度は格段に頭にはいってくるはずだ。
動線として、故買屋とつるんでいるほうのアミランは、グルジアが共産化する「前」の時代の人で、スリをやっているうちに共産主義者のスパイの一味にされて、のちにグルジア社会主義共和国ができたら国の幹部へと出世し、やがて密告に基づくブルジョア&仲間の粛清を繰り返すようになる。一方、内戦下のジョージアで逃げ回っているほうのアミランはソ連崩壊「後」の人で、飛行機でパリへと脱出し、パリでホームレスを続けている。この二つの話をごっちゃにしないで、脳内で整理しながら観るテクニック(笑)が必要だ。

アミラン・アミラナシヴィリは、四役を演じ分ける。
あるときは、王様。
あるときは、サルタン。
あるときは、スリから成り上がった人民委員。
あるときは、しがない浮浪者。
一方、古典主義的な美貌とモディリアニの首をあわせもった、ヒロイン役のニノ・オルジョニキゼは、斬首される王妃、共産主義サイドのテロリスト、内戦下ではびこる武器職人の妻の三役を演じ分ける。
アミランが王であったころの腹心の騎士役だったダト・ゴジベダシヴィリは、グルジア篇でも側近の秘密警察長官、現代篇でも浮浪者仲間を演じていて、イオセリアーニ映画につきものの「バディ」として機能している。

ある意味、この映画は時空を超えて転生し、さまざまな立場で出逢い続ける「魂」を描いた作品ともとれるわけで、「なろう」小説と異世界転生ものの大流行によって、なぜかマルチバース先進国となった日本においては、むしろ共感をもって受け入れられるのかもしれない。
といっても、『リゼロ』や『東リベ』観てる子たちが、そうそうイオセリアーニ映画に足を運ぶことはないだろうけど(笑)。

ラスト近く、パリの街でニノ・オルジョニキゼを追いかけるアミラン・アミラナシヴィリ。
この前のシーンで、彼は画廊で「王の姿をした自分と同じ顔の肖像画」を観ている。
「どこかで会った気がするんですが」とアミラン。
(実際、内戦下のジョージアで、男はマフィアの妻とニアミスしてはいるのだが)
「言葉がわからないわ」と英語で答えて歩み去るニノ。
輪廻転生のせつなさを感じさせる、小粋でにくい演出だ。

人間はいつの時代もおろかで、争ってばかりいて、密告したり、裏切ったりの繰り返し。
それでも人々は、うまくいかない人生を生きていく。
故国への熱い想いと、民の自由を侵す権力への義憤を常に根底におきながらも、敢えて映画内で断罪するようなことはせず、ブラックユーモアをまじえて、ある種の戯画として観客に呈示する。
本当にイオセリアーニらしい一本だと思う。

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じゃい